レーウェンフック

 夏休みのがらんとした校舎は、秘密めいた匂いがする。窓辺は陽射しに溢れ、グラウンドから、野球部の掛け声が遠く聞こえた。

 世界から切り取られたような理科室で、私と真は淡々と作業を続けている。

 「先生、これ、溜めすぎじゃないですか。もうちょっと小まめに写真プリントすれば楽なのに」

 私のぼやきを、中尾先生は笑い飛ばす。

 「時間を置いて振り返るのもいいだろ」

 今日は、理科部の夏休みの活動日。一学期の活動を記録としてまとめるのだ。毎回、顕微鏡に三脚で先生のデジタルカメラを取り付け、写真を撮っている。しかしその印刷を先生が後回しにしているので、こうやって長期休暇に記録の時間をとるのだという。一気にプリントされた写真は日付がバラバラだ。毎回の観察記録は真がつけていたが、写真の整理に手間取り、予想より時間がかかった。

 真は一つ一つの写真を見つめ、丁寧に貼りつけ、説明を添えていく。顕微鏡で見つめた一瞬を刻んだそれらは、別世界のようで不思議な魅力があった。

 この世ならぬ生き物のような、微生物の写真を手に取る。

 「最初にこういうの、見つけた人ってすごい。大発見ですよね」

 何気ない呟きに、中尾先生が嬉々として食いつく。

 「レーウェンフックだよ」

 「誰ですか?」

 「最初に自作の顕微鏡で微生物を見つけた人。オランダで小さな布地店をしてて、生地の細部を見るのにレンズを使っていたんだ。彼がレンズを磨いて作った顕微鏡は、シンプルな作りだけど、300倍を越えていたんじゃないかとも言われる。湖の水を観察して、微生物を見つけた。観察し、それらに生死があることを発見した」

 「びっくりしたでしょうね」

 私はボルボックスの写真を見つめる。透明な輝き。真摯なおよぎ。最初に、この世界に触れた驚きと、興奮を想像する。

 「レーウェンフックは、『わずか一滴の水の中に、おびただしい数の物体が、全て生きて目の前に存在している。これほど美しい光景をかつて見たことが無い』と述べている」

 いつしか真も、手を止めて中尾先生の話に耳を傾けている。

 「でも、最初からその発見が認められたわけじゃない」

 「どうして?」

 「レーウェンフックは大学で専門的教育を受けていなかった。本来発表する場を持たない彼の発見は、陽の目を浴びても、アマチュアに何が分かるかって言われたんだ。それでも、彼は諦めなかった。観察記録を送り続けた。遂には、ロシア皇帝も彼の顕微鏡を見に来たんだよ」

 「すごい」

 「けれど、彼の周囲は無関心だった。それが何になるのかってね。注目された彼の発見も、次第に忘れられていく。今では、微生物学の父と呼ばれているけれど」

 ため息が出た。真は無表情のまま、先生を見つめている。

 「彼の顕微鏡は見辛くて、人並み外れた視力と、執念で観察できたんだろうと言われている。……彼は顕微鏡の世界に、恋したようなものだったのかな。お金とか名誉とか、何かのためじゃなくて、純粋にその世界が知りたかったんだろうね。こういう世界があるんだって、伝えたかったんだろうね」

 私は写真に目を落とす。

 未知の世界の煌めき。


 何かのためじゃなくて。ただ、一途に。

 恋。

 私にはまだ、顕微鏡を覗くのと同じくらい、未知の世界。


 純粋な気持ちが、今は伝わらなくても。

 いつか、誰かに、思いもよらぬ形で、伝わることもあるのかな。

 真摯に顕微鏡を覗く、真を思い浮かべる。

 空の向こうのレーウェンフックさん。

 顕微鏡の世界は、今日も綺麗だよ。


 再び作業を始めた真を、そっと見る。

 久しぶりに会った彼は、少し日焼けしたみたい。身長、伸びた気がする。気のせいかな。

 私より大きな手。

 小学生の頃は私より小さかった男の子達が、いつの間にか私を追い越していく。

 悔しいような、眩しいような。


 夏休みの活動日について、真がふと漏らした時。

 ふぅん、と聞き流しながら、迷った。

 行こうか、行くまいか。

 近づきたくて、遠ざけたくて。


 夢から目覚めた時、彼の深い瞳が過った。

 久しぶりの制服に、袖を通した。


 「やっと終わったな!」

 先生がチェックしたファイルを綴じて、晴れやかに笑う。

 「先生、これ」

 真が唐突に、中尾先生に白い袋を差し出した。先生が取り出した中身は、イカや魚の干物のようだ。

 「お土産?黒糖干しか。ありがとうな」

 真は遠方の島の名を告げた。

 「母の実家があって、行ってきたので。母が先生にって……お菓子より、食べ物だろうって」

 「ご明察。助かるよ、旨そうだ。お母さんによろしく。いいなぁ、海、綺麗だったろう? 俺は今年、もう何処にも行かないだろうなぁ」

 先生はぽつりと、しみじみと、呟いた。なんだか気になった。

 「夏休み、まだ終わってないよ? 先生、どうしたの。彼女だっているんじゃない? 車持ってるんだし、一緒に海行ってくればいいじゃん」

 茶化した私の意に反して、中尾先生の笑顔が凍りついた。私は狼狽える。真はいつものポーカーフェイス。

 がくりと、先生の肩が落ちた。

 「……遠矢、その台詞は、三日前に言って欲しかった。女は、やっぱり恐ろしいな」

 「え、先生、三日前って、え……ごめんなさい」

 「三日前、何かあったんですか」

 真が容赦なく止めを刺す。

 中尾先生は力なく笑った。

 「彼女に振られたんだ」

 淡々とした言葉。それなのに。

 顔をあげた時には、嘘みたいにいつもの先生に戻っていた。

 「今日、一雨くるって言ってたからな。早めに帰れよ」

 見れば、晴れ渡っていた空はいつの間にか厚い雲に覆われている。傘を持ってこなかった私は、慌てて立ち上がった。

 「先生」

 真が突然呼び掛ける。振り向いた先生に、まっすぐ言い放つ。

 「先生は、その人のこと、本当に好きだったんですね」

 先生はポカンとしている。


 「そんなに好きになれるって、すごいです。僕には、出来ない」


 誰も、言葉が出なかった。


 俯いた中尾先生が、小さく息を吐いた。そのまま、笑い出す。

 「うん、そうか。すごいか。すごいんだな。人を好きになるって」

 先生は目の端に涙を滲ませ、笑いながら真の背を叩く。

 「ありがとうな、御手洗」

 真は突っ立ったまま。困ったように、先生に叩かれている。


 真の言葉が、木霊こだまする。

 僕には、出来ない。


 先生が先に帰った後、真と戸締まりをした。

 先生の話のせいか、なんだか調子が狂う。いつもの理科室と、空気が違うみたい。

 「髪、伸びたよね」

 黙っていたら、そのまま空気が見知らぬものになっていきそうで、思い付いたまま言葉にする。

 「髪、切りに行くの、苦手だから」

 「なんで?」

 「話しかけられるから」

 「……そりゃあね」

 淡々と話す真は、いつも通りだ。

 「駅前の千円カットのお店は? すぐ終わらせないといけないから、店員さん喋らないよ。うち、高校生になるまでは美容院ダメって言われて、いつもそこなの」

 笑いながら話したら、真から真剣な顔で場所を聞かれた。口で説明すると眉を寄せてしまったので、ノートの端に簡単な地図を書いて渡す。

 「ありがとう」

 真は丁寧に切れ端を折り畳み、鞄に入れた。入れ替わりに、何か取り出す。

 「これ」


 差し出されたのは、貝殻だった。コロンとした巻貝。滑らかな表面、艶やかな橙褐色。


 私は呆気にとられてしまう。

 「遠矢さんの、お土産」

 訥々とつとつと真は言う。自分でも扱いかねるように、眉を寄せたまま。

 固まったままの彼に気付き、手を差し出す。

 真はそっと、私の手に美しい海の忘れ物を載せた。

 一瞬、重なりあった手。

 ありがとう、という自分の声が、遠くから聞こえた。

 「海の音が聞こえるって言うよね」

 私は貝殻を、そっと耳に当てる。

 瞳を閉じた。


 想いが、寄せては返す。

 打ち寄せる波みたいに。


 耳を澄ませる。

 「どうして、あんなこと言ったの?」

 見えない真に向かって、尋ねる。

 「あんなこと」

 「……僕には出来ないって。人を好きになれない、なんて」

 一瞬、間があった。

 真の低い声が響く。


 「僕を好きになる人は、いないから」


 瞳を開ける。

 真と、瞳が合う。

 唇を引き結び、頬を強張らせた彼。

 がちゃんと理科室に鍵をかけ、不意に私に背を向けた。

 「鍵返して帰るから」


 ねぇ、でも。


 言葉には出せないまま、私は彼の背中を見つめる。


 海辺で、貝殻を拾う真を思い浮かべる。

 白い陽射し、打ち寄せる波。

 ひとり、佇む。


 私のことを、想ったの?

 どうして?


 心に響く波の音。

 寄せては返す、想い。


 私はひとり、佇む。

 残された貝殻想いだけ、握りしめて。


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