はやて

ネギま馬

はやて


 椎名林檎は「人生は夢だらけ」という曲を書いた。

 ビートたけしは著書「キャバレー」において「夢なんて、叶わないから夢なんじゃねぇか」とか言っていた。俺がその文言を知っていたのは表紙に飾られていた帯に書かれていたからで、実際にビートたけしが著書に書いたのか、それともその編集者が帯にそれらしーく綴ったのかは定かではないが、ともかく、俺の頭にはこの二つが残っていたわけで。

 黒板を小突くように少し高めに響くチョークの音、静か、とは言い切れない静寂と混ざり合って、耳をすませばいろんな声が聞こえてくる、情報過多な教室の中での授業とか、誰かと一緒に帰らなければ孤独を感じて、寂しいと思わないといけないとか、そういう環境をどこかの心理学者は「疾風怒濤」と評したらしい。

 あほらしっ。

 何もかもがあほらしかった。先生のいうことなすことが全て滑稽に見えてきて、それをあほらしく感じて俯瞰している感覚で、ただぼんやりと自分の机を眺めている自分に気づいて、それすらもあほらしく感じてくる。

 だから、ほら。

 志望理由書なんて、何を書けばいいのかがわからない。

 先生たちが言うには、ただ普通に志望理由を書くだけではダメなのだと言う。何かその大学の、その学部でしかできないことを取り上げて、それと自分を関連づけて文章を構成しないとキチンとした志望理由書にはならないらしい。

 だから、そのためには自分をまず知ることが一番重要らしい。そして、それが一番難しいことだと、俺は思う。「志望理由書の書き方」の欄にある、「自分をよく知ろう」のコーナーがほとんど空白なのがその証拠。

 自分を知るのって、難しいんだな。

 勉強机の椅子の背もたれに体重を乗せながらひと休憩。部屋の天井の模様を見ながら考える、自分の将来の夢だとか、自分の本当に好きなことだとかはひどく漠然としていて、文字にして表現しようとしても全然表現できなくて、本当に困る。

 本を読むのが本当に好きだ。将来の夢なんか、小学生の頃は本気で小説家になろうとしていた。だけれども、それを紙の上に載せようとしたら、ふと、指が止まってしまう。無理やり書こうとしても、プルプルと震えて変な文字になるし、書いている間は誰かに見られているような感覚がして、とても恥ずかしい。

 どこにも存在しない誰かが目の前に現れて俺の言動を逐一咎める。その度に体の中にデキモノが出来ていくような気がした。体の中にある何かが硬くなって、ボロボロに壊れてしまうような、そんな気がした。

 天井を見つめながら考える。

 カラオケでは、自分の歌の上手い下手ばかりを気にして、ろくに歌わないし、歌うとなればみんなが知っていそうな曲ばかり歌う。自分の好きな曲はこっそりと心の奥にしまう。好きは言葉にできない。そうやって、好きは錆びていくのか。そうやって、好きは風化していくのだろうか。

 本当は、好きなものなんて、将来の夢なんて自分の中には存在しないのではないかと、ふと考えてしまう自分がどうしようもなく、あほらしい。

 風は、やはり吹かない。


「それは嘘だね。君はとても本が好きなのだろう? それは志望理由書に書けるか書けないかの問題ではなく、君はそれが好きなんだよ」

 生物室の金魚は当たり前だと言う。

 動物の声が聞こえるようになったのは、と言うより、生まれたときから、気付いた時にはもう動物の声が聞こえるようになっていた。両親は俺の頭を疑ったらしいけど、どこへ行っても異常がなくて、ひどく狼狽したらしい。

「でもさぁ、別に何かを好きじゃなきゃ生きていけないような生き物じゃないじゃん、人間って。だから、俺が生きているのは本が好きだからじゃなくて、俺の中の内臓たちが頑張っているだけで、俺が好きだと思っていたそれは事実上何も意味をなさないわけじゃないか。それって価値があるのかとか考えちゃったり。もしかしたら、俺が好きだと思っていたものは本当は違ったり……とか考えたり」

「僕は人間のことなんか全く知らないけどさ、好きは単純でいいじゃないか。君がそれを好きならば声を大にして、好きだと叫べばいい。なんでそれができないんだい」

「……お前ほど単純な社会で生きていないんだよ」

 何も言い返せなくなった俺はそう言うしかなかった。

 ただ漠然とした恐怖と不安にがんじがらめにされて、何も身動きできなくなっている自分のことを一言で切り捨てられたような気がして、それを否定できない自分に劣等感が滲む。水と空気を強制的に分断するガラスの向こう側、金魚はポコポコと口から泡を出している。

 体の中に煙が渦巻くようだった。とぐろを巻くように、ぐるぐると濃くなる煙は延々と体を満たしている。体の中にできたデキモノを、一つずつ、ぐちゃぐちゃに潰すように勢いよく渦巻いている。

 いつの間にか、こうなっていた。いつか潰れたデキモノから溢れ出した膿で、自分の体の中はいっぱいになってしまうのだろう。そうなったとき、俺はどうなるのか。あいもかわらず生物室の金魚は間抜けに泡をポコポコと吐き出している。

 そんな金魚が、少しだけ羨ましかった。

 風は、やはり吹かない。


 自分の夢に夢を持つことができなくなったのは、いつからだろう。いつから夢に対して、喜びよりも焦燥を、焦燥よりも恐怖を感じるようになったのか。

 小学生の頃、よく家に遊びに来ていた、トキという叔父さんがいた。

 トキは仕事をしていなかった。その日暮らしを続ける、浮浪人だった。なぜそんな苦しい生活をしているのに、仕事を探さないのかと一度、聞いてみたことがあった。そうすると、トキは笑みを浮かべてこういうのだ。

「おじさんはね、夢を追いかけているんだよ。夢ってのはとてもじゃないけど叶えられないものかもしれない。おじさんだって、追いかけるのは辛いのさ。辛いけど、ものすごく楽しいんだよ」

 とても悲しそうな、嬉しそうな笑みだった。

 そんな笑みを羨ましく思ってしまった、俺もばかだった。

 ある日、両親とトキがちょっとした騒ぎを起こしていた。話の内容は、その頃の俺には難しくて、理解しようにもできなかったが、それがどうやら金絡みの話だということだけは理解できた。自分にとって無関係であるはずのそれをどうして忘れることができないのか。

 父がどなる。なんであなたはそうやって夢ばかり追いかけるのだ、と。少しはこちらのことも考えてくれよ、あんたのおかげで俺たちの面目が丸つぶれじゃないか。家族の中に夢を捨てきれない不浪人がいるだなんて、どうやって言えるものか、と。

 母は呆れ果てて、何も言わなかった。ただ、トキを見つめている視線が全てを物語っていた。あなたはどうしてそんな惨めな生活をしているの。なんでそこまでして、夢を追いかけようとしてるの。

 正直、気味が悪い、と。

 忘れられない。忘れられるわけがない。

 トキは額を地べたに擦り付けていた。額を地べたに擦り付けて、笑っていた。鼻水を垂らしながら、俺に語りかけて来たあの笑みと同じ、笑みを浮かべていた。

「そこをなんとか。一、だけでいいんです。それだけ貸してくれれば、それだけでいいんです」トキは笑う。気味が悪い。

 トキが頭をあげる。卑しい笑顔。汚い。惨めだ。

 なぜ、自分のプライドを捨ててまで夢を追いかけるのだ。そこまでするならば、いっそのこと諦めた方がマシなのに。

 心の中の柔らかいところが、冷たくなっていくような感覚がした。どくどく、と血を運んでいた心臓が止まってしまったかのような感覚。

 あほらし。

 風が、ピタリと止んだような気がした。


 トキの言い分はただの妄想だと、今なら断言できる。

『追いかけるのは辛いのさ』

 辛いなら、やめちまえよ。なんでそれでも追いかけているんだよ。周りの迷惑も考えないで、自分だけ子供のままで夢ばっかり追いかけて。

 それは傲慢だし、無邪気すぎる。

『君がそれを好きならば声を大にして、好きだと叫べばいい』

 それができないから困るんだよ。いつの間にか、自分の好きを否定されて、声に出す前に喉を潰されて、いつの間にか自分の好きさえも自分で否定しなくちゃいけない。そんな世の中だから、好きだけで生きていけるほど簡単じゃないんだよ。

 だからこそ、好きだけで生きていける人ほど叩かれる。羨ましいから、妬ましいから貶めようと、寄ってたかって叩こうとする。そんな世の中だからこそ、人はどんどん好きを失っていく。

 全部、あほらしくなってくる。

「でもさ」

 誰かが後ろから声を投げかけてくる。ふと振り向くけど、そこには誰もいない。ただ、柔らかな風が、ごうごうと唸りをあげるような風が、ふわふわと漂って、俺の指を抜けていく。

 誰かの言葉と、重なった。

『夢を追いかけるのはさ、楽しいぜ』

『皆、夢を見ているんだ。届かない、夢。確かに、叶わないからこそ夢なのかもしれないな』

 うるさい。そろそろ静かにしてくれよ。眠れないじゃないか。

『確かに、叶わないからこそ夢なのかもしれないけどさ、どっかの林檎が言ってただろ?』

 奪われるものか、わたしは自由。

 この人生は夢だらけ。

 こんな歌が、堂々と歌えるような人生を送りたかった。歌えるような人間でありたかった。カラオケで、上手い下手なんて気にせずに、笑顔で、大声でこんな歌が歌えるような、そんな人間。

 風が動き出す。ごうごうと唸りをあげて、ふわふわと揺れながら。風は言う。

『なれるさ』

 何に、とは言わなかった。言わずともわかっていた。


 目がさめると、夜はまだ明けていなかった。生物室から帰ってきて、いつの間にか寝ていたようだった。丑満時独特の緩慢とした時間が、そこには流れている。何か、変な夢を見ていた。記憶や感情がごちゃごちゃになるような、そんな夢。

 やらなきゃ。

 やらなきゃ、俺が俺でなくなる気がする。

 体を起こして、机へと向かい、ノートパソコンを立ち上げた。wordを起動して、新規の文書を選択。縦書きを選択。その頃には、眩しくて見えづらかった画面にも目が慣れているのを感じた。

 キーボードに指を置く。

 書くものは決まっていた。小学生の頃、思い描いていた話。

『追いかけるのは辛いのさ』

 わかっているさ。

 好きなものを公言するだけでもこんなに怖いんだ。誰かにばかにされないか、そしてそれで自分が傷つかないか。そんなことばかり考えてしまって、口に出さないうちにその好きはいつの間にか消えてしまっている。好きなものを追いかけるなんて想像できない。想像できないほど辛いことなんだろう。自分の好きを否定されながら、血反吐を吐きながら自分の好きにしがみついている。それをきっと他人は俯瞰して泥臭いだの、みっともないだのさらに自分の好きを否定していく。それはとても怖いし、みっともないし、辛いことだ。

 指は紡いでいく。物語を紡いでいく。稚拙ながらに、幼稚で、泥臭く、卑しく。

 風が吹いたような気がした。

 それは体の中で、渦巻いて吹いている。轟々と唸りをあげながら、体の内側を優しく撫でるように優しく、熱く焼け付くような熱を運んでくる。指に風が絡む。

 でもね。

 やっぱり人ってのは夢ってものを、好きってものを追いかけないと生きていけないんだろうな。やっぱりそれは心臓でもあるし、肺でもあるし、小腸でもある気がするんだ。人は、夢なしでは生きていけない。

 風が吹く。煙の晴れた天井を見上げた。天井は宇宙だった。星々がきらめくような宇宙。手を伸ばせば届きそうで、だけど手を伸ばすのは怖くて、思わず手を引っ込めてしまうような暗闇。今ならまっすぐに手を伸ばせる気がした。

 風はやがて上昇気流になり、脳天へと駆け上がっていく。熱く、優しくそよぐように、轟々と。

 疾風怒濤と風は吹く。


 朝方出来上がったのはなんでもない、一本の拙い小説だった。見直してみると泥臭くてとても人に見せるような文章ではなかったが、そこには微かに光が見えたような気がした。

 風は吹いていく。疾風怒濤と、吹いていく。吹き荒れたその風は、いつもなら不快だと俺は思うのだろうけど、今この瞬間だけは、とても心地よく感じたんだ。


「夢なんてばかなもの、持っている方が損でしかないじゃないですか」

 黒猫はあくび混じりにそう言う。彼女の体温が膝にじんわりと滲んできて、こちらも眠くなりそうだった。

「私には夢なんてものわからないですけど、先生の話を聞くとなんだか夢を持つことが阿呆らしいことのように聞こえるんですもの」

「確かにそうかもしれないね。夢だとか、好きなものだとかを持っていると人ってのは生きづらくなる生き物なのかもしれない。もしかしたら夢なんてもの、捨ててしまった方がいいかもしれない」

 トキのことを思い出していた。あの日以来、俺はトキを見ていない。どこかでのたれ死んだかもしれないし、まだどこかで辛抱強く生きているかもしれない。どちらにせよ、もうトキは老年に入っていて、寿命よりも生きた年数の方が長いのは確実だった。

 今でもトキの考え方は間違っていると思う。

 人間はもともとどこにでもいるありふれた生き物のはずで、自分の中には危機察知能力だとか、本能が備わっているはずだ。なのに、理性という高尚な道具を持ってしまったから、本能はどこか遠くへ消えてしまった。そのせいで、夢というものから逃れられなくなってしまったのだろう。

 夢は時に人を殺す道具だ。そのきらびやかに見えるものを目指させるだけで人の充足感を満腹にしてしまう。そうすれば人間ってのは簡単にできているもので、ほかのことをするのが億劫に感じてしまう。

 トキはその代表的な例だった。夢を追いかけること以外何もせず、ただ自分の価値を貶めるだけ貶めて、ただ地面に這いつくばるだけにしておいた。

 だけど、もう絡め取られてしまったのだ。俺は、夢に自分自身を。

 あの日の感覚を忘れることができない。風が吹き荒れたあの夜、俺は初めて夢に囚われた。だからもう、俺は夢と付き合っていくしかないのだ。地べたを這い蹲りながら、泥水をすすりながらも、人間として失ってはいけないものだけは奪われないようにしっかりと懐に隠しながら、歩いていくしかないのだ。

 それが俺はたまらなく。

「でもさ、追いかけるのは、愛おしいよ。辛くて、苦しくて、何度もやめたくなるけどさ、とても愛おしいんだよ」

 生物室の金魚を思い出していた。ポコポコと浮かぶ、泡。俺はあんなに素直になれなけれども、だけど少しだけ、自分に素直になれた気がした。

「ふーん、そうなんですか」

 黒猫は興味をなくしたようで、膝から飛び降りて何処かへと行ってしまった。それと同時に体重を預けていた椅子から立ち上がり、書斎へと足を運ぶ。そろそろ、改稿の締め切りが近いから急がなければならなかった。

 椎名林檎は「人生は夢だらけ」という曲を書いた。

 ビートたけしは著書「キャバレー」において「夢なんて、叶わねぇから夢なんじゃないか」とか言っていた。

 確かに、夢は腐るほどあって、それは絶対に叶わないのかもしれないけれども。

 奪われるものか、わたしは自由。

 この人生は夢だらけ。

 俺たちは自由だから、夢を見るんだ。それがどれほど辛くて、苦しくて、難しいことだとわかっていても、俺たちは夢を見ることを諦めきれない。そういう生き物なんだから仕方がない。俺たちは夢を見て、初めて生きているのかもしれない、そう最近考えるようになってきた。そんなことを言えば、あの頃の俺は笑うかもしれないが。

 書斎でパソコンを立ち上げる。書かれているのは構想に一年を費やした大作だ。俺の中での節目となるような、そんな予感がする。今でも、このパソコンに向かう瞬間は、風が吹き荒れるような感覚がする。実際には吹いていないし、あの時よりは弱いのかもしれないけれども。

 あの頃の俺に言ってやりたいのだ。俺はこうやって、夢を追いかけて生きている、お前はそれを見てどう思うのだ、と。そうしたら俺はどう答えるのだろう。くだらないとでもいうかもしれないし、羨ましいとでもいうかもしれない。それでも結局、俺は笑ってくれるかもしれない。こんな余裕のない大人になった俺を、それでも這い蹲りながら生きている俺を。

 笑ってくれたら本望だと、思う。


 キーボードに、指を置いた。

 指に風が絡みつくような、そんな感覚を覚える。

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はやて ネギま馬 @negima6531

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