森に眠る花

 しんとした夜。私はひとり、千津ちゃんのノートを広げ、彼女の世界を覗く。

 一篇の詩が、描かれていた。


 「吹く風を心の友と」


 吹く風を心の友と

 口笛に 心まぎらはし

 私がげんげ田を歩いていた 十五の春は

 煙のやうに、山羊のやうに、パルプのやうに


 とんで行って、もう今頃は、

 どこか遠い別の世界で花咲いているであらうか

 耳を澄ますと

 げんげの色のやうにはぢらひながら遠くに聞こえる


 あれは、十五の春の遠い音信なのだらうか

 滲むやうに、日が暮れても空のどこかに

 あの日の春のままに

 あの時が、あの時の物音が経過しつつあるやうに思はれる


 それが何処か?

 ―とにかく僕は其処そこへゆけたらなぁ……

 心一杯に懺悔ざんげして

 ゆるされたといふ気持ちの中に、

 再び生きて、

 僕は努力家にならうと思ふんだ―


(「中原中也全詩集」より)


 ところどころに現れる旧仮名遣いで、誰かの詩を書き写したのだと分かる。

 千津ちゃんは、どんな思いでこれを書いたのだろう。


 十五の春。詩人が回想する過去は、私にとっては未来だ。中学校を卒業し、高校に入学する。

 また別の箱に入るだけなのか、新しい世界の幕開けか。

 その時、私は何を想うのか。


 調べたら、「げんげ」は蓮華草れんげそうのことだった。

 一面の蓮華草。遠い春。まだ見ぬ、春。


 「心一杯に懺悔して、恕されたという気持ちの中に、再び生きて」


 声に出して呟いてみる。

 一節一節が胸に響いた。


 胸のわだかまり。

 環ちゃんのぎこちない笑み。

 よろめいた真の、動かない表情。


 私が恕されることは無い。

 それでも、もし、恕されるなら。

 その時は、生まれ変わったような気持ちで。


 精一杯に、生きるしかないのだと思った。


 瞳を閉じれば浮かぶ、一面の蓮華畑。

 心を、風が吹き抜ける。



 翌日の教室。

 今日も、よく晴れた好い天気だ。梅雨が明けた空は、青が深くなっていく。教室の窓から差す光が、少しずつ強まる。

 窓辺で感じる、夏の気配。


 千津ちゃんは登校してきた。

 ホッとして、でもドキドキしながら、ノートを差し出す。


 「ごめん、昨日間違えて持って帰っちゃった」


 千津ちゃんは慌てた様子で首を振る。


 「ううん、私が気付かなくちゃいけなかったのに、ごめんね」


 私は迷い、でも堪えきれずにノートをめくり、開く。


 「ごめん、書いてあった詩、見ちゃったんだ。……これ、誰の詩なの?」


 千津ちゃんの頬が、みるみる赤く染まった。

 言葉を探すように口を開きかけ、閉じる。

 私は彼女を動揺させていることを申し訳なく思いながら、でも、扉が開くのを待つ。

 その先の、世界が見たいから。


 「中原中也」


 千津ちゃんが呟いたのは、初めて聞く名前だった。


 「明治から昭和にかけて生きた詩人。30歳で亡くなったの。小学生の時から、短歌を作ったりしてたんだって」


 30歳といっても私にはまだピンとこないけれど、夭逝、というものなのだろう。


 「不思議な詩……よく分からないところもあるけど、しっくりくる感じがする」


 私の言葉に、千津ちゃんが頷く。


 「十五の春って、あとちょっとだね」


 「十二の冬の詩もあるよ」


 「ほんと? 読んでみたい」


 「じゃあ、読んでみるね」


 「え?」


 千津ちゃんは小さな声で、けれど朗々と、詩を暗んじ始めた

 いつもの過敏な殻を脱いだ彼女の瞳に、光が宿る。


 「頑是ない歌」


 思えば遠く来たもんだ

 十二の冬のあの夕べ

 港の空に鳴り響いた

 汽笛の湯気は今いずこ


 雲の間に月はいて

 それな汽笛を耳にすると

 悚然しょうぜんとして身をすくめ

 月はその時空にいた


 それから何年経ったことか

 汽笛の湯気を茫然と

 眼で追いかなしくなっていた

 あの頃の俺はいまいずこ


 今では女房子供持ち

 思えば遠く来たもんだ

 此の先まだまだ何時までか

 生きてゆくのであらうけど


 生きてゆくのであらうけど

 遠く経て来た日や夜の

 あんまりこんなにこいしゅては

 なんだか自信が持てないよ


 さりとて生きてゆく限り

 結局我ン張る僕の性質さが

 と思えばなんだか我ながら

 いたわしいよなものですよ


 考えてみればそれはまあ

 結局我ン張るのだとして

 昔恋しい時もあり そして

 どうにかやってはゆくのでしょう


 考えてみれば簡単だ

 畢竟ひっきょう意思の問題だ

 なんとかやるより仕方もない

 やりさえすればよいのだと


 思うけれどもそれはそれ

 十二の冬のあの夕べ

 港の空に鳴り響いた

 汽笛の湯気は今いずこ


(「在りし日の歌」より)


 千津ちゃんは、一息に暗誦して微笑んだ。


 「すごい」


 「そんなことない。詩集、全部は買えないから、図書館で借りて、書き写して、覚えてるだけ。……いいなと思った詩は、手離したくないんだ」


 すごいのは暗唱してることじゃない、と思う。

 そうやって幾つもの詩を取り込んで、千津ちゃんの世界は広がっていくのだろう。


 思えば遠く来たもんだ。


 詩人がそう呟く十二の冬は、一昨年のことだ。小学校最後の歳。確かに、何かが終わった。中学校は、それまでとは違う世界だった。


 いつか遠い未来の瞳が振り返った時、今の私はどう映るんだろう。

 ときどき胸を過る「遠い未来」は、いつか現実のものとなる。

 その時、私は。


 「私たちにとっては、十三の初夏だね。十三の初夏、あの窓辺。あの頃の私は、今いずこ」


 千津ちゃんがうたい、微笑む。

 私も頷く。


 いつか私たちは、今日のこの瞬間を、鮮やかに思い返すのだろうか。


 十三の初夏、あの窓辺。

 あの頃の私は、今いずこ。



 千津ちゃんは安堵したように、詩の話をした。

 谷川俊太郎、金子みすゞ、星野富弘、相田みつを……。

 画家の名前も挙がった。

 いわさきちひろ、中島潔、奈良美智ならよしとも

 初めて聞く名前を、大切な友人のように語る彼女が眩しかった。

 あたたかな光に満ちた、千津ちゃんの世界。


 私は彼女の中に広がる森を見た。

 そこには、滔々とうとうと河が流れ、数多あまたの生き物が躍動する。

 その奥底に、見たことの無い花が眠っている。

 まだ固いつぼみは、時が満ちれば、ひそやかに花開くのだ。

 彼女の内なる想いを吸い上げて咲く、美しい花が。




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