体育祭
吸い込まれそうに青い空。一列に並んだ私たちの前には、どこまでもグラウンドが広がっている。どくんどくんと鼓動の音がする。
永遠に思えるような一瞬。
響き渡るピストルの音を合図に、気付けば駆け出している。自由に駆け回れたら素敵だけど、実際はぐるぐると同じ風景の中を回るだけだ。それでも、踏み出す一歩に力を込める。駆け抜けた、その先の風景が見たいんだ。
体育祭当日。千津ちゃんは、休んだ。彼女が出るはずだった50M走の代走者を出すよう言われ、教室の隅に女子だけ集まった。
「出たい人、いますか」
クラス委員の問いかけに、皆困ったように笑う。
体育祭の練習が始まると、千津ちゃんは目に見えて辛そうだった。太陽がじりじりと白い肌を焼く。それでも皆に合わせて、一生懸命掛け声を出していた。
「私、出てもいいけど」
桜木さんだった。淡々とした声は、よく通った。
「練習も休んだりしてたものね。無理だったんじゃない。……最初から、出なければいいのに」
小さな呟きが、みんなに浸透していく。
体育祭明けの教室が浮かんだ。恐縮しながら謝る千津ちゃんに、桜木さんは面と向かっては何も言わない。気にしないで、と言葉を掛ける。
でもきっと、小さく溜息をつく。言外の言葉は千津ちゃんを静かに切り刻む。何も言えずに俯いた彼女の、強張った頬。握りしめた細い指。
バランス、バランス。
いつもの呟きが木霊する。
……だけど。
「えっと、私が出るよ」
強く背中を押されたみたいに前のめりになりながら、気づいたら言っていた。桜木さんが黙って私を見る。強い眼差し。心臓がばくばくして、舌がもつれそうだ。
「あの……50M走の前、吹奏楽部のマーチングでしょ。後片付けとかあるだろうし、大変じゃないかなって」
桜木さんの穿つような瞳。嘘は、容易く見破られそうだ。握りしめた拳に、汗が滲む。言葉を継げない私に、桜木さんが口を開こうとした時。
「それがいいんじゃない。パーカッション、運ぶの大変だから時間かかるだろうし」
まやちゃんだった。ニコニコと声をかけられ、桜木さんは口をつぐむ。険しい瞳が私を一瞥した。
「……そうね。じゃあ、遠矢さんで」
本当は違う言葉を言いたかったのであろう桜木さんの、その一言で解散になった。ホッと息をつく。なんだかぐったりして、既に50M走を走り終えた気分になった。まやちゃんがそっと私に微笑む。ありがとう、を瞳で伝えた。
グラウンドのコーナーを曲がりながら、既に自分の息が荒いのに舌打ちしたくなる。序盤でないと勢いは出せない。先頭目がけて、食らいつく。
問題は、50M走では無かった。50M走を走って間もなく、もともと出る予定の500M走があったことだ。
運動不足の足が悲鳴を上げる。奥歯を噛みしめて、前だけを見る。私以外の皆はまだ、余裕で走っているように見える。
桜木さんの冷ややかな眼差しが甦る。
「最初から、出なければいいのに」
余計なことだ、とその瞳は言っていた。皆と同じように出来ない人がいるから、余計な荷物を背負わなければいけないのだと。
最初から、居なければいいのにと。
前へ、前へ。気持ちとは裏腹に、だんだん皆との距離が広がっていく。私だけ、取り残されていく。
小さな溜息が聞こえる。
そうやって免れるのかと言っている。
皆が同じように背負っているものを放り投げて、他人に背負わせるのかと。そんなことが何故許されるのだと。
グラウンドの向こう、観客席は遥かに遠い。ぐるぐる廻り続ける私たちを他所に、皆は笑っている。ここだけ切り離されているみたい。
一生懸命走っている筈なのに、だんだんスピードが落ちているのに気づく。
……皆の瞳に、私はどう映っているんだろう。
うまく呼吸ができない。心臓の音がうるさい。頑張っているのに、足が思うように上がらない。放り出してしまいたい。苦しい。
本当に苦しいのは?
焼けつくような太陽の下で、千津ちゃんは一生懸命だった。
華奢な手足。目の下の隈。
休むことはあった。でも、休み続けなかった。時折見せた、挑むような眼差し。
自分の身体なのに、思うようにならない。それはどんなに悔しいことだろう。今、どんな気持ちで家にいるのだろう。
体育祭明け、どんな気持ちで教室に向かうのだろう。
皆と同じようにやりたいのに、出来ない。それは、どれだけ苦しいことだろう。
重い脚に力を込める。無様でも、最後まで全力で走りたかった。
本当は、何でもないようにさらりと走ってみせたかった。大変なんかじゃないよって。余計な荷物なんかじゃないよって。
最後の一直線が延びている。皆は次々とゴールしていく。
それぞれの荷物は、目に見えない。重さも測れない。
本当に、皆が同じように背負っているのだろうか?
一人、駆け抜ける。ゴールは目に見えている。本当のゴールは何なのか、分からないけれど。
何が正しいのかは、分からない。
ただ、千津ちゃんに笑っていてほしかった。自分を責めてほしくなかった。
闘い続けているのを知っていたから。
白線の向こうまで走り抜けて、足が自然に止まるのに任せた。大きく息を吸い込む。立ち止まって膝に手を当てたまま、しばらく地面を見つめていた。まだ心臓はどくんどくんと波打っている。大きく息を吐く。
顔を上げた先に、白いテントがあった。放送席や来賓席で賑わうその片隅に、制服を着た幾人かの生徒が見えた。ぽつんと佇む彼らに、養護教諭が時折声をかけている。
別室登校の子達なのだと気付いた。体操服で笑いさざめく観客席とは対照的に、静かな眼差しを湛えている。
この場にいても、いなくても、みんなに等しく体育祭は訪れる。
同じクラスの子達を、自分の空洞を、どんな想いで見つめているのだろう。
いろんな形の闘いがあるのだ、と思った。
空を見上げる。果てしない青空。本当は、世界はずっと広いはずなんだ。同じ景色の繰り返しじゃなくて。私たちを縛るものは本当は無くて、どこまでも、自由に行けるはずなんだ。
皆の中に戻ろうと歩きかけて、視線に気づいた。
真が、私を見ていた。
唇は引き結ばれたまま、教室の硬い瞳のまま。
それでも、包み込まれるような気がした。見ていてくれたのだ、と思った。
柔らかな繭にくるまって、心ごと自分を抱きしめる。じんわりとほどけそうになる。
けれど、また走り出す。終わらないゴール目指して。
そうやって、みんな闘っている。それぞれの荷物を抱えて。
でも、本当は。
みんなで一緒に、笑って生きていけたらいいのにと思った。
それぞれのペースで、歩きながら、休みながら。時には荷物を分け合い、支えあいながら。
広い空の下で、どこまでも。みんなで、一緒に。
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