陶器

 空を見ていた。透き通った秋の空。青がしんと澄んでいて、見ているうちに吸い込まれていくような気がする。羽ばたこうとする心を、チャイムの音が引き戻す。視線を教室に戻せば、凍りついた真の表情、空っぽの千津ちゃんの席。

 もう一度、空を眺めた。四角い窓枠で切り取られた空。

 例えば籠の中の鳥は、どんな想いで空を眺めているんだろう。すぐそこにあるのに、永遠に届かない自由を。



 「また、木原さんの分までやるつもり?」

 授業の後、桜木さんから声をかけられた。班毎のグループ学習で、一人ずつ分担を割り振ったところだった。

 「最初から、そういう訳じゃないんだけど……」

 どんな言葉が正解なんだろう。千津ちゃんと桜木さんの間で、私はゆらゆらとバランスをとろうとする。口ごもった私を、桜木さんはまっすぐ見据えた。

 「遠矢さんは優しいから、代わりにやってくれるんだろうけど。本当は自分が休んだ時にどうするかって、木原さん自身が考えることなんじゃないの? 木原さんは、遠矢さんが自分の分までやってくれてること、どう思ってるのかしら」

 ざくりと切りつけられたような気がした。

 欠席した千津ちゃんの代わりを私が引き受けるのは、暗黙の了解みたいになっている。千津ちゃんがいてもいなくても、気に留めない男子。桜木さんの小さな溜息。「木原のこと、よろしくな」。そう言った先生の言葉が纏わりついて、心がずしんと重くなる。私は何でもない振りで、二人分の作業をする。

 休み明けの千津ちゃんは、顔が強張っている。不在の空白を埋めようと、頑張っているのが伝わってくる。触れてはいけないような気がして、私が代わりをやっていることは何も言えずにいる。

 ……本当は、千津ちゃんはどう思っているんだろう。

 考え込んだ私の頭に、桜木さんの声が響く。きっぱりとした口調。

 「発表当日に休んだら、誰かが代わりに発表しないと仕方ないけど。でも、それまでの調べたりまとめたりする作業は、本人が出来るはずじゃないの? やろうと思えば家でも、休日でもできることじゃない。遠矢さんから言いにくければ、私から言ってもいいけど」

 「でも、千津ちゃんは……」

 言いかけて、迷った。学校を休むっていうことは、それくらい体調が悪い時期だっていうことだ。でも、千津ちゃんの病気のことを勝手に伝えていいんだろうか。

 「病気なんでしょ」

 私の迷いを見抜いたかのように、桜木さんはさらりと言った。


 知っていたんだ。


 今までの、桜木さんの言動が甦った。冷ややかな眼差し。


 知っていたなら、なぜ。


 「すぐに治らない病気なら、尚更本人がどうするか考えるべきでしょう。病気を理由に、なんでも免除される訳じゃないんだから。周りが『あの人病気だから』って特別扱いするの、本人にとってはどうなの?」

 違う、と言いかけて、言えなかった。桜木さんの声は揺るぎ無くて、有無を言わさぬものがあった。

 特別扱い。

 一瞬怒りが過ったけれど、桜木さんの冷静な顔を見ていたら、一理あるかもしれないと思った。「正しい」はたくさんあって、私にはどれが正解なのか分からなくなる。それでも、周りが勝手にやるんじゃなくて本人の考えを聞くべきだ、というのは納得できる気がした。

 「……私、千津ちゃんに聞いてみる。今まで、確認せずにやっちゃってたから。それで、手伝いが必要なら、手伝うことにする」

 考えた末にそう言うと、桜木さんは一瞬黙って、にっこり笑った。

 「遠矢さんだけでやらなくていいから。何かあれば言って」

 私も微笑み返した。ゆらゆら揺れていた体が、収まりどころを見つけてホッと息をつく。

 桜木さんは、単純に千津ちゃんを嫌ってる訳じゃないんだろうなと思う。桜木さんの言葉は冷たくも聞こえたけれど、どこか切実だった。桜木さんがどうしても譲れないことなんだろう。どうすればいいのかは分からないけれど、私が千津ちゃんと話し合うことが突破口になればいいと思った。この時は。


 翌日、千津ちゃんは教室に現れた。まだ日焼けが残るクラスメイトの中で、千津ちゃんは一人、透き通るような肌をしている。欠席した授業のノートを差し出すと、「いつも、ありがとう」と小さな声が返ってきた。

 「社会のグループ学習、もう分担決めちゃったんだ。ごめんね、千津ちゃんの分も勝手に決めちゃって」

 「ううん、休んだ私が悪いんだから」

 何気ない会話を交わす度、私はふと考える。どうして私も千津ちゃんも、謝ってばかりいるんだろう。何がそんなにいけないんだろう。

 「あのね」

 言葉を探して黙り込むと、千津ちゃんが怪訝そうに私を見上げた。もっと、さらっと話すつもりだったのに。なんだかますます、緊張してしまう。

 「あの……社会ね、それぞれ分担したところを調べて、班毎にまとめて発表するんだけど。もし、千津ちゃんが授業休んだ時はさ、どんな風にしたらいいかな」

 哀しそうに、千津ちゃんは瞳を伏せた。

 「……ごめんね、いつも私の分まで泉ちゃんがやってくれてるんだよね。迷惑かけちゃって」

 「いや、そういう訳じゃないよ」

 俯いた千津ちゃんに焦って、私はますます言いたいことが分からなくなってしまう。

 「この前、桜木さんと話してて、千津ちゃんに聞きもせずに私が代わりをやっちゃってるなぁって、思ったの。どうするかは本人が決めるべきだって、勝手に決めるのは本当に千津ちゃんのことを考えてることなのかって言われて、確かにそうだなぁって。いや、桜木さんは千津ちゃんのこと怒った訳じゃなくて……」

 しどろもどろになる私の話を、千津ちゃんは真剣に聞いている。なんとか伝えたくて、私は言葉を探し続ける。

 「私、千津ちゃんに申し訳ないと思ってほしくなくて。私が勝手にやって、千津ちゃんに罪悪感を持たせるのは違うよなぁって。ちゃんと千津ちゃんがどうしたいか聞いてみよう、それで決めたことなら、お互い苦しくないかなって思ったんだ」

 千津ちゃんは、ちょっと黙った。

 「……ありがとう、泉ちゃん」

 千津ちゃんはまっすぐ私を見た。いつも伏し目がちな千津ちゃんの、強い眼差しにドキッとした。

 「私、自分の担当分は何とかする。だから代わりにやらなくて大丈夫。でも、もし発表当日に休んじゃったら、代わりに発表をお願いしたいの。できれば、いつも泉ちゃんじゃなくて、班の誰かにお願いできたらいいんだけど」

 「あ、それは大丈夫。桜木さんも、『何かあれば言って』って言ってたし」

 桜木さんの名前が出ると、千津ちゃんの顔がうっすらと陰った。慌てて私は付け加える。

 「桜木さんも、千津ちゃんのこと気にしてたのかも。もしかしたら、手伝いたいって思ってくれてたのかも。私、そこまで気が回らなくて、いつも自分が引き受けちゃってたから。なんか悪かったなぁって」

 桜木さんが、そんなこと思ってるはずないのに。薄っぺらで上滑りな私の言葉に、千津ちゃんはきゅっと口を結んだ。

 「ごめんね。……私、もう迷惑かけない。ちゃんと発表するから」

 思いがけない強い口調に、私は黙って頷いた。結局、またお互いに謝っている。取り返しのつかないことをしたような気がした。けれど、何処で間違えたのかは分からなかった。


 千津ちゃんは、それから欠席が減った。次のグループ学習の授業では、前もって自分の担当分を調べてきていた。

 「すごいね。千津ちゃんが一番先に終わりそう」

 「いつ休んじゃうか分からないから……。ごめんね。前から、こんな風に前もって準備しておけばよかったんだけど」

 私たちが喋っていると、いつもは黙ってしまう桜木さんが口を開いた。

 「木原さん、もう発表用の模造紙にまとめておく? 一人ずつスペースを割り振っているから、出来た人から清書してしまうと楽かも」

 桜木さんは、何事も無かったように笑っている。ずっと、千津ちゃんに話しかけずにいたのに。

 私は言葉が出なかった。でも、千津ちゃんは桜木さんに笑顔を返した。

 「うん、そうする。ありがとう、桜木さん」

 胸の奥がざわざわした。鉛筆を握った千津ちゃんの、細い手首。張りつめた頬。あの日、力強く私を見返した彼女の瞳には、うっすらと隈ができていた。

 声にならない悲鳴を聞いたような気がした。柔らかな心が押し潰されていく。傀儡みたいに、手足だけが動く。


 「……大丈夫?」

 小声で問いかけた私に、千津ちゃんは何でもないように言う。

 「何が?」

 千津ちゃんは笑ったけれど、いつもの優しい微笑じゃなかった。張り付いたような、笑顔。

 生気の無い青白い肌。彼女は、まるで陶器の人形のように見えた。

 温もりを失った、華奢な体。凍りついた眼差しは、遥かな空を見ている。救いを求めるように、虚空に差し出された手。

 私は何もできないまま、彼女を見ていた。



 発表当日。

 千津ちゃんは、学校を休んだ。

 千津ちゃんの代わりに、桜木さんが発表してくれた。



 翌週になって教室に現れた千津ちゃんは、まだ顔色が悪かった。

 「大丈夫なの?」

 「熱が出ちゃって……。ごめんなさい。休んじゃいけなかったのに」

 千津ちゃんは張りつめた顔で、桜木さんの前に立った。桜木さんは、席に座ったまま千津ちゃんを見上げる。

 「桜木さん、ごめんなさい。休んでしまって。代わりに発表してもらって……」

 千津ちゃんの声は、震えていた。私は思わず口を挟む。

 「体調のことは仕方ないよ、わざとじゃないんだし。千津ちゃんが頑張ってたの、皆知ってるって」

 同意を求めるように桜木さんを見て、私の言葉は途切れた。

 冷ややかな眼差し。


 「結局、また休んだのね」


 淡々とした声に、千津ちゃんの顔がいっそう強張る。

 発表当日、休んだら仕方ない。そう言っていたのに。

 ……最初から、許すつもりは無かった? 

 無理を重ねて頑張る以外、無かった?


 「なんで狙いすましたように熱が出るの? ストレス? そんなの、言い訳にならないでしょう。病気だから何? 人並みに出来ないなら、皆以上に頑張らないといけないんじゃないの? もっと自分をコントロールしなきゃ」


 桜木さんは、仮面みたいな無表情だった。まるで誰かの言葉をなぞるように、感情のこもらない声だった。


 前に、桜木さんの話をまやちゃんから聞いた時。最後に、まやちゃんは言った。

 「征子ちゃん、親が厳しいらしくて。うちのお母さんが言ってた。家ですごく怒られてるみたいって。成績もいいし、真面目だし。親が怒るようなこと、何もしてないのに。……出来て当たり前、なんだろうね」

 冷ややかな眼差し。冷たい口調。桜木さんの背後に、誰かの面影が重なる。


 私は許されないのに。


 淡々と押し潰されてきた、声にならない桜木さんの怒り。

 何か言わなきゃと思うのに、私まで凍りついたように動けない。心臓の鼓動だけが響く。


 「この先もずっと、一人だけ逃げるつもり?」


 立ち尽くす千津ちゃんの、真っ青な顔が見えた。握りしめた手のひらが、細かく震えている。心と体を辛うじて繋いでいた糸が、ぷつんと切れる。

 陶器の人形が、ぐらりと傾いだ。救いを求めるように、虚空に差し出された手。その足元には、果てし無い暗闇。


 「千津ちゃん」


 私が必死に伸ばした手をすり抜けて、彼女は落ちていく。凍り付いた瞳から、ひと粒の涙が零れていった。


 バランス、バランス。バランス崩せば、落っこちる。


 暗闇の底で、陶器が砕け散る音がした。



 次の日、千津ちゃんは学校を休んだ。

 次の日も、その次の日も。

 私は、空っぽの席を見つめる。


 もう、千津ちゃんが教室に現れることは、無かった。

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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