マキさんの子供がほしいです(2)

 というわけで月曜日、マキは2年ぶりくらいに有給休暇を申請した。

「有休~? じゃあきみの空いた穴をだれが埋めるの~? きみが休んだらそのぶんほかのみんなが苦労するんだよ~? きみがそんなに薄情だとは知らなかったな~」

 課長がやんわりと撤回させようとした。これまでこの論調で何人が有休取得を断念させられてきたことか。だが家族計画はすべてにおいて優先される。

「そんなにあたしの存在が大切ならもっと給料あげてくださいよ」

「仕事ってのはお金のためにやるんじゃないの。自分を成長させるために仕事するの。それに、役員でもない社員の給料なんか上げたら会社が潰れちゃうんだよ~? いくら低学歴でも日本がいま不況なの知ってるでしょ~? 若いもんはもっと愛社精神を持たないと~」

「社員に正当な報酬が払えない会社は潰れるべきだと思います」

 マキは反論の余地を与えることなく年次有給休暇届を課長のデスクに叩きつけて仕事に戻った。


 サクラマス釣りにはなによりもまず遊漁券が必要になる。券なしで釣りをしようものならその太公望はかならずや九頭竜川の急流の一部となるだろう。

「本当ですか?」

「そんくらいサクラマスの資源量や川を維持管理してる人たちに敬意を払わなくちゃいけないってこと。本当の敬意ってのは上っ面の言葉とかじゃなくてお金だからね」

 マキと美奈子は一路、福井県へと飛んだ。あらかじめ美奈子が探して契約しておいた現地のウィークリー・マンションで旅装を解き、抱き合いながら寝て翌朝に備えた。サクラマス釣りは日の出からはじまる。

 九頭竜川の遊漁券は1日有効の日券にちけんが1500円、シーズン中有効の年券ねんけんが6000円なので、5日以上釣りたいなら後者が得である。ブランクもあって4日以内に1尾でも釣れるかどうか自信がなかったので、マキは年券を申しこんだ。サクラマスはそれほどの難敵なのである。とはいえ申請した有給休暇は7日だから、それまでに釣らなければならない。


 落葉樹が装いを脱ぎ捨てて枝をさらす褐色の光景に、きらきらと風が抜けていく。ほころびはじめた木の芽にも霜がおりる。激流の轟きはふしぎと耳に障らない。春の足音が聞こえるかのような静謐な風情はバルビゾン派の絵画にも通じるものがある。

水色すいしょくは最高にいいね。水位は平年よりちょっと低いってくらいか。コンディションとしては申し分なし。これで釣れなかったらあたしのせいだな!」

 ファーストポイントをマキはそう評した。

 マキたちが九頭竜川流域に到着したときは、対岸に釣り人がひとりいる以外、同好の士はなかった。平日のうえにシーズン半ばすぎだからだろう。解禁日なら川岸にずらりとアングラーが並ぶ。

「すいませぇ~ん! ここいいですかぁ~!」

 念のため上流側に陣取ったが、対岸の先行者に断りを入れておく。先行者は片手を上げて了承の返事をくれた。「ありがとうございまぁ~す!」

 マキが水温を計ってタックル(竿、リール、糸などの釣具)を選ぶ。

「あー、とりあえず13フィート6の6番とECHOのION8/10にしとくか。ランニングはAIRFLO RIDGE R/LINE-30LB FLOAT、シューティングヘッドはOPSTの475グレインだなー。情報だとフライでの釣果が多いらしいんだよね。フックがTMC7999の4番のやつがいいかな」

 美奈子にはさっぱりである。

 そんな美奈子にもわかるくらい慣れた手つきでマキが竿を鞭のようにふるう。ひゅっと風を切る音が心地よい。

 雪解け水の流れこむ川に腰まで浸かって何度もキャスト(疑似餌を投げこむこと)するが、この日はノーバイト(バイト=噛む。つまりアタリすらないの意)だった。聖地の洗礼である。

「きょうは釣れなかったけど、やっぱ楽しいね。最悪の釣り日は最高の仕事日よりいいってね」

 不安な美奈子にマキは大笑してみせた。

 翌日も、フライからミノー(小魚を模した疑似餌)に変えたりして、あるいはミノーにしてもシンキングやフローティングタイプをローテーションしたが、ノーバイト。より生きた小魚にみえるように左右にルアーを揺らして演技させてみる。ノーバイト。無慈悲なほどに美しい黄昏が、その日の釣行の終わりを告げた。

「バイブレーションもだめか~……」

 3日目もサクラマスの気配なく終わった。

 マキの経験上、魚が釣れないときは逆ギレがいちばんである。タックルを最初のフライフィッシングに戻して、サクラマスの目の前でじっくりアピールしてやろうとかそういったことをなにも考えず、ただ機械的に糸を引いた。

 何回目かのキャストのときだった。

 竿が、しなった。

 本能的にアワセる。

 水流とはあきらかに異なる、ぐい、ぐいという断続的な引き。心臓がフルスロットルとなって血液が沸騰。マキの全身が臨戦態勢にスイッチする。

 脊髄でまだ半分眠っていたアングラーの本能が一気に覚醒。マキ自身の理性よりも的確にロッドを保持し、適切なスピードでリールを回させる。抵抗する魚と引っ張りあうのではなく、魚が休んだ瞬間に引き寄せる。それを繰り返す。

 やがて清流を横切って魚影があらわれる。瑠璃の川面を切り裂く銀鱗のきらめき。

 マキが手網を左手に竿を持ち上げた。

 虹が弾けた。

 北陸の太陽を浴びて踊る、白銀の生命力。反射した光を透かした水しぶき一粒一粒までが宝石となる。

 はるかなる大海原を旅し、試練をくぐりぬけてふたたび故郷に帰還してきた奇跡が、魚のかたちに凝縮されているようだった。

「やった……!」

 叫んだつもりだが、いろんな感情がいちどきにおしよせて声がでなかった。全長50センチはある鼻曲がりの堂々たる1本である。傷だらけの体が遡上の過酷さを物語る。それでいて青空を映して淡い青に輝いている。

 感傷にひたりたいのは山々だが、すぐビニールバッグに水ごとパッキングして、コンテナボックスにつめこんで、レンタカーで遊漁券を買った釣具店へ報告に行った。時間帯や水温、タックルなどの情報が、後続のアングラーたちの参考になる。

「いや~、楽しかった!」

 疲れているであろうマキを助手席に乗せて車を運転する美奈子は、複雑な気持ちだった。釣れたことは喜ぶべきだ。だが、もしマキにとって釣りが自分といるときよりも楽しいのだとしたら? マキを束縛するより釣りに時間を割いたほうが彼女のためなのでは?

 そんな美奈子の内心も知らずにマキは笑いながらいった。

「みーちゃんと一緒にいるときの次くらいに楽しかったわ!」

 美奈子は自分が運転手でよかったと思った。いまはとてもマキの顔が直視できない。


 マキが釣り上げたサクラマスはその1尾だけだった。シーズン中に5000人前後が九頭竜川で遊漁券を購入して、釣れるサクラマスの合計数は500尾に満たないという年もざらにある。それを踏まえれば大戦果といえた。

 キッチンに立った美奈子がサクラマスをみごとな手際で3枚に下ろした。夕陽を凝縮したような艶やかな赤身があらわになる。

 マキと美奈子は2枚の身をそれぞれ丹念に観察した。美奈子は目を皿にした。マキもくまなく探した。するとマキの目に、オレンジの魚肉のなかに埋もれている白い小さなミミズのようなものが飛びこんできた。

「いた!」

 思わず上ずった声がでた。美奈子もあわてて覗きこむ。美奈子が安堵のあまり涙を浮かべた。「よかった……」

 いちど見つけると魚体のいたるところにサナダムシの幼虫がいることがわかった。すべて丁寧に集め、

「おねがい、着床して……!」

 神仏照覧、美奈子はあおるようにして、てのひらいっぱいの幼虫たちを一気に嚥下した。身は醤油麹の炊き込みご飯やポワレやアラ汁に姿を変えてふたりの夕食になり、余りは冷凍にした。

 しかし数時間後、部屋でまったりしていると、突如として美奈子が激しい腹痛に七転八倒した。サナダムシの症状ではない。おそらくアニサキスも混入していたと思われた。救急車を呼ぼうとしたが、のたうちまわる美奈子に断固拒否された。

「きっと虫下しをまされてしまいます。それではサナダムシも巻き添えに。わたしを愛しているならこのままにして!」

 人体に侵入したアニサキスはおおむね3日で死ぬ。3日を耐えればサナダムシの生育を続行できるのだ。美奈子の決意はあずきバーより固かった。

 そして美奈子は勝利をおさめた。

 なお、サナダムシはサクラマスより釣るのがずっと簡単なスズキにも寄生しているということをふたりが知ったのは、ずっとあとのことである。

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