プラナリア
「こんなもんかな。プレパラート、準備して。覗いてみろ。……緑じゃないだろ?」
放課後の理科室は、いつもと違って、賑やかだ。私はさっきから、顕微鏡を眺めてやりとりしている二人を眺めている。
二人。
真と、中尾先生。
最近、毎週火曜が理科部の活動日であることを知った。火曜は、顧問の中尾先生もいる。そうとは知らずに理科室の扉を開けた時は、びっくりした。
「なんだ、遠矢。入部希望か?」
そう言って笑う中尾先生に焦ったけど、入部する訳でも無い私の出入りを、先生は黙認してくれている。
中尾先生は、理科の先生。まだ若くて、教師になって三年目だと話していた。
初めて先生の授業を受けた時、驚いた。
板書の、右上がりのクセ字。
これまで整然とした板書しか見たことが無くて、先生は無条件に達筆なものと思っていた私には、衝撃だった。
今日のテーマは「色素体の観察」。真が「葉緑体が緑なら、全ての植物が緑になるはずなのに」と考えたことから決まったらしい。
机上には、緑のピーマン、赤と黄色のパプリカ。二人は野菜をカミソリで切り取って切片を作り、顕微鏡で観察している。中尾先生は私にも何を観察するのか説明してくれたけど、正直よく分からない内容。
「色素体。光合成や貯蔵なんかを行う、植物の細胞小器官。葉緑体はその一つ。全ての植物に、葉緑体しか無いわけじゃないんだ。見えてるのは、有色体。黄色だろ?」
真は頷くけど、黙ったまま。それでも、先生は楽しそうだ。真の表情も、いつもより柔らかいような。
真といると、先生はまるで同級生みたいに見える。文字通り、二人の世界。だから二人が思う存分没頭できるよう、火曜に来るのは控えている。でも今日は、先生が「面白いものを見せる」と言うので、つい来てしまった。
「ほら、これ。御手洗にやるよ」
後片付けが終わった後で先生が取り出したのは、A4サイズに二つ折されたコピー用紙だった。何やら小さな文字がびっしりと書き込まれている。全然、面白そうじゃない。
「何ですか、これ?」
拍子抜けした私が尋ねると、「論文」という答が返ってきた。先生は嬉しそうに言葉を継ぐ。
「大学時代のものを片付けてたら出てきてさ。俺の専攻とはちょっと違うんだけど、講義で見たとき、面白いと思って取っておいたんだ」
「……プラナリア」
無言で目を通していた真が呟く。
「プラナリア?」
「原始的な無脊椎動物だ。川なんかに住む、ごく小さな生き物。高校の生物で習う。プラナリアは面白いよ」
先生は持参したiPadで検索し始め、「これ」と私たちに映像を見せる。
透明がかった茶褐色の体。一瞬、ナメクジに見えて身構える。けれど、頭は三角形だし、よく見ると中央付近に目がある。くっついた寄目は、何かのキャラクターみたいだ。
「プラナリアは、からだを切断されても再生する。2つに切れば、一方からは尻尾が、一方からは頭部が再生して、元通りになる。100を越える断片になっても、全て再生すると言われるよ」
「本当ですか?不死身ってこと?」
思わず尋ねると、先生は嬉しそうに首を振った。
「不死身なら、もっと面白いけどね。棲んでる水の変化に敏感で、水が濁ると死んでしまうんだ」
私は二度、驚く。
切られても再生しちゃうのに、水が濁ったら死んでしまうなんて。
強いんだか、弱いんだか分からない。
「その論文は、プラナリアの脳の再生過程の変化について調べたものだよ」
「脳? 脳があるの?」
「そう。プラナリアは、地球上の生物で一番最初に脳を獲得したと言われている。プラナリアは、脳も臓器も再生する。プラナリアの再生について研究が進めば、再生医療といって、人間の病気の治療にも応用できるかもしれない。今は治療法が無い難病が、治るかもしれないんだよ。その研究を進めるために、プラナリアは宇宙にも行ったんだ」
論文を読み終わったらしい真は、じっと先生を見つめている。先生は、真に論文の概要を説明し始めた。私には理解不能の単語を、真は真剣に聞き、論文にメモしている。
「切られて再生したプラナリア、新しい頭部を持つ個体にも、切断前の記憶が残っているという研究もある。どんな実験をしたかというと…」
先生はついに、黒板にクセ字を書き付けながら、真に個人講義を始めてしまった。
私は、ノートにこっそり落書きをしてみる。プラナリアは、写実的にではなくデフォルメした方が、魅力が伝わる気がした。
三角頭の丸っこいからだ、短いしっぽ。くりくりした愛嬌のある目。
強いんだか弱いんだか分からない。グロテスクなようで、ちょっと可愛い生き物。
小さなからだに秘められた、大きな可能性。
謎に満ちた、不思議な世界。
先生の個人講義は終盤に入ったらしい。
「研究目的、意義は大事だ。何のためにそれを解明し、何に役立てるのか。けれど、役立つかどうかだけに捕らわれると、大事なことを見落としてしまう。まずは、自分の周りの世界に興味を持つことなんじゃないかと思うんだ。当たり前だと思われていることを、どうしてだろうって考えてみる。そうやって発見されたことが、この世界を広げていったんだよ」
先生は一気に喋った後、「熱が入りすぎたな」と照れ臭そうに笑った。黒板消しを手に取り、板書の文字を消していく。
真はやっぱり、黙ったまま。
でも、真の瞳はいつもより力強くて、先生の想いが刻まれていったのが分かる。
授業の時とは違う、少年みたいな先生の横顔。
右上がりのクセ字。
年月が経てば、中尾先生も、整然とした文字を黒板に書き連ねるようになるのだろうか。
真とは、理科室で別れた。返却期限が近い本があるので、帰りに図書室に寄りたかった。図書室と職員室は同じ方向なので、自然、中尾先生と並んで歩くことになる。
西日が強くなってきた。静かな廊下は、差し込む光に満ちている。
「御手洗は、面白いよな」
先生は目を細めた。
「昔、御手洗みたいな友達がいたんだ」
理科室の魔法が続いているようで、先生は私に対しても、先生というより同級生みたい。
「昔」と過去形だったのが、少し気になった。
先生は懐かしそうに言ったけれど、続きを話す気配は無い。
当たり前だけど、先生も、一人の人間なんだと思った。
かつて少年だった、語られない先生の物語。
「大学って、まだよく分からないけど……研究とか、面白いんですか?」
「俺は面白かったよ。でも、研究に向く奴と、向かない奴がいる。悩んだけど、卒業後も研究を続けようとは思わなかった」
先生はさらりと言った。
図書室の前で、私は先生を振り返る。
「……どうして、教師になろうと思ったんですか?」
西日が眩しくて、目を細める。
先生は一瞬黙った。
「忘れ物を取りに来たようなもんだよ、
逆光で、先生の表情はよく見えない。
けれど、静かに微笑んでいる気がした。
階段を下っていく背中を見送りながら、ぼんやりと先生の言葉を反芻する。
忘れ物を取りにきた。
学校。この、不思議な世界。
いつか、別の感慨と共に、
もう一度帰りたいと、思うのだろうか。
私たちは、プラナリアみたいに、全てを元に戻すことはできないけれど。
失われた断片を求めて、取り返せない過去を探して、
その先で、新たな記憶、新たな自分が作られていくのかもしれないと思った。
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