永遠の二人
車の中は、強い陽射しに満ちている。白く光るアスファルトが、どこまでも続く。
「やっぱり混んでるわね。早めに出たのにねぇ」
助手席のお母さんの、何度目か分からない溜息。
運転席のお父さんは、無口だ。ハンドルを握る手に、違和感を覚える。記憶の中の手は、もっと大きかったはずなのに。
私はぼんやりと窓の外を眺める振りをする。
湧き上がる気持ちに、気付かない振りをしたくて。
「おじいちゃん、病気なんだって」
出発する前日、お母さんは何気ない風に呟いた。いつものように夕食を終え、いつものようにお茶を飲みながら。
「……病気って何」
「癌」
お母さんはお茶をすすりながら答えた。
最近の違和感が甦る。あぁ、そうだったんだって、パズルのピースがはまるような感じ。
お母さんが持つ受話器から沁み出す、不安な気配。難しい顔をしたお父さん。
黙った私に、お母さんはいつもの声音で言う。
「癌っていっても、進行はゆっくりなんだって。まぁ、癌だけじゃなくて、からだのいろんなところが疲れてきちゃってるんだって。長く生きてきたからね」
言い聞かせるみたいに、ゆっくりと。
「ごちそうさま」
向かいでお父さんが、席を立つ。そのまま、テレビをつけた。しんとしたリビングに、音が戻り、光が溢れる。まるで別の世界の出来事みたいに、コメンテーターが笑っている。
果てしなく続くようだったドライブは、やがて終着点に辿り着いた。見慣れた赤い屋根瓦、木陰を作る柿の木。
「いらっしゃい」
玄関から、千穂おばちゃんがニコニコと顔を出した。
おじいちゃん、おばあちゃんの家は、お父さんと千穂おばちゃんの実家だ。千穂おばちゃんはお父さんの姉。この近所に家族と住んでいる。
お盆はいつも、ここに皆で集まってきた。
「すみません、遅くなって。思ったより渋滞してました」
「よかよ、お昼にせんね」
「どうぞ先に召し上がって下さい。お参り済ませてきますから」
お母さんと千穂おばちゃんのやりとりを聞きながら、私はこの近くにある、小さな墓地を思い浮かべる。
ひんやりとした墓石。季節の移ろいと共に咲く、彼岸花。
刻まれた、私に連なる人々の名前。
いつか、おじいちゃんの名前も、そこに刻まれるの?
……もしかしたら、私の名前も?
心臓がぎゅっと音を立てる。
いつも、ここに来ると景色がはっきり見えるのが不思議だった。くっきりした山の稜線、輝くような緑。
空気が澄んでいるのだと、やっと気付いた。
余計なものが含まれていない、そのままの青を映した空。
いつかは、みんなここに還っていくのだと、知っていた。
けれど、それはあの雲の向こうみたいに、まだ遠い出来事だと思っていた。
居間にはちゃぶ台が2つ並べられ、所狭しと料理が並んでいた。鉢盛の間に見えた、おばあちゃんの鱈と昆布の煮しめにほっとする。毎年変わらない味。
「お疲れさん」
席に着いたお父さんに、充おじちゃんが瓶ビールを注ぐ。
「あんた、そんなに注ぎなさんな。飲めんとやけん」
「今日は泊まりやろ? よかよか」
破顔一笑。たしなめる千穂おばちゃんを無視して、充おじちゃんはご機嫌だ。既に顔が赤い。
「飲めんとやなか。飲み過ぎたら、寝るだけやけん」
「だから、それが飲めんとって。すぐ寝とるやん」
お父さんの言葉遣いは、既にこの家に馴染んでいる。
「佐穂ちゃんと志穂ちゃんは?」
尋ねたお母さんに、千穂おばちゃんは苦笑する。
「佐穂は帰省してる友達と会うって、出かけてる。志穂は、もう先にご飯食べて、家に戻ったとよ」
「佐穂ちゃん、今年から大学生でしたね。志穂ちゃんも大学受験でしょう?天王山の夏、大変ですね」
「なんも大変やなか。志穂はただ部屋に籠っとるだけで、勉強しよるかどうかも分からん。泉ちゃんは、ちゃんと勉強せないかんばい。後で苦労するけん」
真っ赤な充おじちゃんに、曖昧な返事を返す。
一緒に遊んできた従姉妹達は、年に会う回数が減るにつれ、隙間が出来たみたいに合わなくなった。前に会った二人を思い出す。随分大人びて見えて、何を話しかければいいのか、分からなかった。
「泉ちゃん、食べんね」
大人の間にぽつんと座っていたら、おばあちゃんが取り分けたお皿を差し出してくれた。
エビフライ、唐揚げ、卵焼き。
お子様ランチみたいだな、と可笑しい。
私、苦手だった白和えも食べられるようになったし、お刺身もワサビをつけて食べてるんだよ。
でも、おばあちゃんを見たら言えなかった。変わらない、皺くちゃの笑顔。
「ありがとう」
口に運んだ卵焼きの、懐かしい甘さ。
そっとおじいちゃんを見る。
みんなが座布団に座る中で、おじいちゃんは肘掛け椅子に座っていた。
真っ白でホワホワな眉毛。綺麗な頭の形。
少し、痩せた。
その瞳はぼんやりして、なんだか知らない人みたいに見えた。
それでも、みんなの笑い声に、変わらぬ微笑を浮かべていた。
「お義父さん、具合、どうですか」
後片付けをしながら、お母さんが千穂おばちゃんに尋ねた。
「まぁ、しばらくはよかろうけど……」
寝てしまった充おじちゃんとお父さんにタオルケットをかけながら、千穂おばちゃんは溜息をつく。
「心配やけん家においでって言っても、聞かっさんし。私が泊まったりもしよるけど……いずれは入院やろうね。体も思うように動かんくなってきたし」
「そうですか……。すみません、お任せしてしまって」
よかよか、と千穂おばちゃんは笑顔を見せる。
「お元気でしたのに……」
「危ないからって免許証返させたんやけど、家に籠って、テレビ漬になっちゃって。畑仕事もよぅ出来んようになったけんね。弱っていったとよね」
食器を洗いながら淡々と話す千穂おばちゃんの顔は、見えない。水音だけが響く。お母さんも黙ったままで、私はひたすら食器を拭いている。
幼稚園の頃から、長期休暇の度にこの家に泊まりに来た。共働きの両親に代わって、おじいちゃん、おばあちゃんが一緒に過ごしてくれた。
従姉妹達とはしゃいで遊び疲れ、お座敷に布団を並べて、一緒にお昼寝した。
星空の下でやった花火。誰が一番長いか線香花火で競争したら、勝ったのは充おじちゃん。みんな笑った。
夕飯を待ちきれず、味見させてもらったおばあちゃんの煮物。ほっこりした里芋、芯まで柔らかかった大根。
おじいちゃんの軽トラ。土埃にまみれたそれは、乗せてもらうとお日さまの匂いがした。帽子を被り、ハンドルを握るおじいちゃんの、力強い横顔。帰り道に買ってくれたチョコ。
いつまでも続くと思っていた、思い出。
襖を開けると、懐かしい匂いがした。おじいちゃん、おばあちゃんの部屋は、そこだけ空気が違う。
「泉ちゃんね」
座椅子に座ったおばあちゃんが笑う。私が向かいに座ると、引き出しから包みを取り出した。渡されたのは、氷砂糖。
「ありがとう」
仄かな甘味を、ゆっくり味わう。
知らない間に、介護用ベッドがあった。移動する時も、誰かの支えが要るようになったおじいちゃん。布団での寝起きが、きつくなったのだろう。
おじいちゃんは、ベッドに横たわっていた。静かな寝顔。ベッドの上で、カーテン越しの光がゆらゆらしている。
「学校で、新しい友達ができたんだ」
おばあちゃんはニコニコと、私の話を聞いてくれる。いつも。
「千津ちゃん。詩が好きなの。教えてもらった本、読んでみた。私も、好きだなぁって」
言葉が途切れる。おばあちゃんは、変わらず微笑んでいる。
「顕微鏡を覗くのが、好きな子に会って……」
うまく言えない。言葉を探す。
放課後の理科室の静けさ。深い瞳。
考えこんでいると、微かな音がした。
見ると、おじいちゃんが身動きし、うっすら目を開けていた。
「おじいちゃん」
近づいて声をかける。おじいちゃんは私を見た。優しく目尻が下がる。
「……痩せた?」
思わず、呟く。骨ばった腕にはまった自慢の時計が、ずり落ちるようだった。
おじいちゃんは笑った。
「骨太やけん、よかと」
私は吹き出す。後ろで、おばあちゃんの笑い声がした。
「そうだね」
おじいちゃんのゴツゴツした手。ずっと頑張ってきた、働き者の手だ。
「おい」
おじいちゃんが、おばあちゃんに声をかけた。おばあちゃんがやって来て、おじいちゃんが何も言わないうちに、リモコンでベッドの角度を変える。ベッドが斜めに上がって、おじいちゃんは少し体を起こす。おばあちゃんが差し出したお茶を、ゆっくりと飲む。
畑に迎えに行くと、二人はいつも一緒に作業をしていた。声をかけあうでもなく、別々の場所にいても、相手の動きが分かっている。ずっと続いてきた、流れがあった。
「おじいちゃん、おばあちゃん」
叫ぶと、こちらに顔を向ける。おばあちゃんが手を振り返す。
歩き出した二人を、夕陽が照らす。
ひとつになって伸びる影法師。
この人の隣にはいつも、その人がいるのだと思っていた。
おじいちゃんは再び、目を閉じる。
おばあちゃんが、そっと布団をかけた。
柔らかな眼差し。優しい手のひら。
変わらないものなど無くて。
それでも。
私の中で、変わらないもの。
たとえ畑の人影が一つになったとしても、やっぱり私はそこにもう一つの影を重ねるだろう。
寄り添う面影。
永遠の、二人。
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