席替え

 教室の窓から吹く風に、カーテンがふわりと膨らむ。淡々とした先生の声、いつもの教室の静けさ。遠のく蝉の声に、過ぎた夏を思う。

 真は、俯いている。時折鉛筆が止まり、考え込むようにノートを見つめている。

 夏休みが終わったら、急に髪を短く切っていたから驚いた。前髪に隠れそうだった瞳が露になって、深い眼差しを湛えている。

 それを伝える間もなく、離れてしまった。

 斜め後ろの私の視線は、勿論届かない。少し遠くなった彼は、まるで見知らぬ人みたいだ。


 二学期最初のホームルームで、席替えがあった。担任の方針で、既に新しい班のメンバーは決められていた。伝えられた場所に各々移動する。分かっていたことなのに、どこかで動揺している自分がいた。

 真は無言で移動していった。すれ違い様、私は思わずその瞳を見つめたけれど、彼と視線が交わることは無かった。

 

 目の前の席を眺める。

 千津ちゃんは、さらさらと鉛筆を走らせている。少し伸びた髪が、背中で揺れている。

 また、同じ班になった。

 

 普通は、席替えの度に班のメンバーは入れ替わる。同じ人と続けて一緒になることは無い。

 組まされた。

 真っ先に、そう思ってしまった。

 「また、よろしくね」

 できるだけ自然にそう言ったら、千津ちゃんは黙って微笑んだ。


 千津ちゃんは、どう思っただろう。

 ……みんなは、どう思っただろう。


 「席、どうする?」

 てきぱきと聞いてきたのは、桜木さんだった。桜木さんとは、これまであまり話したことが無い。まやちゃんの話が甦る。正確無比なパーカッション。

 男子三人、女子三人の班は、左列が男子、右列が女子。前、中央、後ろのどの席に座るかは、班内で決めていいことになっていた。

 「……よければ、前でもいいかな?あんまり後ろだと、黒板が見えにくくて」

 遠慮がちに千津ちゃんが言う。桜木さんが頷く。

 「いいよ。前は木原さんね」

 「じゃあ、私、中央でもいい?」

 千津ちゃんの後ろなら、今までみたいにノート交換しやすい。そう思って言ったら、桜木さんの顔が一瞬変わった。瞳に険しい光が走る。

 ……私と千津ちゃんがくっつくようで、自分が外されるように思ったのかな?

 焦っていたら、桜木さんは言った。

 「じゃあ、私は後ろ。よろしくね、木原さん、遠矢さん」

 何事も無かったみたいに、にこりと笑う。曖昧に、私も微笑みを返した。

 胸がざわざわする。

 

 終業のチャイムが鳴ると、人形みたいに固まっていたみんなが一斉に動き出した。私も立ち上がる。


 「うわ、最悪。なんで御手洗がこんなとこいるんだよ」


 声に、思わず振り向く。真の後ろに石崎君がいた。なんでだろうと考え、気付く。石崎君と仲のいい橋本君が、たまたま真の後ろの席になっていた。

 「あ~あ、橋本が可哀想。これじゃ臭くて授業どころじゃねぇな」

 加わった坂上君が嘲笑を浮かべる。石崎君は吐き捨てるように呟く。

 「アイツなんて、消えればいいのに」


 真は黙っている。

 思わず彼を見た。

 一瞬、瞳が合ったように思った。体が、かぁっと熱くなる。けれど、真の表情は動かない。

 微動だにしない彼は、まるで周囲を侮蔑しているようで、私たちとは違う空間にいるみたいだ。

 けれど。

 見えなくても、切り裂かれるものがある。

 声にならない悲鳴もある。

 握りしめた彼の拳。


 真に駆け寄りたくて、でも心とは裏腹に、私の足は教室の外へと向かう。

 トイレに入り、まっすぐ水道の蛇口をひねる。

 教室の風景が甦る。

 冷たい水で全てを押し流すみたいに、真っ白な石鹸の泡で見えなくするみたいに、感覚が無くなるまで手を洗う。何度も、何度も。

 

 本当に消してしまいたいのは、そんなことしかできない自分だ。

 真とは、同じ班にならなかった。組まされなかった。

 何処かで、安堵した自分もいた。

 教室では異質な彼の存在。


 もう、戻らなきゃ。

 再び廊下を歩く。教室に向かって。

 向こうから、担任の先生がやって来るのが見えた。次は先生が受け持つ国語だ。

 「あぁ、遠矢」

 不意に先生が私を呼び止める。呼び止められる心当たりが無い私は、びくんとする。

 先生は何の気なしに言った。

 「木原のこと、よろしくな」

 

 言葉が出なかった。

 立ち尽くした私のことを振り向きもせず、先生はせかせかと教室に入っていく。

 廊下にたむろしていたクラスメイト達が、先生の後に続いて教室に吸い込まれていく。

 誰も何も言わないけれど。

 ……聞こえたかな。


 千津ちゃんは、ノートと教科書を開いて予習をしていた。

 「泉ちゃん」

 横を通る時に、呼び止められた。

 「借りてたノート、返すね。ありがとう」

 「あ、うん」

 千津ちゃんの顔をまっすぐ見ることができなかった。できるだけさりげなく、ノートを受けとる。席に座ろうとした時。

 強い視線を感じた。

 桜木さんだった。冷ややかな眼差しは、千津ちゃんの背中に向けられていた。

 桜木さんは小さく溜息をついた。

 私はぎこちなく席につく。自分の体が他人のものみたいに、重い。真っ黒なタールみたいなものが張り付いて、身動きがとれない。


 誰かが呟く。


 バランス、バランス。

 バランス崩せば、落っこちる。



 放課後の廊下は、静まり返っている。久しぶりの理科室の前で、私は躊躇している。

 まだ、この扉を開けることが許されているだろうか。

 そっと手をかける。鼓動が響く。


 窓からの光に、舞い上がる埃が照らし出されている。

 静寂に満ちた理科室に、彼の姿は無かった。


 柔らかな光が、涙で滲んだ。いつもの片隅に座り込む。教室で堪えてきたものが込み上げて、たまらず突っ伏した。両手を握りしめる。


 唐突に、扉が開いた。


 密やかに足音が近づく。私は顔を上げられない。足音は私の横を通り過ぎ、理科室の一番後ろに向かう。棚を開ける軋んだ音。知っている。そこに、違う世界への入口がある。


 足音が再び私に近づく。

 心の中で数える。

 いち、に、さん。


 顔を上げると、真がいた。

 また涙が込み上げそうになって、瞬きする。

 真は何事も無かったように、抱えた箱から顕微鏡を取り出す。一連の儀式のように、接眼レンズと対物レンズがはめ込まれていく。慣れた手つきを眺めるうちに、ざわざわした心が落ち着いていった。

 セットし終えた真が、歩き出す。私もつられて立ち上がった。彼がメダカの水槽の前に立ったので、驚く。

 「今日は、メダカ見るの?」

 「違う。アオミドロ」

 久しぶりに声を聞いた、と思った。低い、深い声。

 真はピンセットを取り出す。

 「アオミドロって何処にいるの?」

 「ここ」

 真が指差した先には、水草にからみついた藻。水槽の中でふわふわと漂っている。

 「不思議。この中にいるんだね。……すごいね、真は。見たいものを自分で決めて、自分で見られるんだね」

 呟くと、真が私に向き直った。ピンセットを差し出す。ポカンとした私に言う。

 「出来るよ」


 ……自分でやってみろってこと?


 ピンセットを受け取ろうとして、でもそのままだと彼と指が触れてしまいそうで、両手を差し出す。真はピンセットを私の手のひらに転がした。

 水槽に、思いきってピンセットごと手を入れる。水の冷たさは、さっきまでと違って新しい扉を開けるワクワク感があった。メダカが不思議そうに私を見ている。

 ふわふわした藻は、ピンセットに絡めて引っ張ると一緒についてきた。真がプレパラートを差し出す。藻を置こうとしても、くっついて置けない。苦戦していたら、真が手伝ってくれた。

 スポイトでプレパラートに水を一滴。次はカバーガラス。習った手順を思いだしながら、できるだけそっと重ねる。

 「あっ、少し空気入っちゃった」

 「大丈夫。端だから」

 焦る私に構わず、真は平然と答える。プレパラートを顕微鏡のステージにセット。少しずつ、対物レンズを近づけていく。

 レンズを覗く。ドキドキする。本当に、いるかな。

 視界いっぱいに広がる緑。ジャングルみたいに枝が広がっているけれど。

 「……よく分かんない」

 「倍率上げて」

 レボルバーを回す。授業中、これでプレパラートにぶつけてカバーガラスを割ったことがある。慎重に回す私を、傍で真が見守っている。

 「葉緑体が螺旋状になってるのが、アオミドロ」

 私は頷く。再びレンズを覗く。

 「あった!」

 思わず叫んだ。


 緑のジャングルの中に、全く違う生命体がいた。

 透き通る体に浮かぶ、螺旋状の葉緑体。まるで新体操のリボンみたいだ。くるくると廻り続ける。きらきら輝く、柔らかな翠。シンプルなのに、不思議といつまでも眺めていたい。吸い込まれそうな、顕微鏡の世界。

 自分で出来たからだろうか。特別、愛しい気がした。眺めるうちに、ベッタリと張りついていたタールがほどけていく。心がふわりと軽くなった。


 ……あぁ、そうか。


 やっと、気付いた。

 組まされた班。先生の一言。桜木さんの溜息。

揶揄と嘲笑。微動だにしない真の、握りしめた拳。

 他人の思惑。他人の視線。

 でも、私は。自分自身は。

 私は、千津ちゃんが好きだ。真と、一緒にいたい。それは他人と関係ない、私自身の気持ちだ。

それを、大事にすれば良かったんだ。

 

 顔を上げると、真と目が合った。

 「ありがとう」

 真は少し首を傾げた。分からなくてもいいんだ、私が伝えたかっただけだから。

 「髪、切ったね」

 「前、お店教えてもらったから」

 「夏休みに話したところ?あそこ行ったんだ。ずいぶん短くなったから、びっくりした」

 「短くしたら、しばらく行かずに済むから」

 私は笑う。朝から、話したかったことがやっと話せた。本当は、「似合うよ」って伝えたいけど、言葉はなかなか私の外に出ていかない。


 席、離れちゃったね。

 石崎君達と、近くなっちゃったね。

 ……大丈夫?

 

 肝心な言葉は、頑として私の外に出ていかない。


 「もう、来ないかと思った」


 一瞬、自分の中から零れた言葉かと思った。真を見る。彼は口を開きかけたけれど、結局黙ったまま。聞こえない言葉の先を探す。

 教室の風景が甦る。

 嘲笑。

 固く閉じられた拳。

 「小学生の頃は、いろいろあって」。いつかの真のお母さんの呟き。

 かつて、教室で真のバランスは崩れたのだろう。その過程で、離れていった友達もいたのかもしれない。真は、教室で、また同じことが起こると思っているのかもしれない。

 真と一緒にいるというのは、そういうことでもあるんだろうと何処かで思った。一緒にいることで、自分も揺らぐ。何度も手を洗い続けた私。

 気持ちは、くるくると廻り続ける。遠ざけたくて、近づきたくて。


 「私は、来たいよ」

 

 ここは、静かだ。他に誰もいない放課後の理科室。柔らかな光、煌めく顕微鏡。まるで繭の中みたいに、優しい真の世界。

 ずっと、このままでいられたらいいのに。


 真は黙ったまま、でも、鞄からノートを取り出した。開いた頁を受け取る。自分に刻むように、一つ一つを描く。


 アオミドロの螺旋階段。くるくると、気持ちは廻り続ける。近づいたと思えば、遠ざかる。同じことの繰り返しのようで、出口の無い迷路のようで。

 それでも、気付けば、空に近づいているだろうか。少しずつ、見える景色は変わっていくだろうか。


 差し出した頁を、彼は受け取る。私のスケッチを、彼の指がなぞる。まるで自分自身に触れられたようで、心臓が跳ねる。


 「綺麗」


 顕微鏡を挟んで、気付けば彼との距離はずいぶん近かった。紅潮していく頬に気付かれぬよう、私は立ち上がって顕微鏡を指す。

 「真も、見てみなよ」

 彼は素直に、さっきまで私が座っていた椅子に座り、顕微鏡を覗き込む。案外長い睫毛、まっすぐな指。まるで宝物を探すように、彼の一つ一つを見ている自分に気付く。

 さっきまで彼が触れていたスケッチに、手を重ねる。

 

 教室で私は、みんなに呑みこまれていくのだろうか。拳を握りしめたとして、千津ちゃんを、真を守るために、それを振り上げることは出来ないのだろうか。

 気持ちは揺らぎ続ける。くるくると、廻り続ける。

 ……それでも。

 

 一緒にいたい。それは、私の本当の気持ちなんだ。

 

 顕微鏡を覗く彼の姿がまた滲んで見えて、私はそっと瞬きした。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 


 




 

 

 

 

 


 

 

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