雨の後に
校舎を出て間もなく、音も無く小雨が降り始めた。
遥かな空に、すぅっと青白い光が走った。
この世のものじゃないみたいに、清らかだった。
お腹に響くような雷鳴で、気付く。
さっきの光、稲光だ。
外で直接見たのは、初めてだった。
世界の切れ目。
別の世界の幕開け。
私の思考を遮るように、ざあざあと雨粒が落ちてきた。鞄を傘代りに掲げ、駆け出す。とりあえず、一番近いコンビニまで。
「遠矢さん」
振り向くと、真がいた。私とは逆に、鞄を大事に胸に抱えている。
「うち、すぐそこだから、来て」
私の返事を待たずに駆け出す。
一瞬、頭が真っ白になる。
閃光が甦る。
私は駆け出した。
程なく、道路に面した一軒家に真は駆け込んだ。玄関脇の鳳仙花。扉を少し持ち上げて鍵を差し込むと、軋んだ音を立てて開いた。
「タオルとってくる」
真がそう言うと同時に、廊下の奥のドアが開いた。
「お帰りなさい」
立っていたのは、お母さんらしき人だった。ベリーショートの髪。タンクトップと、ぴったりしたパンツ。細身が目立つ、ジム帰りみたいな格好だと思った。
「降りだしたから心配してたの。傘、持っていってなかったし」
「仕事は?」
「個人レッスンが一本、キャンセルになったから。早めに帰ってきた」
お母さんは真にタオルを渡し、当然のように私にもタオルを差し出した。
「あの、私、遠矢といいます。急に雨になったから、その」
真が何も言わないので、狼狽えながら説明しようとしたけれど、お母さんは頓着せず笑う。
「遠矢さん、初めまして。よかったら、私の服に着替えて? 制服、浴室乾燥にかけるから。着替えはこっちで」
真を振り返ると、二階に上がっていくところだった。無言のまま。
何が何やら。私は化かされているような気持ちで、お母さんの後に続く。
お母さんが渡してくれた着替えも、やっぱりジムウェアみたいだった。借りたドライヤー、タオル、濡れた制服を渡す。
「すみません」
「いいのよ。しばらくかかるから、お家に電話入れておこうか?」
「あ、大丈夫です。親は仕事で、夕方まで帰らないので」
「分かった。適当に座って」
通されたダイニングの、手近な椅子に座る。戻ってきたお母さんが、お湯を沸かし始めた。
「ジャスミンティー、飲める? 紅茶がいい?」
「あ、それ、頂きます」
飲んだことは無かったけれど、反射的に答える。ふわりと漂った花の香りが、心を落ち着けてくれたから。
運ばれてきたのは、湯気の立つガラスのティーカップ。たんぽぽ色のお茶を口に含む。スーッとして、あたたかい。
「ジャスミンティーは、冷えた時にいいんだって」
向かいでお母さんがにっこり微笑む。
なんだか、不思議な人だ。初対面なのに、相手に気負わせない。すとんと肩の力が抜けた感じ。
「真……君は?」
「二階。いつも、帰宅したら部屋にこもってるの」
らしいといえば、らしいけど。こんな時くらい、降りてきたらいいのに。いや、こんな状況だから降りてこないのか?
とりあえずの疑問を口にする。
「お仕事、何されてるんですか?」
「ヨガのインストラクター」
「すごい」
「すごくはないよ」
お母さんは笑い、ちょっと考えてから「いろいろあって、そこにたどり着いたって感じかな」と呟いた。私が首を傾げると、もう少し付け加えてくれた。
「会社員だったんだけど、途中で体調崩して。病院通って、結局仕事辞めて。いろいろ考えたんだけど、なんだか、今までとは違うことをしないと、違う流れはやってこないなと思って、ヨガを始めたの。前から興味はあったんだけど、いつかそのうちってなってたから、今だ!って。そしたら、ぴったりきたっていうか、私に合ってたみたいで。体が変わると、心も変わるのね。気づいたら前より調子良くなってた。これだ!って養成講座に通って、資格とったの。今は、小さいけど自分の教室やってる。まぁ、ぼちぼちだね」
やっぱりすごい、と思ったけど、それはなんだか違う感じがするんだろうな。
言葉を探す。
「ぴったりきたんですね」
「そうそう。うまく、流れにのったんだろうね。今はこれ!っていう。この先は分からないけど、とりあえず今はこれ」
お母さんは笑った。いろいろあるのかもしれないけど、ぴかぴかした笑顔だった。
そんな風に生きていけたら、素敵だなぁと思った。
乾いた制服を身につける。お母さんは鞄も乾かしてくれていた。
「中身、大丈夫だった?」
「ペンケースくらいしか入れてなかったから、大丈夫です」
答えて気づく。
鞄を抱えていた真。
中には、いつものノートが入っていたのだろう。
「家まで送るわ、まだ雨降ってるから」
お母さんは私の返事を待たずに上着を羽織って玄関に向かい、途中で二階に「遠矢さん、帰るよ」と声をかけた。
聞こえてきた足音に、少し緊張する。
真はTシャツに綿パンで、でもいつも通り淡々としていた。
「えっと、ありがとう」
無言で頷く彼。ギクシャクするのは、私だけだ。
「大丈夫だった? 鞄の中身」
さらりとお母さんが聞いた。真が頷く。
私は瞬きする。
「行ってくるわねー」
お母さんに続いて出ようとして、振り返る。
真と目が合った。
何か言いたくて、でも言葉は出なくて。
真は、微笑んだ。
それは、あまりにも自然な笑みだった。
本来の彼。
そっと手を振った。
扉を抜ける。
もう一度、振り返る。
まるで半身を置き去りにしたような。
私の住所をナビに入れ、お母さんは車を発車させた。しのしのと雨が降る。車内にワイパーの音だけが響く。
「あなたが、遠矢さんだったのね」
前を向いたまま、お母さんが呟いた。
「真が言ったの。『遠矢さんと顕微鏡を見た。スケッチしてた』って。びっくりした」
やっぱり知っていたんだ。あのノート。
「あの子が友達の名前を口にしたのなんて、何年ぶりかな。……小学生の頃は、いろいろあってね」
お母さんは、昔を思い出すみたいに沈黙した。
「あの子がどんどん喋らなくなって、表情が消えていくのに、何もできないんだよね。親なんて無力なもんだよ。学校なんか行かなくていいって言ったの。そんな風に自分を殺して生きるくらいなら、行かなくていいって。今でも、そう思ってるのは本当」
でも、と言って、お母さんは困ったように微笑んだ。
「真が、顕微鏡を買ってほしいって言った時、買ってやれなかったの。買ったら……学校行かないかもって、どこかで思ったんだ。顕微鏡を見るために、学校に行くかもしれないって。それも私の本音だったんだ」
私は、ぎゅっとハンドルを握りしめた手を見つめた。
お母さんは笑った。
「ごめんね、こんな話して。遠矢さんに会えて嬉しかった。つい、話し過ぎちゃった。うち、真はあんな調子だし、旦那も似たようなもの。家で私ばっかり話してるから」
雨は、いつの間にか止んだようだ。雲の切れ間から光が零れる。
車は私が住むマンションの駐車場に滑り込んだ。
「遠矢さん、ありがとう」
お母さんはにっこりした。真そっくりの、深い瞳。
私は言葉を探す。
「真が、学校に来てくれて良かった」
お母さんの瞳が揺れる。
「真に会えた。一緒に顕微鏡、覗けたから」
お母さんの方は見ずに、ドアを開ける。
途端、視界に飛び込んだもの。
天から射し込む光の中で。
儚く煌めく、架け橋。
虹。
「綺麗ね」
車から降りてきたお母さんが、私の横で呟く。
しばらく、並んで空を見ていた。
「最後に、また余計な話していい?」
お母さんは空を見上げたまま呟く。
「真は、昔からマイペースでね。運動も言葉もゆっくりで、私はずいぶん心配もしたの。でも不思議なものでね。悩んで悩んだ末に、あーもういいや!って気にならなくなったら、歩いたり喋ったりし始めた。ほんと、人それぞれなんだなぁって。真は、順番も時期も人とは違ったけど、ゆっくりじっくり、自分のペースで積み上げていってたのね」
お母さんは、ひまわりみたいに笑った。
「真が五歳くらいの時かな、一緒に虹を見たことがあった。この子が初めて見た虹なんじゃないかって、私は興奮して、一生懸命虹について説明したの。でも、あの子はつまらなさそうに言った。『夕方の虹なら良かったのに。朝の虹は、雨になるよ』って。その通りに、雨になった。あの子は、どこでそんなこと知ったのかしら。……あの子はいつも、私の想像を越える。あの子と居ると、思いがけず虹を見るわ。雨が降るから、虹も出るのよね」
また話し過ぎたわね、と言って、お母さんは車に乗り込んでいく。
「じゃあね、遠矢さん」
「ありがとうございました」
お辞儀をした私に手を振り返し、軽やかに車を発進させていった。
お母さんは、「これからも真と仲良くしてやってね」とか、「また遊びにおいで」とか、そんな類いのことを一切言わなかった。
小学生の頃、いろいろあって。
呟きが過る。
また、会いたいなと思った。
潔いショートカット。ハンドルを握りしめた手。ぴかぴかの笑顔。
……彼の、自然な微笑。
もう一度、振り返って空を見上げた。
雨の後には、輝く虹。
架け橋の向こうに、繋がっていく世界。
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