正解も解説も無い
7月に入ると、教室の雰囲気がぴりりとしてきた。テスト期間に入ったのだ。もうすぐ、期末テスト。
来年は受験生。今はまだ、実感が湧かないけれど。
まだ、中2。もう、中2。
千津ちゃんは、また休みが増えてきた。彼女の心とからだは、敏感に教室の変化を感じとっているのだろうか。
私はひたすら、授業に耳を傾ける。重要だと強調された箇所に、赤い線を引く。
授業中、ひたむきにノートを綴っていた、彼女の横顔を思い出しながら。
「あーあ、期末やだな。終わるまで部活無いし」
「中間、良かったじゃない。期末はもっと良いかもよ」
ぼやく尚子を、まやちゃんが宥めている。
「中間は勘が当たったんだって。そもそも、期末は教科多すぎだし。あんなに要らなくない?だいたい、掛け算割り算までできて、読み書きできれば生きていけるじゃん。なんでこんなに勉強しなきゃいけないんだろ」
突っ伏した尚子の背中を、まやちゃんが笑ってぽんぽん叩く。
なんで勉強するんだろ。
私はぼんやり考える。
尚子は、卒業後、准看護学校に行きたいと言う。周囲からは高校に行き、それから准看護学校に行くことを勧められるらしいが、早く手に職をつけたいのだと話す。
弟が入院した時、親身に対応してくれた看護師さんを見て、こんな風になりたいと思ったのだそうだ。
まやちゃんは英語が好きで、大学生になったら留学したいと言う。英語ができれば、世界中の人と話したり、世界中の本が読めたりして素敵だ、と言う。今も、英語の成績は上位だ。学ぶのが、楽しいと話す。
私には、まだ将来のビジョンが無い。
時々、焦る。
今の成績で受かる高校に進学して、同じように大学に進学して。
その先で、何が待つのだろう。
お菓子屋さん、スチュワーデス、漫画家……。
昔の夢は、もう声高に語れなくなった。
恐る恐る口にすれば、誰かの溜息が聞こえてきそうだ。
夢を持て、と言われるけれど。
夢の探し方が、分からない。
なんで、勉強するんだろ。
何のために、が宙ぶらりんなまま。
テスト期間前、理科室での真との会話を思い出す。
「いいよね、真は頭いいから」
何気なく呟いた私に、真は首を傾げた。
「頭、良くはない」
他の人ならカチンとくる謙遜だけど、真は心底そう思っている。私も本音を伝える。
「なんで? 学年一位になったりするじゃん」
真は淡々と答える。
「授業を聞いても分からないから、勉強してる」
はぁ? と間抜けな声をあげた私に、真はぽつぽつ語る。
「授業を聞いても、その場では分からない。だから、自分で内容をまとめ直す。パターンを掴んで、覚えるまで繰り返し解く。前のテストをやり直して、自分が何を分かっていないのか、考える。……どうしたら理解できるか、考える」
真は、塾に行っていない。
一人で、黙々と机に向かう姿が浮かんだ。
繰り返し繰り返し。
分からないことが、分かるために。
何時間も、立ち向かう。
「……いつも、細かくノートとるよね」
真の隣の席になって、彼が授業中ノートを書き続けているのに気づいた。板書だけでなく、先生の言葉を全て書き付けるように。
授業中だけでなく、ホームルームの内容もそうだ。授業の変更、提出物の期限。言われた端から、手帳に書き付ける。
「聞いたこと、書かないと忘れるから」
真は何でもない風に言う。
きっと誇張ではなく、彼にとって、耳から入る言葉は端から消えてしまうのだろう。
たぶん失敗を繰り返して、真は書き続けることに辿り着いたのだ。
真にとっては、教科の勉強に限らず、出会うこと全てが勉強なのだろう。
どうすれば分かるのか。出来るようになるのか。
この世界で生きるために、学び続けねばならないのだろう。
何のために、勉強するんだろ。
私は、何のために。
今日は、ゲストティーチャーの授業があった。席は自由。体育館に移動し、休み時間の間に場所とりをする。まやちゃん達とトイレに行って戻ってきたら、ぽつんと座る真が見えた。
……けれど。
窓際、真が座ったあたりに、石崎君と仲のいい橋本君が座っている。
「ぼっちが、なんでこんなとこいるんだよ」
ざわざわとした予感は的中する。
石崎君と、同じ野球部の坂上君。坂上君が、橋本君の隣に座る真を見て、露骨に顔をしかめる。石崎君が無造作に真のペンケースを掴み、放り投げた。
「御手洗、便所クセぇ。あっち行け」
真は黙ったまま立ち上がり、ペンケースが着地したところで体操座りになる。背後で、嘲笑が上がった。真の足に回した手に、心なし力が入る。
「始めるぞ。日直、号令」
ちょうどよく担任がゲストティーチャーと共に入室し、ざわめきはぴたりと静まる。
まるで、意図せぬ舞台のようだ。
見て見ぬフリの私たちは観客。無意識の演者。生贄のような主役。
真は、皆から少し離れて座っている。
窓の形に四角く切り取られた光が、そこに座る真の孤独を浮き上がらせる。
最初から、そんな筋書きだったかのように。
放課後、真の後を追った。
「イヤなこと、忘れられるから」
顕微鏡を覗く真の呟きが甦る。
顕微鏡を覗けない今。
真は、胸のわだかまりをどうしているのだろう。
校門を過ぎ、学校の裏にある水田のあたりまでくると、他に人影は無かった。
「真」
声を掛けると一瞬、間があった。真が振り返る。深い瞳。
「……今日、体育館で、どうしてあそこに座ったの? 石崎君達のとこ」
私の唐突な問い掛けが、宙に浮かぶ。
けれど、真は真摯に答えた。
「自由って言われても、どこに座ればいいか分からないから。教室と同じところに座った」
教室、窓際の左端。前から2番目。
区切りの無い体育館で、真は自分で教室の座席を再現し、自分の場所を見つけた。
……はず、だった。
自由に、と言われても、自由になれない人もいる。
真は、正解も解説も無い課題に、いつも立ち向かっているのだ。
一人で。
「……石崎君達は、避けた方がいいと思う。石崎君、坂上君、橋本君のグループ。あの人達の近くには座らない。刺激しないでおく」
どう言えば真に伝わるのか考えて、私は言葉を探す。
「自由に座れって言われたら、彼らがいない端っこを探してみたら。一番前、一番後ろ、一番右、一番左」
グループで固まって座ってるから、そこに割り込んじゃいけないんだよって、どう伝えたらいいんだろう。
どう伝えても、あなたは一人ぼっちなんだよって、言ってるようなものだ。あなたの場所は無いんだよって。
本当は、私の隣に座ればいいって、言えたらいいのに。
それは言えない、私がいる。
真は私の言葉を反芻するように黙っていたけれど、不意に顔を上げた。
「分かった。ありがとう」
真に、ごめんって、謝りたくなる。
でもそれは、違うと思う。
何も出来なくてごめんって謝るのは、これからも何もしないからねって、容認してもらう行為だ。
何も、出来ないけど。
何が出来るのか、考え続けたい。
「早く、顕微鏡、見れたらいいね」
早く、安心で幸せな真の世界に浸れたらいいのにって、思う。
真はちょっと首を傾げ、呟いた。
「ノートが、あるから」
真のノート。
書き込まれた微生物の解説。
……私の絵が添えられた。
遠ざかる真の背中が、涙で滲んだ。
寄り添えない、私の代わりに。
私の絵が、寄り添えたらいいなと思った。
机の上には、教科書、ノート。
テストの日程表を見て、大まかな勉強のスケジュールを決める。初日の苦手な数学は、多目に時間をとる。5教科以外の科目は、直前に復習すればよさそう。
中間テストの答案と、授業の小テストを取り出す。今日はこれをやり直して、どこが分からないのか掴む。教科書の解説を読みながら、どこでつまずくのか、どうしたら分かるようになるのか、考えるつもり。
無機質な数字と記号の羅列を眺める。
時間が経つと、その時は覚えていた答に辿り着く手掛かりが、失われている。
読み解けない文章題に、繰り返し目を通す。
体育館に並ぶみんな。
宙を舞うペンケース。嘲笑。
切り取られたような、真の存在。
目を逸らしたくなるのを、堪える。
分からない答を探して、考える。
途中までは書けた計算式を、解説と見比べる。
どうすれば分かるのか。
どうしたら、出来るようになるのか。
考える。何度も、何度も。
勉強には、正解も解説もあるけれど。
正解も解説も無い、この世界。
勉強。自分なりの答に辿り着くまでの、道のり。
その道の見つけ方、歩き方は、この世界で生きていく方法を見つけるための、力になるのかもしれないと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます