マキさんの子供がほしいです(3)

 有給休暇を終えて出社すると、マキのデスクが片付けられていた。仕事用のPCも文具も机上整理棚の書類も、なにもない。課長に訊ねてみると、

「きみ、自分がなにをやったかわかってるの~? 無断欠勤だよ、む・だ・ん・けっ・き・ん~。社会人として最低の行為だよ~? どれほどの人間がきみのせいで迷惑こうむったと思ってるの~?」

 マキは状況が理解できなかった。

「有休の申請をだしたはずですが……」

「えぇ~? ボクそんなの知らないよ~?」

 課長は芝居がかった動作でおどけてみせた。

「クビにされても文句いえないねぇ~? でもさ~、きみみたいな無能にほかに行くとこなんてあるの~? あるわけないよねぇ~? 知ってる~。だからさ~、いまこの場で、みんなの前で土下座して、今後半年間無給で働かせていただきますから許してくださいって謝ったら、考えてあげないこともないけどな~?」

 マキは頭が混乱した。なんとか食い下がろうとする。

「ですから、わたしは有休の申請を」

「まだいってるの~? 往生際わるいな~。ミスしたらミスしたことをきちんと認めて、いさぎよく謝罪するのが大人でしょ~? お母さんに教えてもらわなかった~? それともなに? ボクが申請握りつぶしたとでもいいたいの~?」

 課長はふんぞりかえって冷笑した。

「きみがちゃ~んと申請したって、だれが証明してくれるのそんなこと~?」

 マキは八方塞がりだった。口をぱくぱくするばかりだった。

「はい、土・下・座! 土・下・座!」

 連呼しながら手拍子して課長があざ笑う。

 爪が食いこむほどマキが拳を握りしめていた、そのときである。

「マキさんは申請してましたよ」

 課長が凍りついたように停止。ひきつった笑みで声の主を探す。「だれ~いまの?」

 マキも振り返る。

 水を打ったように静まり返るなか、同僚たちの視線が集中しているのは、ひとりの男性若手社員だった。いつか結婚記念日にマキが残業を肩代わりした彼だった。

「マキさんは、有休を課長に書面で申請してました」

 彼は声を震わせながらもういちど繰り返した。

 課長は鼻で笑った。「ひとりがいってるだけじゃあねぇ~」あとで覚えておけよと顔に書いてある。

「わたしも、みました」

 べつの女性社員が声をあげた。

「わたしも申請するとこみました」「ぼくもみました」「わたしも」波紋が拡がるようにつぎつぎと証言があがっていく。課長が目を白黒させる。

「課長、労働者の有給休暇と使用者の時季変更権はともに労働基準法第39条で認められています」例の若手社員がゆっくりと述べる。「時季変更権は、繁忙期や決算期など有休を認めるとどうしても会社が回らない場合にのみ、ほかの時季に有休を与えることができるというだけで、有休の申請そのものを拒否することはできません。時季変更権を悪用した場合は、労基法第119条により刑事罰もありえます。しかも課長が独断で有休取得を妨害したのなら、コンプラ的に非常にまずいです。会社も課長の味方をするかどうか」

 課長の顔から血の気が引いていく。

「なに、きみたちボクに逆らうの。会社に逆らうなんて言語道断だよ! クビになりたくないなら黙って――」

「ああ辞めてやるよこんな会社!」「いい機会です。やってらんない」「てめぇだけで仕事してみろ」「こんな社会の寄生虫みたいな会社潰れりゃあいいんだよ」「このパラサイト・カンパニー!」「定時で帰れねぇ会社に価値はねぇ!」

 社員たちはいままで鬱屈していたものを爆発させるように気炎を上げて本当にぞろぞろとオフィスから出ていってしまった。

 残されたマキと課長は、しばらく無言だった。今度は課長が口をぱくぱくさせる番だった。マキは向き直って、一言、

「お世話になりました」

 と頭を下げた。


 晴れて無職になった。美奈子は「よかったじゃないですか。なんでしたらうちに住みません?」と喜んでくれた。

「ごくつぶしじゃん……」

「べつにわたしはそれでもいいんですけど、じゃあ、つぎのお仕事がみつかるまで家事手伝いってことでどうです?」

 善は急げという美奈子に連れられて彼女の実家に向かった。両親にあいさつしたとき以来だ。マキは義父にぶん殴られる覚悟を決めていた。娘さんをくださいと啖呵をきっておきながら無職とは。マキは暗澹とするばかりであった。

 美奈子の実家、広い和室で緊張しながら待っていると、いつみても厳格そうな義父が悠揚迫らず入ってきた。無職になったこととそのいきさつを話すと、義父は両の掌をローテーブルに叩きつけた。

「よくやった! 最近の若いもんは引き際を知らん。合わんと思ったらさっさと次に行ったほうがいい。石の上に何年座ってても、石は石でしかない!」

 ぶじ住めることになった。

 その日のうちに美奈子の部屋にケンミジンコのための水槽をセットした。熱帯魚の飼育経験がある美奈子が死蔵していた60cm規格水槽をつかう。サンゴ砂を敷き、上下に2分割したペットボトルの上半分を底床に差しこんで飲み口からエアストーンを入れ、エアリフト式のフィルターにする。海水は人工海水だ。

 さっそくふたりで海へ繰り出した。満潮時ですら海水が届かない岩礁海岸の止水域を捜索する。目当てのものはすぐに見つかった。水中を飛び交うように泳ぎ回る微小生物。ケンミジンコの一種であるシオダマリミジンコだ。海水ごとすくって持ち帰る。シオダマリミジンコは水たまりという劣悪な環境に棲息するだけあって極めて強健である。飼育そのものは夜店ですくってきた金魚にひと夏越させるより遥かに簡単だ。美奈子の水槽でも問題なく元気に泳いだ。

 美奈子がちいさなボトルの中身をケンミジンコの水槽にふりかけた。濃いオレンジ色の粉末だった。

「ブラインシュリンプ・エッグです。もともとブラインの卵は硬い殻に覆われていて、食べても消化できないんですが、これは殻を溶かしてあるんで、そのまま与えられるんです」

 マキにはさっぱりである。だが美奈子がいっているのだから間違いないのだろうと得心した。

「ほら、ミジンコのおなかがオレンジに染まってきたでしょう?」

 観察するとたしかにそのとおりである。ケンミジンコたちがちゃんと食べている証拠だ。


 それからしばらくは第2中間宿主の選定に3週間を費やした。自然界においてサナダムシに寄生される魚は海水魚である。それはサナダムシの第1中間宿主が海産ケンミジンコだからであるが、サナダムシ自身が海水環境を必要としているわけではない。サナダムシに汚染された海産ケンミジンコを補食する機会さえあれば、ヤマメだろうがアマゴだろうが、陸封型の魚もキャリアになりうる。だからわざわざ第2中間宿主を海面養殖する必要はない。この点は救いだった。

 美奈子の実家が所有するちかくの山に渓流がある。そこでとりあえず釣り糸を垂れてみることにした。

「山もってるなんてすごいね……」

「価値そのものは二束三文なんですよ。苦労も多いですし、父が先祖から受け継いだっていう意地で持ち続けてるようなもので。でもこんなかたちで役に立つなんて」

「ご先祖さまに感謝だね」

 サクラマスを釣るマキの腕前である。釣果はすぐにあった。20cmほどの渓流魚らしいスマートなフォルム。体側たいそくに歌川広重が東海道とうかいどう五拾三次ごじゅうさんつぎ之内蒲原夜之雪のうちかんばらよるのゆきで描いたような雪降る白斑が散らばっていて、それはふんのさきまで至る。胸びれと腹びれ、尻びれ、尾びれがレモンイエローに染まっていて美しい。マキもあまりアユやイワナにはくわしくない。おそらくニッコウイワナだろう。第2中間宿主に適当かどうか試してみることにした。

 渓流魚は水槽での飼育に向いていない。単純に高温が苦手なのと、広い運動スペース、強い流れと休憩場所を必要とするからだ。野生動物の飼い主は自然をおいてほかにない。

 それでもサナダムシの確実な感染のためには飼育管理下におかねばならないので、マキと美奈子は渓流にいけすをつくることにした。当初はせっかくつくったいけすが急流に流されたり、造りが不完全で翌朝にはイワナに1尾残らず脱走されていたり、鳥に捕られたりと、失敗の連続だった。そのたびにふたりは脳漿をしぼっていけすを改良し、力をあわせてバージョンアップを重ねた。頑丈かつ水がつねに通り抜け、イワナに逃げられず、天敵にも襲われないいけすが完成するのに、3週間かかった。

 ある日、美奈子の様子がおかしかったので問いただすと、軽い吐き気がするとのことだった。サナダムシの初期症状である。マキが心配すると美奈子は熱っぽく凄艶せいえんな笑みで、

「でもこれって、つわりってことですよね」

 と随喜の涙を流した。アニサキスの中毒症状に耐えた甲斐があった。

 しかも美奈子の大便にちぎれたきしめんのようなものが混じっていたので、すでに小腸内で成虫になっているとみてよかった。糞便を希釈してケンミジンコの水槽に与える。ケンミジンコがサナダムシに寄生されるのをマキと美奈子は拝むように祈った。

 数日後、いけすのイワナにケンミジンコを給餌した。いけすの四方をいったん塞いでケンミジンコが逃げられないようにする。逃げ回るケンミジンコをイワナが猛烈に追いかけてあっというまに平らげた。それから1か月ほどは、潮溜まりから採捕してきたケンミジンコに美奈子の糞便を与え、そしてイワナに食べさせる日々が続いた。

 ついに成果を確かめる日がきた。イワナを水揚げし、美奈子が手早く捌く。サクラマスのときのようにふたりして身のなかにサナダムシを探す。

 1尾めからは幼虫は検出されなかった。

 2尾め、3尾めにもいない。

 だめだったか……心が挫けそうになりながらもマキが15尾めの身を確かめているときだった。

 捌く美奈子の動揺があらわれていたのか、わずかに身についていた内臓の表面に、生っちろいミミズのようなものが蠢いていた。

「いた! いたよ! サナダムシ!」

 震える手で見せた。美奈子も信じられない顔で確認して、サナダムシであることを理解すると、整った造作の顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくった。長い戦いがついに実を結んだのだ。

「これってみーちゃんの体内で育ったんだから、みーちゃんで出来てるっていっても過言じゃないよね。つまりみーちゃんの精子であり卵子だよね」

 感慨深いマキに美奈子が泣きながら羞恥に身をよじった。

「ほら、みーちゃん。みーちゃんのナカで育ったサナダムシをあたしが呑むところ、ちゃんと見てて?」

 いたずらっぽく笑うマキに美奈子がおずおずとしたがう。美奈子が見ている前でマキが「あーん」とサナダムシを踊り食いする。美奈子から産まれたサナダムシがマキの体内へ注ぎ込まれる。その光景に美奈子が熱っぽい息を吐く。

 捌かれたイワナをあらためて確かめると、捨てた内臓にサナダムシの幼虫が潜んでいたことがわかった。サナダムシは内臓に寄生する。宿主が死んで内臓の鮮度が落ちると筋肉へ避難するのだ。美奈子があまりに手際よく捌くので、幼虫が内臓から移動するひまがなかったのだろう。

 ともあれ、あとはサナダムシがマキに定着するのを待つばかりである。マキは気がつけばいとおしそうに自分のおなかをさすっていた。

 あるとき、余ったイワナを塩焼きや甘露煮にするべく下ごしらえをしていると、たまたまそれを見かけた美奈子の父が目を見開いた。

「これは、ゴギじゃないか!」

 マキも美奈子もなんのことかわからない。

「イワナじゃないんですか?」

「似ているが別種だ。中国地方の渓流にのみ棲息する絶滅危惧種だよ。どこでこれを」

「裏の山ですが……」

 マキに義父は仰天した。

「そんなところにゴギがいたとは。とんでもない大発見だ」

 いけすでキープしていると美奈子が付け足すと腰を抜かした。

「マキさん、ゴギを飼育できているのか?」

「はい、いちおう……」

「すごいことだよ。きみ、ゴギの養殖をやってみないか。絶滅危惧動物の保護にもなるし、いい商売にもなる」

 マキの再就職先は養殖場のオーナーということになりそうだった。


 それから2週間ほどたった夜。

 トイレで大便を排泄したマキだったが、残便感というべきか、いつまでも括約筋で切れないような妙な感覚に陥った。天橋立を眺めるときのように股を覗く。

 マキはトイレを飛び出した。夕食の準備をしていた美奈子のもとに急行する。マキは下半身が生まれたままの姿で息も切らして叫んだ。

「産まれた!」

 ただならぬ様子に美奈子の顔も輝く。

「あたし、みーちゃんの子供産んだよ!」

 くるりと後ろを向く。白桃のごときマキの尻からはきしめんが垂れ下がっていた。

「マキさん!」

 万感の思いがこもった声だった。駆け寄ってきた美奈子をマキが抱き止める。

「マキさん、大好きです」

「あたしも大好きだよ、みーちゃん」

 泣きながらマキと美奈子は抱きしめあって、それから笑って、また泣いて、笑って、いつまでも熱い抱擁を続けた。

 ふたりは確信していた。相手がおなじ確信を抱いていることをも、互いに理解できていた。

 役所の書類より、プラチナ5グラムより、たしかなものがある。

 それはあなたの存在そのもの。そして、ふたりのサナダムシ。

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