雨の後に

 校舎を出て間もなく、音も無く小雨が降り始めた。鈍色にびいろの空を見上げる。雲は厚みを増してきたようだ。徒歩20分はかかる帰り道。駆け出そうとした瞬間。


 遥かな空に、すぅっと青白い光が走った。

 この世のものじゃないみたいに、清らかだった。


 お腹に響くような雷鳴で、気付く。

 さっきの光、稲光だ。

 外で直接見たのは、初めてだった。


 世界の切れ目。

 別の世界の幕開け。


 私の思考を遮るように、ざあざあと雨粒が落ちてきた。鞄を傘代りに掲げ、駆け出す。とりあえず、一番近いコンビニまで。


 「遠矢さん」


 振り向くと、真がいた。私とは逆に、鞄を大事に胸に抱えている。


 「うち、すぐそこだから、来て」


 私の返事を待たずに駆け出す。

 一瞬、頭が真っ白になる。

 閃光が甦る。


 私は駆け出した。



 程なく、道路に面した一軒家に真は駆け込んだ。玄関脇の鳳仙花。扉を少し持ち上げて鍵を差し込むと、軋んだ音を立てて開いた。

 「タオルとってくる」

 真がそう言うと同時に、廊下の奥のドアが開いた。

 「お帰りなさい」

 立っていたのは、お母さんらしき人だった。ベリーショートの髪。タンクトップと、ぴったりしたパンツ。細身が目立つ、ジム帰りみたいな格好だと思った。

 「降りだしたから心配してたの。傘、持っていってなかったし」

 「仕事は?」

 「個人レッスンが一本、キャンセルになったから。早めに帰ってきた」

 お母さんは真にタオルを渡し、当然のように私にもタオルを差し出した。

 「あの、私、遠矢といいます。急に雨になったから、その」

 真が何も言わないので、狼狽えながら説明しようとしたけれど、お母さんは頓着せず笑う。

 「遠矢さん、初めまして。よかったら、私の服に着替えて? 制服、浴室乾燥にかけるから。着替えはこっちで」

 真を振り返ると、二階に上がっていくところだった。無言のまま。

 何が何やら。私は化かされているような気持ちで、お母さんの後に続く。


 お母さんが渡してくれた着替えも、やっぱりジムウェアみたいだった。借りたドライヤー、タオル、濡れた制服を渡す。

 「すみません」

 「いいのよ。しばらくかかるから、お家に電話入れておこうか?」

 「あ、大丈夫です。親は仕事で、夕方まで帰らないので」

 「分かった。適当に座って」

 通されたダイニングの、手近な椅子に座る。戻ってきたお母さんが、お湯を沸かし始めた。

 「ジャスミンティー、飲める? 紅茶がいい?」

 「あ、それ、頂きます」

 飲んだことは無かったけれど、反射的に答える。ふわりと漂った花の香りが、心を落ち着けてくれたから。

 運ばれてきたのは、湯気の立つガラスのティーカップ。たんぽぽ色のお茶を口に含む。スーッとして、あたたかい。

 「ジャスミンティーは、冷えた時にいいんだって」

 向かいでお母さんがにっこり微笑む。

 なんだか、不思議な人だ。初対面なのに、相手に気負わせない。すとんと肩の力が抜けた感じ。

 「真……君は?」

 「二階。いつも、帰宅したら部屋にこもってるの」

 らしいといえば、らしいけど。こんな時くらい、降りてきたらいいのに。いや、こんな状況だから降りてこないのか?

 とりあえずの疑問を口にする。

 「お仕事、何されてるんですか?」

 「ヨガのインストラクター」

 「すごい」

 「すごくはないよ」

 お母さんは笑い、ちょっと考えてから「いろいろあって、そこにたどり着いたって感じかな」と呟いた。私が首を傾げると、もう少し付け加えてくれた。

 「会社員だったんだけど、途中で体調崩して。病院通って、結局仕事辞めて。いろいろ考えたんだけど、なんだか、今までとは違うことをしないと、違う流れはやってこないなと思って、ヨガを始めたの。前から興味はあったんだけど、いつかそのうちってなってたから、今だ!って。そしたら、ぴったりきたっていうか、私に合ってたみたいで。体が変わると、心も変わるのね。気づいたら前より調子良くなってた。これだ!って養成講座に通って、資格とったの。今は、小さいけど自分の教室やってる。まぁ、ぼちぼちだね」

 やっぱりすごい、と思ったけど、それはなんだか違う感じがするんだろうな。

 言葉を探す。

 「ぴったりきたんですね」

 「そうそう。うまく、流れにのったんだろうね。今はこれ!っていう。この先は分からないけど、とりあえず今はこれ」

 お母さんは笑った。いろいろあるのかもしれないけど、ぴかぴかした笑顔だった。

 そんな風に生きていけたら、素敵だなぁと思った。


 乾いた制服を身につける。お母さんは鞄も乾かしてくれていた。

 「中身、大丈夫だった?」

 「ペンケースくらいしか入れてなかったから、大丈夫です」

 答えて気づく。

 鞄を抱えていた真。

 中には、いつものノートが入っていたのだろう。

 「家まで送るわ、まだ雨降ってるから」

 お母さんは私の返事を待たずに上着を羽織って玄関に向かい、途中で二階に「遠矢さん、帰るよ」と声をかけた。

 聞こえてきた足音に、少し緊張する。

 真はTシャツに綿パンで、でもいつも通り淡々としていた。

 「えっと、ありがとう」

 無言で頷く彼。ギクシャクするのは、私だけだ。

 「大丈夫だった? 鞄の中身」

 さらりとお母さんが聞いた。真が頷く。

 私は瞬きする。

 「行ってくるわねー」

 お母さんに続いて出ようとして、振り返る。

 真と目が合った。

 何か言いたくて、でも言葉は出なくて。

 真は、微笑んだ。

 それは、あまりにも自然な笑みだった。

 本来の彼。

 そっと手を振った。

 扉を抜ける。

 もう一度、振り返る。

 まるで半身を置き去りにしたような。


 私の住所をナビに入れ、お母さんは車を発車させた。しのしのと雨が降る。車内にワイパーの音だけが響く。

 「あなたが、遠矢さんだったのね」

 前を向いたまま、お母さんが呟いた。

 「真が言ったの。『遠矢さんと顕微鏡を見た。スケッチしてた』って。びっくりした」


 やっぱり知っていたんだ。あのノート。


 「あの子が友達の名前を口にしたのなんて、何年ぶりかな。……小学生の頃は、いろいろあってね」

 お母さんは、昔を思い出すみたいに沈黙した。

 「あの子がどんどん喋らなくなって、表情が消えていくのに、何もできないんだよね。親なんて無力なもんだよ。学校なんか行かなくていいって言ったの。そんな風に自分を殺して生きるくらいなら、行かなくていいって。今でも、そう思ってるのは本当」

 でも、と言って、お母さんは困ったように微笑んだ。

 「真が、顕微鏡を買ってほしいって言った時、買ってやれなかったの。買ったら……学校行かないかもって、どこかで思ったんだ。顕微鏡を見るために、学校に行くかもしれないって。それも私の本音だったんだ」

 私は、ぎゅっとハンドルを握りしめた手を見つめた。

 お母さんは笑った。

 「ごめんね、こんな話して。遠矢さんに会えて嬉しかった。つい、話し過ぎちゃった。うち、真はあんな調子だし、旦那も似たようなもの。家で私ばっかり話してるから」

 雨は、いつの間にか止んだようだ。雲の切れ間から光が零れる。

 車は私が住むマンションの駐車場に滑り込んだ。

 「遠矢さん、ありがとう」

 お母さんはにっこりした。真そっくりの、深い瞳。

 私は言葉を探す。

 「真が、学校に来てくれて良かった」

 お母さんの瞳が揺れる。

 「真に会えた。一緒に顕微鏡、覗けたから」

 お母さんの方は見ずに、ドアを開ける。

 途端、視界に飛び込んだもの。


 天から射し込む光の中で。

 儚く煌めく、架け橋。

 虹。


 「綺麗ね」

 車から降りてきたお母さんが、私の横で呟く。

 しばらく、並んで空を見ていた。


 「最後に、また余計な話していい?」

 お母さんは空を見上げたまま呟く。

 「真は、昔からマイペースでね。運動も言葉もゆっくりで、私はずいぶん心配もしたの。でも不思議なものでね。悩んで悩んだ末に、あーもういいや!って気にならなくなったら、歩いたり喋ったりし始めた。ほんと、人それぞれなんだなぁって。真は、順番も時期も人とは違ったけど、ゆっくりじっくり、自分のペースで積み上げていってたのね」

 お母さんは、ひまわりみたいに笑った。

 「真が五歳くらいの時かな、一緒に虹を見たことがあった。この子が初めて見た虹なんじゃないかって、私は興奮して、一生懸命虹について説明したの。でも、あの子はつまらなさそうに言った。『夕方の虹なら良かったのに。朝の虹は、雨になるよ』って。その通りに、雨になった。あの子は、どこでそんなこと知ったのかしら。……あの子はいつも、私の想像を越える。あの子と居ると、思いがけず虹を見るわ。雨が降るから、虹も出るのよね」

 また話し過ぎたわね、と言って、お母さんは車に乗り込んでいく。

 「じゃあね、遠矢さん」

 「ありがとうございました」

 お辞儀をした私に手を振り返し、軽やかに車を発進させていった。


 お母さんは、「これからも真と仲良くしてやってね」とか、「また遊びにおいで」とか、そんな類いのことを一切言わなかった。


 小学生の頃、いろいろあって。


 呟きが過る。


 また、会いたいなと思った。

 潔いショートカット。ハンドルを握りしめた手。ぴかぴかの笑顔。

 ……彼の、自然な微笑。


 もう一度、振り返って空を見上げた。


 雨の後には、輝く虹。

 架け橋の向こうに、繋がっていく世界。



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