手首

 グラウンドには、冬の初めの澄んだ空気が満ちている。空は一面真っ白で、厚い雲の隙間から微かに光が零れている。

 準備運動のランニングをこなしながら、尚子がため息をついた。

 「あ〜あ、今日も寒いね。嫌だなぁソフトボール。動いてない時が寒いんだもん」

 「尚子はいいよ、球技得意でしょ。私はさっぱりだから……今日は打てるといいなぁ」

 「まや、打ったらどっちに走るか分かってる? 前回みたいにテンパって三塁に走らないようにね」

 「尚子ったら、言わないでよもう!」

 まやちゃんや尚子と笑いながら、走り終えて整列する集団に加わる。体育は隣のクラスの女子と合同なので、見慣れない顔も多い。ざわめきの中で、不意に視線が止まった。痛々しいほど短いショートカット、静かな横顔。

 春埜はるのさん。

 彼女はいつも、長袖を着ている。体が温まると皆ジャージの上着を脱いでいくけれど、彼女だけは例外だ。長袖の隙間から、手首の白い包帯が覗いた。



 「リスカしてるんだって、春埜さん」

 休み時間の教室で、そんな言葉が飛び込んできた。私は手元の本に視線を落としたまま、瞬きする。声を潜める様子もなく、女子グループの会話は続く。

 「保健委員の子が言ってた。保健室で手当てされてたって」

 「なんで切ってるの?」

 「さぁ。家もいろいろあるらしいよ。ストレス?」

 「そんなの、みんなじゃん」

 「知らないって。なんか複雑なんじゃない」

 「そういえば、4組に河野君っているじゃん? サッカー部の。付き合いだしたんだってよ。知ってる?」

 「え、嘘。誰と!?」

 始まりと同じように、唐突に話題は移り変わっていく。私は本を閉じた。春埜さんの、まっすぐ伸びた背筋を思い出す。

 あまり話したことは無いけれど、春埜さんはいつも微笑んでいる。その微笑みは穏やかで、どこか哀しい。彼女は、湖面を思わせた。全てを自らの内に沈め、静かな水面を保っている。


 自分の手首を見つめる。


 小学生の頃、カッターで指を切ってしまったことがあった。刃が走った瞬間、手先はすぅっと白くなり、涙のような赤い雫が零れた。透き通るような白、鮮やかな赤。一瞬、見惚れた。

 けれど見る間に血は溢れ、私は慌てて指を押さえた。保健室に向かう間、指先が心臓になったかのようにどくんどくんと波打っていた。指に巻いたティッシュが赤く染まり、自分が許されない過ちを犯した気がした。


 自分の手首を見つめ、カッターの刃を想像する。

 透けた血管、冷たい刃先。

 刃を握る手に力を込めて、けれど想像はそこで止まる。止めていた息を吐く。

 リストカット。その先で、彼女は何を見たのだろう。



 クラス混合で割り振られたチームはぎこちなく始まり、回を重ねるにつれ賑やかになっていく。バッターの順番が回ってこなかったことにホッとしながら、守備についた。レフトの位置に来ると、彼方で嬉々として構えるショートの尚子が見えた。

 横目でセンターを見る。

 ショートカットの彼女は、ピッチャーでもバッターでも無く、遥か遠くを見ているように見えた。真っ白なグラウンド、みんなの白い体操服。彼女の青い長袖が、白い空の下で際立つ。


 

 最近、クラスでストレスマネジメントの授業を受けた。講師はスクールカウンセラーの先生だった。班毎に話し合ったストレス解消法を黒板に書き出し、先生は言った。

 「いろんな方法が出ましたね。大事なのは、その時の自分にしっくりくるやり方を見つけることです。今までのやり方じゃうまくいかないなと思ったら、新しいやり方を身につけるチャンスかもしれません」

 まだ若い男性の先生だったけれど、穏やかな低い声には安心感があった。いつもと違う雰囲気にクラスはざわめいていて、後ろで担任が少し心配そうに見ていた。クスクス笑い合っていた男子の一人が、がばりと手を挙げた。

 「センセー、ヤクはどうですか? すぐ楽になれる方法です!」

 ぎゃはは、と複数の笑い声が響いた。非難の視線が注がれ、白けた空気が漂う。けれど先生はにっこり微笑んだ。口を開きかけた担任を制するように言う。

 「いい質問ですね」

 先生はレジュメを教卓に置き、私達に向き直った。

 「薬物も、見方によってはストレス対処法でしょう。勿論犯罪ですし、身を滅ぼす方法ですが……。僕はカウンセラーとして、薬物を使った人にも会ったことがあります。すごく真面目で、頑張り屋で、他人に頼らず自分で何とかしようとするような方だった。その方にとっては、辛苦を背負い、死なずに生きていくために辿り着いた手段が薬物だったんだと思います。薬物以外にも、そういうことがあります。過剰な飲酒、過食、自傷。いけないとは分かっていても、そうせざるを得ない背景がある。だから、絶対にダメだと否定するだけじゃ解決できない。その辛さを和らげ、生き延びるための方法が他にも無いだろうかって、そこを一緒に考えられたらと思うんです」

 話が脱線しすぎましたね、と先生は微笑んだ。静まり返った教室を見渡す。

 「どうしたらいいか分からなくなった時、誰かに話してみるのも一つの方法です。話すことは、離すことでもある。心の中から取り出して一緒に眺めることで、見えてくるものもあるかもしれません。僕のことも、気軽に利用してもらえたらと思います。一緒に考えさせて下さい」

 一瞬、時が止まったような気がした。先生の言葉が私の中で反響する。

 生きていくために辿り着いた手段。……破滅に向かうようで、本当は生に向けた希求。

 鮮やかな赤い雫と、一瞬の恍惚が甦る。

 ぎゅっと瞳を閉じた。それはとても、苦しくて切ないことに思えた。暗闇の回廊を、一人彷徨い続けるみたいに。


 

 盛り上がる内野とは裏腹に、外野は静まり返っている。センターの彼女も、グローブを構えたまま動かない。湖面のように静かな横顔。

 時が止まったような空間に、鋭い打球音が響いた。

 空を切り裂いて、白球が伸びていく。慌てて走り出したけれど、球は上空の風に煽られたようだ。予想した軌跡を逸れて落ちていく先には、グローブを構えた彼女がいた。

 「春埜さん、お願い!」

 叫んで、違和感を覚えた。彼方を見つめる彼女。その視線は、ボールを捉えているのだろうか? 白球の軌跡は、グローブに重ならない。


 唸るボールの先には、白い手首が差し出されていた。


 立ち尽くす私の目の前で、跳ね返ったボールが転がる。空に差し伸べられたままの腕。上着の袖が下がり、包帯が覗く。真っ白な空間に、じわりと広がる赤。

 「返球ー!!」

 叫び声にハッとして、ボールを投げ返した。二塁へ走りこんでいく打者が見える。遥か遠くで歓声が聞こえた。

 振り返る。彼女は腕を下ろし、ぼんやりと眺めていた。

 「大丈夫?」

 呼びかけても、彼女は動かない。彼女の体が透き通って、消えていくような錯覚を覚えた。無表情の彼女から、哀しみが溢れ出す。水面が波立つ。声にならない悲鳴が響く。


 ……消えてしまいたい。


 「春埜さん」

 私の声は彼女に届かない。虚ろな瞳が、赤く染まった包帯を見ている。

 白と赤。破滅への希求と、生への希求。

 じわりと赤が広がる。陶器の砕け散る音が耳に甦り、鼓動が早くなっていく。伸ばした手は、届かない。彼女の存在が遠ざかる。真っ白な世界に呑み込まれていく。

 

 「春埜さん」


 気付くと、彼女に向かって女性が駆け寄っていた。20代後半くらいだろうか、束ねた黒髪が背中で揺れている。見かけない顔だったけれど、胸に下げた名札を見て気付いた。スクールソーシャルワーカーの先生だ。4月の始業式で「家や学校で困ったことがあれば、相談してください」と挨拶していた。

 動かない彼女を見て、先生はそっと肩に触れた。虚ろな瞳が、ふっと揺れる。

 「……野上先生」

 私が思い出せなかった名前を、彼女はさらりと口にした。凍り付いたような空間に、あたたかな空気が少しずつ流れ込む。彼女を繋ぎとめるように、先生はゆっくりと話しかけた。

 「一緒に保健室に行きましょう」

 「……どうして?」

 「手当した方がいいわ」

 先生の視線が彼女の手首に落ちる。彼女は立ち尽くしたままだ。

 「ちょっと確認させてね。痛かったら言って」

 先生は白い手首にそっと手を添えた。軽く触れたり、動かしたりして彼女の方を見る。彼女は黙ったまま、手首を委ねている。

 「春埜、大丈夫か? 怪我したのか」

 軽い足音がして、男性の体育教師が近づいてきた。低い声を聞いた途端、夢から醒めたように彼女の顔が強張った。上着の裾を引っ張り、白い手首を隠す。野上先生は彼女を庇うように、男性教師の前に立った。

 「野上先生? 何故ここに」

 「校内巡回中だったんですが、彼女がボールに手をぶつけたのが見えたものですから。確認しましたが打撲のようです。保健室で手当してもらった方がいいと思います」

 「はぁ、ありがとうございます。じゃ春埜、保健室に。もうすぐ授業終わるから、手当が終わったら教室に戻れよ」

 彼女が小さく頷くと、体育教師は怪訝そうにしながらも戻っていった。彼女は俯き、手首をぎゅっと押さえる。

 「私、またやっちゃったんだ……」

 微かな声は震えていた。野上先生は彼女の肩を撫で、「きつかったね」と呟いた。二人は校舎に向かって歩き出す。先生が私を振り返り、軽く頭を下げた。私も慌ててお辞儀を返す。寄り添うような二人の姿が、遠ざかっていく。


 その辛さを和らげ、生き延びるための方法が他にも無いだろうかって、一緒に考えられたら……。


 スクールカウンセラーの先生の言葉が聞こえた。重なり合う二人を見つめる。

 暗闇に射す光は無く、回廊に終わりは無く。何も変わらないと思うかもしれない。それでも。

 暗闇の中で、寄り添ってくれたなら……。


 授業の終わりを告げるチャイムが響いた。言葉にならない気持ちに蓋をして、私は集合場所に駆け出す。真っ白な世界に広がる、鮮やかな赤が甦った。虚ろな瞳、震える声。そっと手首に添えられた手。


 一人で抱えないで。抱えさせないで。


 行き場の無い祈りを包むように、遥かな雲の波間から光が射していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

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