とんぼ玉
宵闇に浮かぶ提灯。祭囃子。夏の夜はどこか秘密めいていて、蒸し暑さも不思議と気にならない。
今日は、尚子とまやちゃんと三人で夏祭に来ている。二人が浴衣を着るというので、私もお母さんに着付けてもらった。帯をきゅっと締めてもらうと、そこにはいつもと違う私がいる。
「綺麗」
まやちゃんが足を止める。硝子細工を扱う露店だった。色とりどりのとんぼ玉は、ひとつずつ微妙に形が違う。瑠璃色のとんぼ玉を通したブレスレットが目に止まった。細かな気泡が内部で煌めき、手の中でゆっくり回す度に表情を変える。海の底みたいだと思ったら、なんだか離れがたくて買ってしまった。
まやちゃんは、
「まやの色はメロン、泉のはブルーハワイだな。なんか、かき氷食べたくなっちゃった。買いに行こう」
「尚子ったら」
顔を見合せて笑う。相変わらずの私達だけど。
生なり地に鞠。紺地に絞り花模様。
二人の浴衣姿が新鮮で、つい見とれてしまう。
「咲田先輩、来てないかな」
尚子が人混みを見渡して呟く。
「受験生は来ないんじゃない」
「息抜きに来るかもよ。部活引退しちゃったら、全然会えないんだもん。……居たらいいのに」
さっきまで、無邪気に笑っていたのに。
月明かりの下で瞳を伏せた尚子は、なんだか女の人みたいに見える。
咲田先輩は、三年生。卓球部だった。尚子の、好きな人だ。
最初、尚子から先輩のことを聞いた時、意外な気がした。バレー部の尚子。男子バレー部にも目立つ男子はいるし、同じフロアで練習しているバスケ部にも、騒がれている男子はいるのに。
体育館の二階で練習している卓球部。咲田先輩は、いつも黙々と基礎練に励んでいた。縁の細い眼鏡、色白のほっそりしたうなじ。物静かで目立たず、普段接点も無いのに、何故だろうと思ったのだ。
尚子に頼まれて、先輩が出る試合を一緒に観に行った。
咲田先輩は、強かった。
集中した横顔は研ぎ澄まされていた。相手に打ち込んでも、打ち込まれても、先輩の表情は変わらなかった。目の前の相手じゃなくて、もっと別なものと対峙しているのだと思った。
試合終了後、みんなに声をかけられた先輩は、初めて笑顔を見せた。さっきまでの気迫が嘘みたいに、あどけない笑顔だった。
遠い二階席で、尚子はじっと先輩を見つめていた。声も出さずに。
真摯な横顔。私の方が、胸が詰まった。
遠く、盆踊りの歌声が響いた。時折ひび割れるスピーカーの音楽が、夜空に吸い込まれていく。
切なくなるのは、夏の終わりを想うからだろうか。眩むような陽射しが薄れ、影法師が伸びていく。気付けば消えゆく蝉の声。
「ねぇ、まやは本当に好きな人いないの?」
尚子がまやちゃんを覗き込む。まやちゃんは困ったようにふわふわと笑う。
「いつも言ってるのに」
「う~ん、でも」
遮るように、声がかかった。
「尚子!」
振り向くと、男子バレー部の新井君だった。隣にいるのは、吹奏楽部の鈴宮君だ。新井君は屈託無く話しかける。
「なぁ、課題終わった?」
「とっくに終わった」
「お前もかよ。なんで皆もう終わってんだよ」
「なんでまだやってないのよ。バレー部員は未提出あったら、ペナルティでグラウンド5周追加って言われたじゃん」
「俺の夏を課題で終わらせてたまるか」
「バカじゃないの?」
ぽんぽん言い合う二人の横で、鈴宮君は静かに微笑んでいる。さらさらの髪を、夜風が揺らす。
「鈴宮君、こんな奴と一緒に居ると毒されるよ」
「うるせーよ。じゃあな」
片手に持った烏賊焼きを振りながら、新井君は踵を返す。鈴宮君も私達に笑いかけ、その後に続いた。
「アホなんだから、あいつ」
「不思議な組合せだよねぇ、あの二人。全然タイプが違って」
「幼馴染なんだって」
「ふぅん。尚子とまやちゃんと一緒だ」
「なんで私が新井と一緒なのよ」
「新井君と一緒だとは言ってないよ」
遠ざかる二人を見ながら、尚子がふと呟く。
「鈴宮君、背が伸びた? 新井に追い付いてきてない?」
「……そう?」
まやちゃんは心もち首を傾げる。
「同じ吹奏楽部じゃん。でも、毎日会ってると気付かないのかな。身長伸びたよ、絶対」
「そうねぇ……」
まやちゃんの視線が彷徨う。尚子が次の言葉をかける前に、私は声を出す。
「もうすぐ花火始まるんじゃない?」
「ほんとだ。よく見える穴場があるんだ、行こう」
あっさりと話が終わり、尚子は向きを変える。それに続きながら、まやちゃんはそっと後ろを振り返った。私は気付かない振りをする。
遠目に映る、少年の姿。
まやちゃんが小さく吐息をついた。結い上げた髪が普段より大人びて見えて、綺麗だ。煌めく簪。硝子の中に抱かれた花。
一度だけ、まやちゃんが鈴宮君の話をしたことがあった。
「鈴宮君、今度フルートのソロをやるの」
何気無い呟きに、尚子がいつも通り答える。
「へぇ。男子がフルートって、珍しいよね。吹奏楽部の男子って、大抵パーカッション希望するのに」
「うん。鈴宮君は最初からフルートが吹きたかったんだって。なかなか音が出なかったけど、一生懸命練習してた」
「鈴宮君って、女子の中にいても違和感無いよねぇ。小柄だし。なんか、あの有名な絵みたい。資料集に載ってた……笛吹童子?」
「マネの、『笛を吹く少年』?」
「それかな? タイトル、惜しかったね」
笑い合う私たちを余所に、まやちゃんはぽつんと呟いた。
「鈴宮君の音、綺麗なの」
まやちゃんの唇が開きかけて、閉じる。言葉を探して、その視線が彷徨う。
そのまま別の話題に移っても、まやちゃんはまだ心を彷徨わせているようだった。
音楽室の光景が浮かんだ。
開け放った窓。吹き抜ける風。木々の梢が葉を揺らして囁く。
階段状の音楽室で、ホルン担当のまやちゃんは後列。その視線が練習中の譜面から逸れて、前列に向かう。
彼は銀色のフルートにそっと口づける。吹き抜ける風と共に、フルートが澄んだ音を奏でる。軽やかに指が舞い、空に向かって旋律が羽ばたいていく。
溢れ返る音の中で、彼の音だけが響く。
静かなまやちゃんの横顔。
まだ、その想いは言葉にならない。彼女の胸の中で大切に抱かれている。
少年の華奢な体躯は少しずつ形を変え、少女は想いを重ねて眼差しを深めていく。
夏祭の会場を後にして、尚子が案内してくれたのは小さな公園だった。下駄で石段を恐る恐る上った先。色褪せた滑り台とブランコだけが、ぽつんと月に照らされていた。
「こんな所に公園があったんだ。知らなかった」
「でしょう。もうすぐ、始まるよ」
その言葉を待っていたみたいに、夜空をひとすじの光が走った。一呼吸置いて、花びらが開く。真っ暗な空に、幾つもの光が零れて煌めく。
「綺麗」
再び空が真っ暗になり、沈黙が満ちる。
この街の花火は、百発ほどしか上がらない。時間をもたせるために、次の花火まで空白があった。ちょっと車で行った先の大きな街では、数千発の花火が間断無く上がる。その豪華さには息を呑むのだけれど、私はのんびりしたこの花火が好きだった。次の花火を楽しみに待ちながら、みんなで空を見上げる。
「こうやって見ると、もっと綺麗だよ」
そう言った尚子が草むらに寝そべった。大胆さにぎょっとする。
「ちょっと、帯が崩れるよ」
「大丈夫、誰も見てないって」
「尚子ったら」
笑ったまやちゃんが、ハンカチを敷いて座った。戸惑いながら、私も隣に座って足を抱える。
「来たよ」
どぉん、と花火が上がる。普段と違う角度で見上げた花火は、ずっと大きく見えた。思いきって、足を抱えたままころりと仰向けになる。視界いっぱいの夜空。花びらはゆっくりと広がり、やがて溶けるように空に消えた。私も、煌めく光の中に吸い込まれていく気がした。
まやちゃんがぽつりと言った。
「しだれ柳。私、この花火が一番好き。柳が風にそよそよ揺れてるみたい。優しい感じがする」
隣で尚子も頷く。
「私も。大きいから。見ごたえあるっていうか。広がっていく時に、いっけぇぇぇ! って思う」
「まやちゃんと尚子の感想聞くと、別の花火みたいだね。でも、実は私も。なんだか、一番余韻が残る感じがする。いつまでも消えないみたい」
寝転んだまま、次の花火を待つ。辺りは姿が見えない虫の鳴き声に包まれている。この世界に私たちだけが居るような気がした。
「こうやって見るのも面白いね」
「でしょ?私、いつか花火を真下から見てみたいんだ」
「真下?」
「昔、お父さんと観た古い映画にあったんだ。そういうシーンが。『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』ってやつ」
「真下から見たら、どう見えるの?」
「秘密」
「何それ、気になる」
私たちは声をあげて笑う。
「来年も、ここで一緒に見よう」
「うーん、受験生だよ? 来てるかな」
「夏祭に来るぐらいで落ちるなら、最初から合格しない運命だったんだよ」
「……私も見たいな。尚子と、泉ちゃんと一緒に」
一年後の自分は、まだ思い浮かばない。でも、他愛ない今日を、一年後も覚えていたいと思った。
いつもの友達の、大人びた横顔。いつもと違う花火。
「綺麗だよね。……あ〜ぁ、ここに先輩が居たらいいのに」
わざとちゃかしたような呟きを一緒に笑う。尚子の頭を、まやちゃんが優しく撫でる。
「泉は?」
唐突に尋ねられて瞬きする。
「好きな人」
いないよ。答えようとした時。
胸の奥で、波の音がした。
私が口を開くと同時に、どぉん、と響いた音。尚子の視線が逸れる。夜空に広がっていく花火。きらきらと、光が舞う。
「さっき、花火で聞こえなかった」
「いないって言った」
「ほんと?」
手をかざすと、とんぼ玉が煌めいた。夜空を映して、宇宙みたいだ。硝子の気泡は銀河。硝子越しの花火は、流れ星。
水飴みたいに透明で柔らかな硝子は、やがて変化の時を迎える。それぞれに色づき、形作られ、瞬く間に表情を変えていく。
夏が、終わる。二度と帰れない季節の中に、想いを閉じ込めて。
移ろいゆく瞬間は留められないけれど。
一瞬の煌めきを、忘れずにいたいと思った。
岩井俊二(監督・脚本),1995,「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」
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