命の流れ
久しぶり、と微笑むおばさんにペコリと頭を下げ、お母さんに続いて廊下を進む。通された懐かしい部屋には、見慣れないベビーベッド。不思議な気持ちで覗き込むと、布団の隙間から小さな寝顔が見えた。
「可愛いわねぇ」
目を細めたお母さんの横で、私は曖昧に笑う。目の前にいるのは、ふにゃふにゃと頼りない生命体。ほわほわした髪、薄い瞼、あまりにも小さな手。なんだか人形みたいで、壊れてしまいそう。
そんな心の声に返事をするみたいに、ボソッと呟きが聞こえた。
「1か月も経つとまだ人間っぽくなったよね。今は、産まれた頃の写真見たらギョッとする。黄疸も出てたし、やせ細ってたし。あの頃はよく可愛いと思えたなって」
「奈留美ったら。何言ってるのよ、もう」
奈留美こと奈留ちゃんは、おばさんに咎められても意に介さない。淡々とした物言いが可笑しくて笑ってしまう。お母さんになっても、奈留ちゃんは奈留ちゃんだなぁとホッとした。
今日は、出産のお祝いに来ている。
近所に住んでいた奈留ちゃんが、赤ちゃんを産んだのだ。一人っ子の私にとって、奈留ちゃんは歳の離れた姉みたいな存在だった。就職して県外に出て、いつの間にか結婚してからは会う機会も減った。里帰りして出産したと聞き、お母さんに連れられ赤ちゃんを見に来たのだ。
「奈留ちゃん、おめでとう。これ、お祝い。ベビー服なの」
「ありがとうございます」
お母さんが差し出した包みを、奈留ちゃんは神妙な顔で受け取る。もしかしたら奈留ちゃんも、もぞもぞするような違和感を感じているのかもしれない。髪を黒に戻し、コンタクトではなく眼鏡をかけた奈留ちゃんは、高校生の頃みたい。お互いの家を行き来して遊んだ奈留ちゃん。漫画を貸し借りしたり、トーンの貼り方を教えてくれたり。赤ちゃんを抱く奈留ちゃんを、私はうまく想像できない。会話のきっかけが掴めないまま、神妙に黙っている。
「
「寝てると天使なんだけどねぇ。さっきまで大泣きしてたのよ。奈留美と二人がかりで、やっと寝かせたの」
突然、会話を遮るように奈留ちゃんが立ち上がった。
「
ぽかんとした私を、奈留ちゃんはまっすぐ見つめる。
「お茶してくる。泉、付き合って」
ちょっと、と制するおばさんの声を無視して「起きちゃったら携帯に連絡して」と言い放つ。振り返りもせず歩きだした奈留ちゃんを、慌てて追いかけた。
奈留ちゃんはすたすた歩き、近所にできたカフェに入っていった。木造の一軒家は、塀に囲まれた未知の空間だ。庭石の先、分厚い木の扉が開くと、澄んだ鐘の音が響いた。初めてのお店にドキドキしながら、奈留ちゃんに続く。ぽつんぽつんと置かれたテーブル席の中で、奈留ちゃんは迷いなく窓際に座った。向かいに座ると、一人がけのソファーがゆったり私を包み込む。大きな窓から、庭いっぱいの紅葉が見えた。青々とした葉っぱが、音も無く風に揺れる。店内にはBGMも無くて、鳥のさえずりが遠く聞こえた。
「ルイボスティー」
「えっと……カフェラテ、で」
近づいてきた店員さんに注文を終えると、沈黙が満ちた。水の入ったグラスに口をつける。仄かにレモンの香りがした。
「あ、お財布持ってこなかった」
「奢るよ、付き合ってもらったんだから。産後、産婦人科以外では初めての外出なんだ。泉と会うのも久しぶりだし、チャンスだなって」
奈留ちゃんは小さく笑った。左頬に馴染みの笑窪が見えて、昔の奈留ちゃんと重なる。
「お母さんになったんだよね。なんか、不思議」
正直な気持ちを言うと、奈留ちゃんも大きく頷いた。
「ほんとだよ。出産した途端、初対面の助産師さんから『お母さん』って呼ばれてさ。『そのうち子どもの泣き方でオムツかミルクか分かるようになる』とか言われたけど、全然分かんないし。自分から母乳が出るのもびっくりだし、やたらお腹空くし、牛になった気分」
奈留ちゃんは大真面目だったけど、私は吹き出してしまう。昔から、奈留ちゃんはちょっぴりズレている。私はそんな奈留ちゃんが好きだった。
「赤ちゃん育てるのって、大変?」
「大変。2,3時間おきに授乳するんだけどさ。授乳しても泣き続けて、延々抱っこ。どうにかベッドに置けた、と思ったらすぐ次の授乳だもん。もうね、2時間連続で眠れるなら1万円出す。3時間連続で眠れるなら、10万円出す!」
「……凄いね」
私には想像もつかないけれど、奈留ちゃんが一生懸命頑張っているのは伝わった。奈留ちゃんの手首は、青くなっている。抱っこ続きで腱鞘炎になりかけているのだと、おばさんが言っていた。
店員さんが、そっと飲み物を運んできた。それぞれの前に置かれたカップから、ふわりと湯気が立つ。カップを傾けると、カフェラテのふわふわな泡が口元をくすぐった。
「静かだねぇ。……なんか、ホッとする。こんなこと言ったらダメかもしれないけどさ」
向かいで奈留ちゃんが呟いた。すっぴんの肌に、淡く目の下の隈が見える。
「ダメじゃないよ。それだけ気が抜けないんだろうね。あんなちっちゃな赤ちゃん、油断したらどうにかなっちゃいそう。私だったら、すごく怖いと思う」
「怖い、か……」
何の気なしに言った私の言葉に、奈留ちゃんは考えこんだ。余計なことを言ったかと焦ったけれど、しばらくしてポツリと言った。
「怖いっていうなら、お腹の中にいる時の方が怖かった。全然様子分からないし、ちゃんと元気にしてるかなって。胎動が伝わるようになるとホッとしたけど、今度は『しばらく胎動が無い気がする』って心配になったり。ちゃんと出てきてくれて、良かった」
「そうなんだ……」
お腹の中に赤ちゃんがいるって、どんな感じなんだろう。ピンとこないけど、奈留ちゃんの語る言葉の重みは伝わった。出産してからも大変だけど、出産するまでも大変だったんだ。
「普通はこんな風に思わないんだろうけどね。私、前に流産したんだ。だからそんな風に思っちゃったんだろうね」
奈留ちゃんは瞳を伏せて、何でもないことのように言った。さらりと言った分だけ、パクリと開いたままの傷口が見えるようだった。
私はカップを持ったままポカンとして、慌ててカップをソーサーに置いた。
流産。
何か返さなきゃと思うけれど、言葉が浮かばない。
奈留ちゃんは一転、笑った。
「ごめん、中学生にする話じゃなかったね。……泉の方は? 美術部入ったって言ってたっけ?」
「何、それ」
奈留ちゃんが私を気遣って会話を変えようとしたのは分かった。それに乗っかれば、少なくともこれ以上奈留ちゃんを傷付けずに済むとも、思った。でもなんだかすごく腹が立って、気付いたら言っていた。
「中学生だから、何? 関係なくないよ。だって、命のことでしょう。私だって関係ある。年齢とか、関係ないよ」
向かいで奈留ちゃんはポカンとして、それからゆっくり笑った。馴染みの笑窪がぽくんと広がる。私たちを見守るように、庭の紅葉が優しく揺れている。
奈留ちゃんが流産したのは、妊娠が分かってすぐの頃だったらしい。
妊娠検査薬で反応が出て、産婦人科を受診し妊娠が判明した。卵があると言われても、白黒のエコー写真は何が何だかさっぱり分からない。まだつわりも無いし、ピンとこない。
そんな中、数回目の妊婦健診の時に「この卵は育たないかもしれない」と告げられた。
「変な話だけど、その時初めて妊娠が実感できた。ここに卵があるんだって。一生懸命生きようとしてる、命が」
妊娠初期の流産には、卵の事情も関係する。ダメだったなら、もともと育つことができない理由があるのだろう。そう自分に言い聞かせたけれど、納得はできなかった。どうにかして生き延びてほしいと祈った。自分と繋がっている命を、守りたかった。
けれど、卵は流れてしまった。
「どうしてかなぁって考えた。普通に産まれてくる赤ちゃんはいっぱいいるのに、なんで私の赤ちゃんは……。頭では、そんな風に考えるのは違うって分かってるんだけど。私のせいなのかなっても思った。あの子が別の母親を選んでいたら、もしかして違っていたのかなって。ずっと苦しかった。……でも、あの子のおかげで気付いたこともある」
奈留ちゃんは言葉を切り、うーん、と上を見上げた。
「唐突だけど。泉は生理、もうきた?」
「……うん」
「そっかー。……私、生理ってすごく嫌だったんだ。なんか気持ち悪い感じがして。生理痛も酷かったし、なんで女ばっかりこんな思いしなきゃいけないんだって思ってた。早く無くなればいいのにって」
私はテーブルの木目に視線を落とす。口を開きかけたけれど、心がざわざわして、やっぱり言葉にならない。
初めてそれがきた時。
私は自分が変質してしまったように感じた。自分の身体なのに、見知らぬもののようだった。
月の穢れ。昔はそう呼ばれていたのだという。その感覚が、痛いくらい分かった。これからずっと、この身体で生きていかねばならない。それが苦しくて、真っ白だった昨日の自分に戻りたかった。
「でもね、それが……なんかちょっと、変わったの。見方というか、考え方というか。うまく言えるかわかんないけど」
奈留ちゃんは一口、お茶を飲んだ。それからゆっくり語りだした。心が沁み出るように。
今まで、生理とか妊娠とか、私の中でバラバラだった。でもそれが、一つの流れなんだって分かったの。
からだには、月の満ち欠けみたいな巡りがある。ゆっくりと月が満ちて、導かれるように重なりあって……奇跡みたいに命が宿る。私たちのからだには、尊い命の源がある。そう思ったら、なんだか愛しくなった。
命を授かるのは当たり前じゃないし、命の全てがこの世界に辿り着けるわけでもないって……あの時、初めて知った。それは誰にも、もしかしたら神様にも、どうにもできないことなのかもしれない。でも、だからこそ、それは輝いてるんだ。
これまで出会った人々、私に繋がるいろんな命があって、その先に私がいて、あの子がいて、波留美がいる。ひとつひとつの命が重なりあって、未来へ向かう命の流れがある。私の命が尽きる瞬間にも、何処かで誰かの産声が上がる。同じ処からきて、同じ処に還っていく。みんな繋がってるの。
あの子は戸籍にも残らないけど、消えた訳じゃない。あの子は私の一人目のこどもだよ。あの子がきてくれたから、今の私や、波留美がいるんだ。
「そうだね……きっと、そうだね」
私はなんだか胸がいっぱいになって、そう言うのがやっとだった。奈留ちゃんの想いを刻みつけるみたいに、ただ頷いていた。
奈留ちゃんはしばらく黙っていた。疲れた顔だったけど、その瞳には強い光があった。 奈留ちゃんは、命と向き合っているんだ。赤ちゃんと過ごす今は、想いがぎゅっと詰まった特別な時間なんだ。きっと。
窓の外はどこまでも明るい。生い茂った紅葉の隙間から青空が覗き、きらきらと光が零れる。
私は命の流れを思った。ここに生きている私だけじゃなくて、きらきらと輝く流れの中に、みんないる。そう思ったら、怖いことは何も無いような気がした。穏やかな光が溢れて、優しい風に包まれて、時間は甘やかに満ちていく。
奈留ちゃんが大きく伸びをした。
「さぁて、帰ろうか。授乳の時間だ」
「時計見なくても分かるの?」
「胸が張ってくるから。そろそろだなって」
言われてみれば、スレンダーだった奈留ちゃんの胸は、小山みたいに堂々としている。離れていても赤ちゃんと繋がってるんだなぁと、私は感心してしまう。奈留ちゃんは、すっかりお母さんなのだ。
お会計を終えて外に出ると、奈留ちゃんは再びずんずん歩き出した。背後で、澄んだ鐘の音がする。さっきまでの静けさが嘘みたいに、外はいろんな音で溢れている。なんだか別世界から戻ってきたみたいだ。
「里帰りって、いつまで?」
「まだしばらくいるよ。旦那も仕事忙しいし、ゆっくりさせてもらおうかなって」
「じゃ、また来るね」
奈留ちゃんの家が見えてきた時、奈留ちゃんは不意に立ち止まった。そして会話の続きみたいに、さらりと言った。
「ほんとは、今も怖い。真夜中に波留美があんまり静かに寝てると、ちゃんと生きてるのかなって思う。突然いなくなっちゃうんじゃないかって、怖くなる」
前を向いたままの奈留ちゃんの表情は、見えない。
私は手を伸ばして、ぎゅっと奈留ちゃんの手を握った。じんわりと体温が伝わる。命の温もりだと思った。
ここにいるよ。
心の中で呟く。
奈留ちゃんがいて私がいて、一人目の赤ちゃんも、波留美ちゃんもいる。大丈夫。見守ってくれてる。みんな、繋がっている。
手を繋いだまま、私たちは歩き出す。
玄関のドアを開けると、赤ちゃんの泣き声がした。
「お帰り。ちょうど今、起きたのよ。おっぱいの匂いがしたのかしらね」
おばさんの声に、奈留ちゃんはふふっと笑った。急ぎ足で部屋に向かう。
思ったよりずっと、力強い泣き声。目を覚ました波留美ちゃんは、嬉しそうに奈留ちゃんを見上げた。きらきらした瞳。
奈留ちゃんは波留美ちゃんを抱いてソファーに座り、当然のように服をはだけた。白い胸に、波留美ちゃんが一生懸命むしゃぶりつく。胸に添えた奈留ちゃんの指を、小さな手がぎゅっと握りしめる。
確かに、生きている。一緒に生きている。なんだか、すごく愛しく思えた。
授乳が終わったら、抱っこさせてもらおう。
奇跡みたいにこの世界にやってきた、小さな命。その温もりを刻むように、しっかりと抱きしめたいと思った。
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