微塵子
金木犀の季節になった。柔らかな陽射し、透き通った青空。風が運ぶ秋の気配。
今日も私たちは理科室に辿り着いた。顕微鏡を組み立てる真を眺めがら、私はぼんやりと教室の風景を思い出す。
体育祭の後、桜木さんは千津ちゃんへの態度をはっきりと変えた。
私とは話をするけれど、会話に千津ちゃんが加わると口をつぐむ。
冷ややかな眼差し。小さな溜息に、千津ちゃんの頬が強張る。
千津ちゃんにノートを見せるのは、昼休みだけに変わった。桜木さんが部活の自主練習でいない時間。
千津ちゃんは体を縮め、目を伏せる。何も悪いことはしていないのに。
理路整然として、無駄が無い。常に正しく揺らがない、桜木さんの世界。
それを守り抜くための、努力や苦労もあるんだろう。
だからこそ。桜木さんの中で、千津ちゃんの存在は許されない。
千津ちゃんの中で糸が張りつめていく。心と体が少しずつ不調和を奏で始める。私は傍らで、危うく揺らめく彼女を見つめているだけだ。
真はレンズを調整し、ピントを合わせていく。
遠すぎず、近すぎず。お互いの最適な距離。
人と人とも、こんな風に調節できればいいのに。
橋本君の後ろの席になって、石崎君達との距離が近づいて、真の存在も教室で少し変わった。
石崎君の鋭い口調。坂上君の嘲笑。橋本君の伏せた瞳。
真の瞳は何も映さない。塞がれた耳には、もう何も届かない。彼は教室から切り離されて、透き通っていく。
石崎君達と真を見ながら、気付いた。
橋本君だって寡黙だ。彼らと真との間で、橋本君は戸惑うように黙っている。石崎君達との会話も、主に聞き役だ。微笑んで、時折相槌を打つ。沈黙が許されている。
硬く閉じた真の口元。微笑を浮かべた橋本君の口元。
何が違うんだろう? 真の存在は受け入れられない。
相槌。愛想笑い。雑談。私たちが自然に身につけていくもの。
真は沈黙している。移り変わる会話は速すぎて、繋がる糸口が見つからない。相手の関心と自分の関心は重ならない。何を肯定すべきか、何は否定すべきか、分からない。みんなの当たり前が分からない。困惑も哀しみも押し込めて、真は無表情のまま沈黙している。
それじゃいつまで経っても馴染めないよって、言う人もいるだろう。
心を無視して、知らないことでも知っている振りをして、同じだよって頷いて誤魔化して、笑えなくても無理やり笑う。そうすれば……。
でもそれは、本当に真なんだろうか。
「見えた」
真が呟く。
ぼやけて得体の知れなかった存在が、不意にくっきりと現れる。思いがけない美しさに息を呑む。
「分からない」と閉じてしまえば、出会えない世界。
顕微鏡を覗く。
透明な丸っこい体。お腹で健気に動くひらひらは、
神様が細やかに丁寧に作り上げたような、命。
「これ、何だろう。背中のあたり……何かある」
スケッチしながら指さす。黒い丸が二つ袋の中に入っていて、さやえんどうみたい。
真がノートを覗きこみ、間近で見る瞳に私の呼吸が止まる。
耳元で囁く低い声。
身体を電流が走り抜ける。
「耐久卵」
「……え?」
「卵」
「微塵子って、卵産むの? 分裂するのかと思ってた」
「分裂はしない。普段は単為生殖をして、単為生殖卵ができる。これは、有性生殖をした耐久卵」
真はさらりと言ったけれど、私はたじろいでしまう。
有性生殖。雄と雌……。
真を見ながら、考えてしまう。
少し
教室の中にはまだ幼い姿の男子もいるけれど、背の高い真は既に変化を迎えている。
目に見える変化もある。たぶん、見えない変化も。
私の思考はストップする。その先は踏み込めない。なんだか、怖い。真が見知らぬ人みたいに思えてしまう。
スケッチしながら考える。
この微塵子は、雌なのかな。
有性生殖。自分と全く別の存在を受け入れるのは。変化していくのは。
……怖くは、なかったのかな?
桜木さんと千津ちゃん。石崎君と真。真と、私。
異質。
受け入れ難い異質は、折り合いがつかないまま。私たちはぐるぐると廻るばかり。
変化しないといけないんだろうか?
どうして、今の自分のままじゃいられないんだろう?
「単為生殖の方が、いい」
思わず呟いていた。
沈黙の中で、真の視線を感じた。目を伏せる。
「自分だけで……自分と同じ生きものだけと一緒にいられたら、いいのに」
同質なままで。今日と同じ世界のままで。
そうすれば、傷つくこともないんじゃないかな……。
「単為生殖だけじゃ生きられない」
私の思考は、真っ直ぐな声に突き破られた。
窓辺の静かな陽射し。彼の仮面のような顔を柔かな光が彩る。いつか見た白亜の像を重ねた。深い瞳。
「微塵子は環境が悪化すると有性生殖をする。遺伝的多様性。新たな遺伝子に、生き残る可能性を賭ける」
「……強い個体じゃなくて、弱い個体が生まれるかもしれなくても?」
教室の光景が浮かぶ。
縮こまる千津ちゃんの背中。透き通っていく真。
机の下で、私は両手を握りしめる。
真が淡々と問う。
「弱いって?」
「えっと……小さかったり、過敏だったり、とか」
「何が強くて何が弱いかは分からない。巨大な恐竜は滅びたけれど、小さな哺乳類は生き延びた。過敏さは、環境の変化を敏感に察知する賢さかもしれない。どんな環境にも適応する絶対の『強さ』は無い。だから遺伝子は他者を取り入れ、変化を求め続ける」
何が強くて、何が弱いかは分からない。
私は考え込んでしまう。
多様性。……同質ではなく異質が、必要とされるのだろうか。
無機質な制服の群れ。幾つも並ぶ同じ教室。
この世界で、私たちの多様性の意味は?
唐突に真が言った。
「微塵子は危険を感じると角が生える」
「は?」
「角を生やして少しだけ頭を大きくすると、天敵のボウフラの口に入らなくなる」
「すごい!」
「でも角が生えるには丸一日かかる」
「いきなり敵が目の前に現れたら?」
「間に合わない」
「ダメじゃん」
微塵子の必死の試みは、無駄で滑稽に思えた。思わず笑ってしまう。
真は首を傾げた。
「……進化の途中かもしれない」
笑いが止まる。
微塵子の、小さな小さな角。
有性生殖を繰り返して、自分の可能性を探して、変化し続けているんだろうか?
顕微鏡の世界で、微塵子は力強く泳ぐ。可能性に満ちた命を抱いて。
私たちは、それぞれに試行錯誤を繰り返す。自分として生き抜くために。
無駄のようで、無意味なようで。
弱いようで、間違いのようで。
でも本当は、何が強くて何が正しいか分からない。全ては神様からのプレゼント。
私たちは、異質でも許されるのだろうか?
真とこんな風に話していることを、不思議に思った。教室では沈黙を守る彼。
誰とでも話ができる人もいる。皆の関心を集めて、誰もが首肯く言葉で。
真の言葉は、誰とも違う。
未知で、難解で、偏っていて。
けれど、私にまっすぐ響く。
透き通る彼に手を伸ばす。身体の中に磁石があるみたい。引き寄せられるのは、私に無いものが彼に在るから。
どうか、あなたらしく生きて。
その先で、あなただけの可能性を広げて。
完成したスケッチの一部を消して、書き直す。
少しドキドキしながら、真に差し出した。
……実物と違ったら、怒るかな?
真は黙ったまま。
けれど、その口元が微かに微笑んだ。
小さく波の音が聴こえた。
寄せては返し、この胸をあたたかく満たす。
ノートの中で微塵子は、懸命に頭を尖らせる。
微塵子の角。
小さくて大きな可能性。
新しい明日がくれば、未知の可能性が花開く。
そよそよとカーテンが揺れ、柔らかな陽射しが理科室に踊る。愛しい命の試みを、神様が優しく見守っているような気がした。
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