保健室
号令の声と共に、静かだった教室は喧騒に満ちた。一斉に押し寄せる話し声、切り裂くような椅子の金属音。ズキンとこめかみが痛み、思わず顔をしかめた。
「泉、数学の宿題見せてー! ……って、どうした? 具合悪い?」
駆け寄った尚子が首を傾げる。私は曖昧な笑みを浮かべた。孫悟空の輪っかがはまったみたいに、頭がズキズキと疼く。
「朝から頭痛がして……。そのうち治まると思うんだけど」
「顔色悪いよ? 保健室行ったら」
「でも次は数学だし。ただでさえ苦手だもん、休んだら……」
躊躇っていると、尚子が強引に私の手を引っ張った。教室から廊下に出ると、喧騒が少し遠のく。ほっと息をついた私に、友達は真剣な顔で言う。
「無理しちゃダメ! 自分が自分を大事にしてあげないで、どーするの。保健室行くよ!」
「……うん」
振り向くと、教室にぽつんと佇む席が見えた。いつの間にか、一番後ろに移動された彼女の席。笑い合う皆の中で、置き去りにされたみたいだ。
私も千津ちゃんに、「無理しちゃダメ」って言えてたら……。
苦い気持ちがこみあげ、視線を逸らす。
いつか、この気持ちも薄れていくのだろうか。
それが一番、怖い気がした。
保健室の入口で尚子と別れ、中に入ると養護教諭の先生は電話中だった。先生はちらりと私を見たけれど、電話はなかなか終わらない。遠くで、休み時間の終わりを告げるチャイムが響く。
「いいえ、大丈夫ですよ。……はい、お迎えお待ちしています。今なら担任も時間が空いてますから、一緒に少しお話ししましょう。はい、失礼します」
先生は電話に頭を下げ、ふっとため息をついた。けれど顔を上げた時には、いつもの笑顔だった。
「待たせてごめんなさい。2年生の遠矢さんね。どうしたの?」
「えっと、頭が痛くて……」
「じゃあまず体温を測って。熱が無ければ、しばらく休んで様子を見ましょう」
渡された体温計を脇に挟む。電子音がして引き抜くと、やっぱり平熱だった。なんとなく後ろめたい。
先生がベッドのカーテンを引き、私に横になるよう促した。薄い上掛がトロリと私を包みこむ。外は冷たい風が吹いているけれど、ここは暖かくて、静かだ。真っ白で柔らかな保健室は、学校の中で別の空間みたい。
「ごめんなさいね、来客があるから少し席を外すわ。何かあったら、職員室に声をかけてくれる?」
私が頷くと、先生は隣のベッドにも「すぐ来て下さるって。少し待っててね」と声をかけた。それで初めて、カーテンで覆われたベッドに誰かいるのを知った。
先生の足音が遠ざかっていく。疼く頭に、静寂が心地良い。けれど薄いカーテンの隣に人がいると思うと、そわそわした。反対側に寝返りを打つ。ズキンと痛みが走り、思わず声が漏れた。
「痛っ……」
再び沈黙が満ちた時、躊躇いがちに小さな音がした。カーテンが開く音だ。もしかして、私がうるさかったんだろうか。慌てて隣を振り向き、息をのんだ。
陶器みたいに真っ白な肌。華奢な腕。
千津ちゃんがいた。
記憶の中より伸びた髪。数ヶ月ぶりに会う彼女は、痩せたように見えた。伏せた瞳からは、表情が読み取れない。声をかけたら消えてしまいそうな気がして、何も言えずに彼女を見つめていた。
身じろぎせずにいた千津ちゃんが、不意に背を向けた。そのまま行ってしまうのかとひやりとしたら、バッグを開ける音がした。おずおずと差し出された手のひらには、ピルケースが乗っている。
「これ、痛み止め。保健室では薬もらえないから、よかったら……」
ありがとう、と受け取っても、まだ気持ちがふわふわしていた。真っ白な空間の中で、何もかも夢のような。ベッドから降り、洗面台に向かう。薬を口に含み、冷たい水で飲みこむと少し気持ちが落ち着いた。疼いていた頭さえ、ちょっぴり大人しくなった気がする。
千津ちゃんはベッドに腰かけたまま、俯いていた。私も向かい側にそっと腰かける。柔らかであたたかな、千津ちゃんの気配。じんわりと嬉しさが込み上げてきた。
「……久しぶり」
呟くと、千津ちゃんが微かに微笑んだ気配がした。しばらくして、小さな声が聞こえた。
「今日、やっと学校に来られたの。……今までは、そよかぜ教室に行ってたんだけど」
「そよかぜ?」
「……テキオーシドーキョーシツ」
返事はさらに小さくて、聞き慣れない言葉に首を傾げる。千津ちゃんがバッグからノートを取り出し、小さな文字を書きつけた。
『適応指導教室』
「何これ? 塾、みたいなところ?」
物々しい文字にドキンとする。まるで、千津ちゃんが悪いことをしたみたい。
千津ちゃんは首を振り、言葉を探すように考え込んだ。
「……学校に行けない子達のための学校、かな。先生がいて、授業もあるけど、学校の授業とは違う。それぞれに合わせて、ゆっくり。皆でスポーツをしたり、遊んだりすることもある。先生も、優しい。自分のペースでおいでって、言ってくれる」
「そうなんだ、良かった」
想像との違いにホッとする。けれど、千津ちゃんは辛そうな顔をした。
「でも、みんな、何があってもちゃんと学校行ってるのにね。それが当たり前なのに。そよかぜ教室の子だって、少しずつ学校に行ってる子もいるし。自分のペースって言われても……いつまでも、このままじゃいけないって……私も、頑張ろうって……」
千津ちゃんの身体は強張ってきて、何かを堪えているように見えた。千津ちゃんこそ具合が悪そうだ。横になった方がいいんじゃないだろうか。声を掛けようとしたら、千津ちゃんが顔を上げた。その瞳は潤んでいた。
「今日、本当は教室に行くつもりだったの。私だって、みんなみたいに頑張りたかった。でも、どうしても……出来なかった。私、また逃げてしまった。ごめんなさい……」
千津ちゃんの瞳からぼろぼろ涙が溢れ出した。頼りなく歪んだ顔。
空っぽの席を思い出した。
いないけど、いる。教室にはいなくても、千津ちゃんはずっと、そこに囚われている。
私は思わず立ち上がり、その華奢な肩を撫でた。千津ちゃんは今も、こんなに苦しんでいる。
「逃げたんじゃない。そんなんじゃないよ……」
教室に、ぽつんと佇む席を想った。張り詰め、青ざめていた横顔。暗闇の底で砕け散った、陶器の欠片。
壊れてしまうくらいなら。
「自分を大事にしていいんだよ。逃げたんじゃない。千津ちゃんは、自分を守ったんだ。それでいいんだよ」
千津ちゃんは身を震わせた。哀しげな嗚咽が漏れる。私はただ、その肩を撫で続けた。
どれくらいそうしていただろう。
廊下の向こうから話し声が聞こえ、私はビクッとした。養護教諭の先生と、女の人の声。千津ちゃんが掠れた声でつぶやく。
「お母さんだ……」
「え?」
「具合悪くなっちゃって……迎えに来てもらうことになってたから」
千津ちゃんはハンカチで目元を押さえ、大きく息を吐いた。泣き顔のまま、私に笑いかける。
「泉ちゃんに会えて、よかった。……今まで、本当にありがとう」
まるでお別れの挨拶みたい。そう思って、息が止まりそうになった。
……千津ちゃんはもう、学校に来ることが無いかもしれない。
話し声はすぐそこまで来ていた。千津ちゃんがバッグに手を伸ばす。反射的に、傍に置かれた彼女のペンを握った。広げられたノートに書き付ける。
「これ、私の住所」
千津ちゃんが驚いたように私を見る。押し付けるように、ノートを渡した。
「いつでもいいから。書けるようだったら、手紙を……。書けたらでいいから。……待ってる」
千津、と名前を呼ぶ声がした。千津ちゃんはノートを受け取り、もう一度私を見た。涙が零れそうな瞳には、たぶん同じ表情の私が映っている。真っ白で静かな空間、夢の中みたいな時間。たぶん、この時をずっと覚えていると思った。潰れそうな胸の痛みも、彼女の柔らかな気配も。
「いつか……」
言いかけたまま、千津ちゃんはカーテンの向こうに消えた。私はベッドの中に座り込み、膝を抱えた。必死で嗚咽を堪える。大人達の短い会話の後、扉が閉じる音が響いた。涙が溢れ出す。
いつか。
いつか……また。
しばらくポストを覗く日々が続いた。
時間が経つにつれ、後悔が募った。
私、重たかったかな。
もう、あれが最後なのかな……。
やがて、空であることを確認するためにポストを覗くようになった頃。
真っ白な封筒を見つけた。
宛名には懐かしい小さな文字で、私の名前が書かれていた。
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