トランペット

 体育館は、静かなざわめきに満ちている。制服の群れ、無機質な白と黒。窓の形に四角く切り取られた空。遥か彼方の白い雲。

 私が部活をしていないせいもあるのだろう。1ヶ月余りの自由の後、久しぶりの学校には、懐かしい不自由さがあった。

 始業式は例年通り、淡々と進む。最後は、校歌斉唱だ。吹奏楽部の部員が体育館の後方で準備をしている。音合わせのハーモニーが響く。全く異なる音が、一つに合わさる不思議を思った。それは、統制なのだろうか。何が正しいのだろうか。周囲の音を聞きながら、自分の音を、拍を調整する時、何を思うのだろう。何を目指すのだろう。

 なぜ私たちは、別々の楽器の音が一つに合わさる演奏を美しいと思うのだろう。なぜ別の楽器と一緒に演奏しようと思ったのだろう。機械の方がよほど正確なのに、不正確な人間同士で演奏しようとするのだろう。


 ふと、そんなことを考えたのは、まやちゃんから聞いた吹奏楽部の話のせいだろう。

 私はホルンのまやちゃんの隣、トランペットを掲げた少女を見つめる。真剣な眼差しで指揮者を見据えた彼女から、痛いくらいの緊張が伝わってくる。


 「最近、部活がねぇ……変なんだよね」

 まやちゃんがポツリと呟いたのは、梅雨の初めの頃だった。しとしとと降り続ける雨で、教室の片隅はいつもより薄暗かった。

 「変って?何かあったの?」

 「うん……」

 軽く聞き返した尚子に、まやちゃんは躊躇いがちに言葉を継いだ。


 まやちゃんがそれに気づいたのは、たまたまだった。昼休み、通りがかった音楽室から、一本のトランペットの音が響いた。メトロノームに合わせて譜面を追っていたそれは、唐突に途切れた。沈黙だけが残る。

 不思議に思ったまやちゃんが廊下から音楽室を覗くと、壁際に立つ同級生が見えた。彼女が音を止めたのは、目の前に立つ人物がメトロノームを止めたからだった。

 トランペットを下げた彼女の表情は、強張っている。声は聞こえないが、相手の言葉が彼女に突き刺さっていくのが分かる。メトロノームと共に荒々しい手拍子が始まった。彼女は緊張した面持ちで再び吹き初めたが、やはり唐突に途切れた。沈黙の中で、トランペットの音は縮こまっていく。

 まやちゃんは、相手の顔を盗み見た。

 桜木征美。同じ二年生で、同じクラス。パーカッション担当の彼女は、冷ややかな眼差しでトランペットを見つめていた。


 「何なの、それ」

 「私も、何だろうと思って……。直接、その子に話を聞いたんだけど」


 征美さんが、練習に付き合ってくれてるの。


 トランペットの彼女は、困ったようにそう呟いた。


 私が上手く吹けないから……。昼休みに練習すればって、言われて。一緒に曲練してるの。みんなには、言わないで。私が付き合ってもらってるんだから。


 そんな風には見えなかった。まやちゃんがそう言っても、彼女は目を伏せた。


 吹けない私が、悪いんだから。



 そもそもの問題は、パートの人数配置のバランスが崩れたことだった。去年、三年生が引退すると、トランペットにはどうにか音を出せるようになった一年生の彼女一人が残された。二年生がいなかったのだ。トランペットは主旋律を担当する。一年生の彼女は懸命に吹いたけれど、三年生がいた頃との差は歴然としていた。春になれば、新入生が入ってきて先輩になる。教えられる立場から、教える立場に変わる。誰も何も言わないけれど、いつまで経っても思うように吹けない彼女は、部の中で取り残されていた。そんな中、桜木さんが声をかけた。


 まやちゃんは偶然を装い、昼休みの終わりに音楽室の扉を開けた。

 階段状の音楽室の、一番奥。舞台の上で、弾劾されているような彼女。縛られたトランペットは、恐々と音を出す。狂っていく拍。

 「また、そこ間違えてる。なんで出来ないの?」

 静まり返った部屋に、淡々とした声が響く。トランペットの彼女はまやちゃんを見て、僅かに顔を歪めた。桜木さんが振り返る。冷ややかな瞳。

 「……何してるの?」

 桜木さんは素っ気なく答えた。

「吹けないなら、練習するしかないでしょ。8月には三年生も引退して、私たちがトップになるっていうのに」


 吹けないなら、練習するしかない。

 それは正しい。正しい、けれど。


 桜木さんが先に戻った後。楽器を片付ける彼女に、まやちゃんは声をかけた。

 「大丈夫?」

 彼女はまやちゃんを見ずに、丹念に楽器を拭く。

 「なかなか、音がとれなくて。合奏を繰り返していけば、だんだん分かってくるんだけど」

 「総譜スコアを見てみたら?」

 きょとんとした彼女に、まやちゃんは自分のコピーした総譜スコアを見せる。全てのパートの音譜が書き込まれたそれは、さながら音楽の脚本だ。自分の台詞だけ確認しても見えてこない、物語が浮かび上がる。それぞれが支え、追いかけ、重なり合う。みんな、繋がりあっている。

 「私も、音とりが苦手なの。先輩から、他のパートの音を聞きなさいって言われて、総譜スコアを見せてもらったことがあって。そしたら、少し音がとりやすくなった。主旋と重ね合わせたら、裏拍もとりやすいなって」

 彼女はぽつんと呟いた。

 「メトロノームに合わせてって言われるけど、何に合わせたらいいか分からなくなる。ちょっと複雑になると音符が読めなくて。合奏でも、自分がいつ入ればいいか分からなくなって、入り損ねたり。そもそも、未だに高音が出せなくて……ダメだよね、こんなんじゃ」

 そんなことない、とまやちゃんは言う。

 トランペットやホルンのような金管楽器は、マウスピースと呼ばれる吹き口を装着して音を出す。唇を震わせてマウスピースで自在に音を出すのはコツが要る。彼女が音を出せるようになるまで、人一倍時間がかかった。一人、マウスピースで鳴らない音を出し続けた彼女を知っていた。

 

 「曲練、一緒にやる?トランペットとホルン、同じように動くところあるし」

 「……うん、部活の時に」

 昼休みは、大丈夫なのか。物言いたげなまやちゃんに、彼女は小さく微笑む。

 「ありがとう」


 いろんな人がいる。すぐ出来るようになる人もいれば、他人より時間がかかる人もいる。

 それを、努力が足りないと責められるんだろうか。


 話を聞いた尚子は、「何それ」と呟く。

 「言いたいことは分からんでもないけど。やり方が違うんじゃない?」

 「征美ちゃん、たぶん次の部長になると思う。部のためにって思いもあるんじゃないかな。自分にも厳しい人だし……」

 同じクラスの桜木さんを思い浮かべる。きつく結った髪。いつもひんやりとしたものがある。笑っていても、瞳は頑なで。

 「顧問の先生に言ってみたら?」

 「どうかな……一緒に自主練してるだけって言うだろうし……」

 まやちゃんは言葉を濁す。たとえ、先生に言って止まったとして、桜木さんの彼女に対する冷ややかさは変わらないだろう。彼女は部の中で、宙ぶらりんなままだ。

 「そんな人が部長で、大丈夫かね」

 「みんな、征美ちゃんの前ではね……」

 仲が悪い訳じゃないんだけど。まやちゃんは困ったように言ったけど、桜木さん本人のいないところで、いろいろあるんだろう。


 教室から見上げた空は、分厚い雲に覆われている。閉塞感にタメ息をつく。

 雲を突き抜けた先には、青空が広がってるんだろうか。

 雨に閉じ込められた、今も?



 夏休みが始まった。吹奏楽部は毎日部活があったけれど、三年生の目を意識してか、桜木さんの「自主練習」は無くなった。

 間もなく、恒例の他校との合同練習があった。その日から、トランペットの彼女は基礎練習を変えた。

 高音が出せない。外部講師の先生に思いきって相談したそうだ。

 腹筋、背筋。ロングトーン。

 開け放たれた窓に向かって、彼女は息の続く限り音を出す。階名の階段を上っていく。

 少しずつ、少しずつ、上り詰める階段は、上がっていく。

 青空に向かって。


 まだ蒸し暑い体育館で、煌めく楽器達が一斉に音を奏で始める。指揮者の手の動きに合わせて、音が重なりあう。空間が音楽に満たされていく。

 トランペットの彼女の楽譜には、休符の隙間に他パートの音譜が書き込まれている。広がる曲の世界で、旋律のバトンが渡る。彼女は一歩踏み出し、高らかに歌う。みんなに向かって。

 彼女の歌は、流暢ではないかもしれないけれど、丁寧に磨かれた一途さがあった。

 パーカッションが均した大地に、柔らかなホルンの草原が広がる。駆けてゆくクラリネット。フルートのさえずり。チューバの厚い雲の隙間から、黄金のトランペットが覗いた。徐々に姿を現したそれは、眩い輝きを放つ。解放され、大地を、草原を、吹き抜けていく。どこまでも。

 正確無比な桜木さんのパーカッションも、柔らかなまやちゃんのホルンも、彼女の一途なトランペットも。ひとつになる。遥かな青空に向かって。


 例えば。私は想像する。

 例えば、一番最初に。動物の骨を打ち鳴らしていたヒトと、法螺貝を吹き鳴らしていたヒトが、出会ったとして。

 そこで何が起きたんだろう。もしかしたら言葉も無く、何の合図も無く、音は重なりあったのだろうか。相手の視線に、体の動きに合わせて、紡ぎ合わさる音が二人の音楽となっていく。

 彼らの前に広がったのは、どんな世界だったんだろう。

 一期一会の音楽をみんなで分かち合うために、楽譜が生まれたのかな。

 拍は、統制ではなくて。誰か一人が正しいのではなくて。

 ひとつになるために。


 ひたむきな彼女の、眼差しのように。トランペットは力強く、体育館に響き渡った。

 

 

 

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