ボルボックス
いつもと違う、がらんとした教室。やっぱりいつもと微妙に雰囲気が違う担任。よそゆき顔のお母さん。私も、いつもと違って見えるのかな。神妙な三人が教室にぽつんと居て、なんだか滑稽な気分になった。
今日は、三者面談。
学校で親に会うのは、不思議な気がする。何とも言えない気恥ずかしさ。いつもは見せない自分の日常が、持ち込まれるからだろうか。けれど、現れたお母さんにホッとする気持ちもある。
さっきから私は蚊帳の外で、担任とお母さんの話し声だけが響く。これまでの面談もそう。何の話をしたのかさっぱり記憶が無い。それなのに、話題は私のことなんだなぁ。
成績。交友関係。学校生活。
外側の、切り取られた私。
「遠矢さんは、授業態度も真面目ですし、学校生活も落ち着いています。二学期も、この調子で」
クラスの大半に当てはまりそうな言葉で締め括られる。まぁ、私は教室の目立たない存在だから仕方ない。
ありがとうございました、とお母さんが頭を下げる。私も一緒に頭を下げた。最後まで、よそゆき気分のまま。
教室を出ると、溜息が出た。
「終わったわねぇ」
お母さんも心なし、ホッとした感じ。いつもより紅い口紅、ベージュのスーツ。
「お疲れ~」
次は、尚子の番らしい。廊下ですれ違い様、手を振り返す。
尚子の横に立つお父さんが、私たちに軽く会釈した。お母さんもお辞儀を返す。
尚子達が教室に消えてから、お母さんが呟く。
「尚子ちゃんとこ、お父さんが来てるのね」
私はお母さんを見ずに言う。
「尚子、お母さんいないから」
お母さんは、ちょっとだけ沈黙した。
「尚子ちゃん、しっかりしてるものね」
何度か家に遊びに来た尚子のことを思い出すように、お母さんは目を細めた。
何だか的外れな返事に思えて、でも何を返せばいいかわからなくて、私は黙りこむ。
尚子のお父さん。馴染んだ作業服、尚子みたいにすらりとした長身。学校の廊下でも、不思議と溶け込んで違和感が無い。
やっぱり尚子みたいだ。どこにいても、まっすぐ立っている。
仲良くなって間もなく、尚子はさらりと家の話をした。
「うち、お母さんいないんだ。弟が産まれてすぐ、私がまだ小さい頃に、出ていったらしくて。どんな人かも、覚えてない」
同居しているお祖母ちゃんと一緒に夕飯を作るのが日課。行事の時は、早起きしてお弁当も作る。部活が終わればさっさと帰宅する。二つ歳の離れた弟がいて、尚子が宿題をみてあげているらしい。
淡々と話す尚子。いつも明るくて、まっすぐで、屈託なく笑う彼女の背景。私は声をかけたいけど、何を返せばいいかわからなくて、結局は「そうなんだ」と相槌を打っただけ。
まやちゃんは、いつもみたいに微笑んで、尚子の話を聞いていた。
尚子と幼馴染のまやちゃん。これまで、彼女が傍らで見てきた尚子の姿。
淡々と繰り返されてきた、尚子の日常。
海辺に住んでいるから潮風を受け入れ、森に住んでいるから寒さを厭わないように。
それは称賛を求めてはいないし、ましてや憐憫は似合わない。
ただ、その繰り返しが、今の彼女を作ってきたんだろうなと思う。
周りに流されない、強い瞳。いつもまっすぐ立っている尚子。
もう一つの風景。
体育館で、3人でお喋りしていた時のこと。
何の話をしていたかは、もう思い出せない。他愛も無い会話の中で。
不意に、尚子がふざけて私に抱きついてきた。
尚子は言った。
「おかあさーん!」
私は一瞬、息が出来なかった。
会話の続きみたいに、笑いながら。
尚子の背に手を回した。一度だけ、力を込めて。
傍らで、まやちゃんはやっぱり、笑っていた。
何でも無いように、尚子は離れた。また会話は流れた。
あくまで明るい体育館で。何気ない日常として。
放課後の、音の無い理科室。
顕微鏡を眺めながら、尚子のことを考えていた。
「ボルボックス」
真のノートの書き込み。小さな細胞が群体を形成する、藻類。
綺麗な球体の表面には、2000個もの小さな体細胞が一層に並んでいる。
一つ一つの細胞を捉えるつもりで、描く。
ゆっくり回転しているのは、それぞれの体細胞が
「ボルボックスは、娘群体を作る」
「娘群体?」
「内側の生殖細胞が分裂して、新しい胚、娘群体を内部に形成する」
「母と娘が一緒に生きていくの?」
「違う。娘群体は成熟すると、層を破って母群体から孵化する。娘群体を2回放出したら、母群体は死ぬ」
母は、娘に命を託す。
誰に教えられずとも、刻み込まれた永遠の営み。
人間は?
尚子のお母さんがどんな人だったのかは、分からない。
尚子は、母親を求めている訳じゃない。
ただ、自分の
ボルボックスは、光に向かって真摯に泳いでいる。
尚子のお母さんが、どんな想いで出ていったのかは、分からない。尚子を授かった時、どんな想いを抱いたのかも。
だけど、彼女のからだが10ヶ月間お腹に抱えて、尚子を守ったのは、事実だ。
陣痛に耐え、尚子を産んだのは、事実。
的外れかもしれないけど。
私は、彼女が尚子を産んでくれたことに感謝する。
彼女の不在が無ければ、今の尚子はいないのだとも思う。
私は今の尚子を尊敬するし、今の尚子が好きなのだ。
母群体から飛び出した、娘群体を想う。
娘は生まれた瞬間から、母とは別の個体として生きていく。
この世界で、力強く。
光に向かって。
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