十字架

 平日昼下がりの住宅街は、不安になるほど静まり返っている。アスファルトの強い照り返しで、額に汗が滲む。今が盛りの蝉の声。

 目的地である市立図書館に辿り着くと、溜息が出た。自動ドアを抜けると、別世界みたいにひんやりした空気。高い天井に、足音が響く。

 数年前に立て替えたこの建物は、緩やかに続く階段の先が閲覧室になっている。ロビーを横切り階段に向かう途中で、私は足を止めた。目の端で捉えた人影。

 一階の奥、展示室。

 普段から人気ひとけが無いそこに、見知った後ろ姿。さらさら揺れる黒髪。


 千津ちゃんだった。


 定期的にイベントが行われている展示室。今は彫刻展らしかった。ギリシャ神話みたいに美しい人々の半身が、静寂の中で佇んでいる。

 千津ちゃんはその静謐な空間を歩いていた。時折立ち止まる。捜し物をしているかのような、真摯な横顔。

 白亜の像の森の中で、彼女自身もその住人みたいに見えた。目を離したら、その中に消えてしまいそうな気がした。


 私が展示室の入口に着いた時、一回りした千津ちゃんは、ある彫刻の前に戻って佇んでいた。切ない眼差しの女性像は、想いを託すみたいに彼女を見詰めている。

 千津ちゃんはしばらく立ち尽くしていた。

 彼女の世界に、迎え入れているのだろう。


 「千津ちゃん」

 まだ心が彷徨っているような彼女に、声をかけた。そっと話しかけたつもりだったけど、華奢な肩がびくんと跳ねて、声をかけたことをちょっと後悔した。けれど、私に気づくとふわりと微笑んだ。

 「泉ちゃん。久しぶり」

 いつもの制服姿じゃない千津ちゃん。カットソーにジーンズ、というラフな格好なのに、なんだか凛としていた。彼女本来の揺るぎなさが、制服より現れている気がした。

 「ここ、近所だから時々来るの。泉ちゃんは?」

 「本を返しに」

 私がバックから取り出した本の表紙を見せると、千津ちゃんは嬉しそうに笑った。懐かしい知り合いに会ったみたいに。


 星野富弘さんの「かぎりなくやさしい花々」。


 千津ちゃんが好きだと語った本だった。


 星野富弘さんは、中学の体育教師だった。

だった、というのは、事故で首を怪我し、首から下が動かせなくなってしまったから。

 一命はとりとめたものの、寝たきりの入院生活となった星野富弘さんは、一変した生活に苦悩する。

 けれど、あることをきっかけに口にペンをくわえた。点は線になり、字となった。お母さんと看護師さんに文字通り支えられながら、一心に練習を重ね、やがて絵筆を咥えて花を描くようになる。

 かける喜びは、生きる喜びに繋がってゆく。


 一階のロビーには、椅子とテーブルがいくつか置かれた談話スペースがある。

 私と千津ちゃんはそこで、一緒に本を眺めた。

 他に人はまばらで、私たちは静寂を破らないよう、声を潜めて話をした。

 「私、この詩が一番好きだった」

 開いたページに、千津ちゃんが頷く。

 「私も」

 白い小さな花が添えられた詩。



 ドクダミ


 おまえを大切に

 摘んでゆく人がいた

 臭いといわれ

 きらわれ者の

 おまえだったけれど

 道の隅で

 歩く人の

 足許を見上げ

 ひっそりと

 生きていた

 いつかおまえを

 必要とする人が

 現れるのを

 待っていたかのように


 おまえの花

 白い十字架に似ていた



 ドクダミは、家の近くにあった。花を見たこともあったはずだけど、今まで気にとめたことは無かった。独特の匂いがするのでこども心に避けて、ままごとに登場することも無かった。薬になると聞いたことはあったけれど、自分には関係ないと思っていた。


 座り込んで、ドクダミを見つめた。


 まばらに赤紫が入った葉。いかにも雑草で、誰もが美しいと思う外観じゃない。日陰にひっそりと咲く花。


 誰もが、光が当たる訳ではなくて。時には忌み嫌われることもあって。

 美しいとか醜いとか、関係ないっていうけど、でもやっぱりそれは私の中にあって。

 それでも、純白の花は気高く生きている。


 星野富弘さんは、幾日もかけて絵を描くのだという。散ってゆく花びらも、萎れてゆく葉も、そのまま写しとる。

 自らの心に対しても、そうだ。弱音を吐き、自分勝手で、他人を悪く言ってしまう自分を、そのまま綴る。


 初めて。

 弱くてもいいのだと、言われた気がした。

 自分の弱さを見つめながら、精一杯に生きるのだと。

 ありのままを描いた花も、言葉も。

 優しくて、力強かった。


 「初めて読んだのは、小学三年生の時だったの」

 千津ちゃんはささやくように語った。

 「教室で読んでたら、担任の先生が、『私も持ってるのよ』って、話しかけてくれて。図書室には無い、他の星野富弘さんの本も貸してくれたの」

 千津ちゃんは視線を彷徨わせる。私は一緒に過去が浮かび上がるのを待つ。

 「若い新任の先生で、私たちが、先生が初めて受け持った児童だった。卒業後、みんなで先生の家に遊びに行ったんだ。それで知ったんだけど、先生には障害がある妹さんがいたの。もう大人なんだけど、時々自分で作った歌を歌ってた。小さな子どもみたいで。車椅子に乗ってた」

 「最初、びっくりした。でも、妹さんは私たちに会えたのが嬉しくて、にこにこしてて。一緒にトランプをして、みんなで笑って、すごく楽しかったの。妹さんの障害が何なのかとか、全然気にならなかった。楽しかったってことしか、覚えてない」

 「車椅子を押す先生が、すごく優しかったのを覚えてる。妹さんが何を言いたいのか、先生にはすぐ伝わるの。ずっと一緒に暮らす中で、肌に馴染んだ感覚があるんだろうなって」

 少し、間があった。千津ちゃんは言葉を探す。

 「先生は、三年生の時に私たちを、特別支援学校に連れて行ったの。障害がある子どもが通う学校。前もって、みんなでプレゼントを作ったり、歌を練習したりした。その時に、どんな学校なのか説明もしてくれたんだろうけど、よく覚えてない。当日会った、同じ歳の子ども達は、やっぱりにこにこしてた。みんなで一緒に遊んだ。やっぱり、楽しかったって記憶しか無いの。そこの先生もすごく優しくて。何があっても、穏やかで。のんびりしてて」

 「なんだかね……いつもの教室より、安心な感じがした。なんでかな。きっと大変なことも、たくさんあるだろうなって思うんだけど」

 階段を時折行き交う人は、私たちには目もくれない。外はまだ、眩しい日射しに溢れているだろう。ここは静かだ。外界から切り取られたみたいに。

 私たちは、想いの中に沈殿する。

 「本当はね。私、そういう人達が怖かったの。もっと前、遠くの公園に遊びに行った時、変わった女の子から声をかけられたことがあって。私より大きいのに、ちっちゃなこどもみたいで、何を言われてるか分からないし、どうしたらいいかわからなくて。怖くて、ドキドキした。私が固まってたら、妹だったのかな、私と同い年くらいの子がやってきて、その子の手を引いて、どこかに連れて行ったの。私は走ってお母さんのところに戻って、でも今の出来事をどう話したらいいかわからなくて。そのままになっちゃった」

 私は頷く。分かる気がした。その時の千津ちゃんの怖さも、混乱も。

 「今になって思うの。あの時の女の子は、私と遊びたかったのかなって。にこにこしながら話しかけてきた、特別支援学校の子達と一緒だったのかなって。知らなかったから、分からなかったんだよね、私。あの頃は、何とも思わなかったけど、担任の先生はずっと、こういうことを考えてきたんだろうなって。私たちに、伝えたかったんだろうなって。あの子達の存在を。私たちと、切り離された存在じゃないんだよって。今は、そんな風に思う」

 静かなロビーに、千津ちゃんの囁きが木霊こだましていく。


 星野富弘さんが、初めて特注の車椅子で動き回れた喜びについて書いていた。

 その横を、気の毒そうな眼差しで通り過ぎる人もいた、と。

 からだの不自由な人は、かわいそうなのだろうか。体は不自由でも、心は不幸ではないのだと、星野富弘さんは書き綴っていた。

 傷があったとして、それを乗り越える力が働いて、新たに見えてくる世界もあるのだと。


 障害って、なんでそういう字を書くのかな。

 差し障りがある。有害。

 何が差し障りなんだろう?

 星野富弘さんが描いた世界。

 千津ちゃんが語った、彼らの世界。

 その世界を、なんて表せばいいのかな。


 私たちはただ、知らないだけなのかな。

 お互いの世界を重ね合わせたら、違う世界が見えるのかな。


 二人、森にいた。

 鬱蒼と樹木が生い茂り、沌々と泉が湧く。

 木々の間に、神話のような人々が見えた。思慮深い眼差し。男も女も、老人も子どもも、寄り添いながら歩む。穏やかに笑う彼らの傍らを、ひとつ目の獣が悠然と駆けてゆく。

 空から銀色の鱗を煌めかせた鳥が舞い降りた。鋭いいななきに耳を傾けた彼らは、歩む方向を変える。衣擦れの音を残して、去ってゆく。


 共に生きてゆく世界。


 私たちの足許には、小さな花が咲いていた。

 陽の射さぬ森の中で、白い十字架は静かに輝いていた。

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