乱高下

時雨逅太郎

乱高下

 夜空に置き去りにされた月が浮かぶ朝。私は洗面台に向かって髪の毛を整えていた。別になにか用事があるわけではないけれども、私は几帳面であった。昨日セックスをした彼は未だベッドに寝転がっており、なんとも無防備な顔を晒している。情事をしたベッド周りはまるで料理直後のキッチンのようで、ティッシュやらコンドームやらが散乱していた。


 私はセックスが好きだ。単純な快楽主義者であるとも言えた。しかし、同時に私は女だった。乗り気でない昨晩の性行は見知らぬ上司との会食以上に気疲れした。


 男というのは便利だ。勃起していればできるし、してなきゃできない。その点、無理矢理なんてこともない上に、視覚的になんとも分かりやすい。男もそんな気分じゃないけど、という時はあるのだろうか。彼と付き合っている限りは決してそんなことなどないように思えた。


 好きなことならいつでもしていい、ということは私にはあり得ない。私がセックス至上主義者なら、私に毎晩詰め寄っても構わないと思う。しかし、残念なことに私は彼のことを好きなのであり、それは確かに異性としてではあるが性的にのみではないのだ。私は単純に話すのを好み、愛を囁かれるのを好んでいる。しかし、どれも状況次第であるのだ。


 そのことを言うと、彼はきっと面倒な奴だとか言って私を避けるだろう。乗り気でないと言えば、彼は私を誘わなくなり外で遊ぶだろう。「なんでも言ってほしい」とは言っていたがそれを言ったら他の女に行くだろう。それを考えると、涙が溢れて仕方なくなるので私はどうにも惨めな存在だと気づいた。


 

 彼が起きてきた。私より一時間遅い起床をした彼は髪の毛がぼさぼさであり、目は枝豆が鞘からその身をのぞかせるのと同じくらいしか開いていなかった。


「顔洗ってきな」


 そう苦笑しながら言うと、うーん、と汽笛のような返事をして、その身を洗面台へと滑らせていった。


 私は彼を見送って、しばらくぼーっとソファに座っていたが、あまりの退屈さに洗面台へと様子を見に行った。顔をタオルで拭いた彼が私に気づくと、「どうした?」と聞いてきたので、「なんでもない」と言いながらその場に居座った。


 私は彼のことが嫌いという訳ではない。むしろ彼のことは好きである。しかし、なんでか、文字通り陰惨な涙が溢れることが多々ある。私の言う陰惨とは──暗く、惨めであることであり、決して惨たらしいという意味ではない。私の涙はグロテスク映画のようなショックを与えるものでなく、ただ路地裏で枯れた花の、そういう陰惨さなのである。


 そんな事を尾首にも出さず、彼の顔を覗いたりして暇を潰した。彼のはっきりとした鼻筋を羨ましいと思いながら、自分の鼻をなぞった。


「また気にしてるの?」


 彼は寝癖を直しながら聞いてきた。


「うん。やっぱ、すっと通ってた方が綺麗じゃない?」


「かわいらしいと思うけどね」


「またそんなこと言って」


 本当だよ、と微笑みかける彼にどうして不満が沸くのか、私は疑問でならなかった。つい一時間前の鬱はなんだったのであろうか──等と思案した。どうしたって不幸にしかならないと思っていた自分の思考を懐疑した。


「今日は、うーん、家でゆっくりしようか?」


 彼は首を少し傾げて、私に聞く。私は反射的に頷き、本当はデートしたかったな、等と思った。その瞬間、蓋をしていた陰惨がその悪臭を放った。鼻から通って、涙腺に染み、涙が浮きそうだった。私の感情は逆戻りした。今度は幸福であると信じていた自分を疑った。


 私は弱者なのだろうか。私がわがままを言えば面倒だって別れられてしまうのに、彼はそんなことはないのだ。そのことがひどく腹立たしくて、私は彼を恨んだ。


 私が強者であれば、おそらく彼を跪かせていただろう。彼にわがままを言われれば他の男と浮気をしている──のだろうか?


「ん? どうした?」


「え、ううん、なんでもない」


 慌てて答えるが、彼は私の顔を覗きこんだ。


「最近ぼーっとしてること多くない? なにか悩みがあるなら、聞くよ」


 私は、そう言われて、ぶわっと涙が溢れた。生き埋めになった状態で、助けがやってきた──正にそんな感情であった。彼は私の涙を見て、慌てながらも私の身体を抱き寄せた。


「大丈夫、大丈夫」


 それは幼児に言い聞かせるような口調だった。私はそれに安心感を得たが、同時に引っ張ったら切れてしまう糸のような──そんな危うさを感じていた。


「ごめん、その──」


 不安が、安心のせいで妙に際立って見えた。私はごく少量の天国と無限に広がる地獄を眺めていたのだ。私は未知に怯える赤子のようであり、その腕に強く抱きつきたかった。だが、それをぐっと抑えて、私は伸ばされた糸をちょいちょいと引っ張ってみた。


「面倒なの……嫌いだよね……?」


「……?」


 彼はよく分からない、という顔をしながら、「どういうこと?」と聞いてきた。私は非常に恐ろしくなってしまって、さらに涙を溢した。


「その……」


「うん」


「浮気しない……?」


 彼は不思議そうな顔をしながらも、これについては「しないよ」と断言した。しかし、自分で、この問いがなんの確認にもならないということに気づいた。私はこの一分に満たぬコミュニケーションで八方塞がりの絶望を感じた。


「どうしたの? ゆっくりでいいから、話してみて」


 違う、そんなんじゃ不安なんだ。私は、首を横にふるふると揺らした。


「大丈夫。なんでも言って。大丈夫だから」


 私は顔を上げた。


「……怒らない?」


「うん」


「……嫌いにならない?」


「うん」


「本当に?」


「約束するよ」


 私は危うさを感じながら、賭けに出ていいと思った。言葉を間違えれば崖から突き落とされてしまう、そういうサドンデスな空気を感じながら口を開いた。


「その、ね」


「うん」


「わがままが言いたかったの」


「……うん」


「本当はね、昨日、嫌だったの」


 そういうと彼は「言ってくれればよかったのに」と気まずそうな顔をした。


「だって……捨てられると思って」


「そんなことで捨てないよ」


 私は、乗り掛かった彼の言葉の足場に、この時、綻びを感じてしまった。ぐらっと揺れた気がして、私は彼にしがみついた。


「そんなこと……じゃない……」


 絞り出すような涙声は自分でも聞けたものではなかったが、彼には相当深刻な印象を与えたようだった。実際私は、高所恐怖症の人間がスカイツリーから落下する、と確信するような明確な恐怖を感じていた。


「ごめん。不安だったんだね」


 そう言われて、私の心が救われた気がした。急に安定性を増した足場に、私は下ろされたのだった。私は足場のあちこちを叩き始める


「なんでも言ってくれていいんだ」


「でも、欲求不満だったら浮気とか……するでしょ……?」


「しないよ。君が大事なんだ」


「でも……その……めんどくさいって嫌ったり……」


「面倒じゃないよ、大事なことだ。……あのね、言ってくれなきゃ分からないんだ。不安にさせちゃったのは、ごめんね。でも、怒ったりしないから、ちゃんと言ってほしいな」


「うん……ごめん」


「謝らなくてもいいよ、大丈夫だよ」


 散々泣き腫らした後に、彼に軽く介抱されながらもぽつりと溢した。


「わがままなんだけどさ」


 涙と一緒に下った鼻水で声がおかしくなったが、彼はいつも通り「うん、どうしたの」と返してくれた。


「さっきデートしたくて」


「ああ、そうだったのか。ごめん、気づかなくって。……今からでも行く?」


「……この顔で?」


 彼は苦笑いして、「ちょっと無理かもね」と溢した。


「これからは、ちょっとわがまま言う」


「いっぱい言ってくれていいんだよ」


「それは……甘えそうだから。なんか、私もよくないから」


「よくない?」


「いいの。なんでもない」


 そう言うと、彼は私の頭を抱き寄せた。


「なんでもなくないでしょ、なんでも言ってって言ったじゃん」


 私はちょっとした苛立ちが沸きかけたが、いかんいかんと深呼吸をした。


「言いたくないこともあるから」


「……そっか、難しいなあ」


 難しいんだなあ、と私は彼に苦笑いをして見せたのだった。

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乱高下 時雨逅太郎 @sigurejikusi

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