マキさんの子供がほしいです(1)
何年前からそうなったのか忘れてしまったが、あやうく終電をのがしそうになる毎日だった。間に合わなかったときはちかくのファミリーレストランで始発まで時間を潰した。
働き方改革とやらでマキの勤める会社も従業員に残業をさせられなくなった。役員の偉い人はマキたち社員にこう通達したものだ。
「残業はしないでください。ただし人は増やさないし仕事も減らさない」
いままでテッペンまで残業してようやく1日ぶんの業務をこなしてきたのだ。当然のことながら終業までに仕事が終わるはずもない。タイムカードを押して退勤あつかいにしてから残業するほかない。
すると偉い人はこういった。
「サービス残業しないでください。ただし人は増やさないし仕事も減らさない」
マキが思いついた裏技は、全員退社したという体裁のため全館の照明が落とされた社内で、口にくわえたペンライトで手元を照らしながら仕事をするというものだった。これぞ新時代令和の働き方である。部内のみんなが真似をした。
家に帰るのは寝るためと家事を消化するため。寝るだけなら会社でもできる。ネットカフェならシャワーを浴びて泊まることもできる。しかし住所がないと働けないし、家賃を払っている以上はせめて帰って寝ないとお金がもったいない気がする。なかば意地で帰宅している状態だった。
そういう日が続いていたためかもしれない。美奈子という見知らぬ女性が勝手に部屋で待っていて、ストーカーだと明かされても、「顔がかわいい、声がかわいい、しぐさがかわいい、匂いがかわいい、ストーキングするほど自分に興味をもってくれる、家事もいっさいやってくれる、おなじ女どうしだけにかゆいところに手が届く。なにもデメリットないのでは?」と受け入れてしまった。
いま、マキは寝るために帰るのではない。
美奈子が待っていてくれるから、帰るのだ。
◇
木曜日。
いつものように絶対に終業までに終わらない量の仕事を暗闇のなかで片付けていると、おなじように残業している男性社員の姿が目についた。マキより5歳も下だが左薬指に光るものがある。それを見て思い出した。
「あなた、たしかきょうは結婚記念日じゃなかったっけ?」
声をかけると、若手社員はまず自分に向けていわれたということを認識するのにしばし時間がかかり、それから疲れた笑いをみせた。
「仕事ですから……」
「いいよ、やっといてあげる。もう帰んなさい」
「そういうわけには……」
「女は記念日すっぽかされると永遠に恨むよ。きょうくらいは嫁さんを優先してあげなさい」
なかば強引に仕事を奪うと、若手社員は申し訳なさそうに何度も頭を下げてオフィスをあとにした。
二人ぶんを背負うことになったが、後悔はなかった。
美奈子と出会って、帰りを待ってくれる人がいることのありがたさを知ると同時に、そういう人を待たせることの心苦しさも知った。きょうくらい、先輩らしいことをしてもバチは当たるまい。
金曜の夜は、自分で鍵を開けなくてもいい。インターフォンのボタンを押す。ぱたぱたとドアの向こうからスリッパの音。鍵があく。チェーンが外される。
「マキさん、おかえりなさい。今週もおつかれさま!」
とびきりの笑顔がドアから覗く。モノクロになりかけていた視界に色彩が戻った。マキも自然にほほがゆるむ。「ただいま、みーちゃん」
片付けられ掃除された部屋。脳と胃袋に直撃する香り。なにより、美奈子がいる、ということに、えもいわれぬ安らぎを覚える。
「きょうはマキさんの好きなビーフシチューですよ」
うれしそうにいう美奈子を見ていると、無意識に抱きしめてしまった。
「どうしたんですかぁ、たいへんだったんですねぇ」
あやされるように背中に回された手で優しく撫でられる。マキが、はっと我に返る。
「ご、ごめん。帰ったばかりで、あたし臭かったかも……」
急に恥ずかしくなって離れると、美奈子が小さく吹き出してから、
「臭くなんかないですよ。マキさんががんばった匂い、わたしは大好きです」
逆に胸に飛びこんできた。
「でも、あんまり無理はしないでくださいね」
マキはただただ美奈子の細い体を懐抱するのだった。
食卓では、視覚からでも芳醇な風味が伝わってくる魅惑のビーフシチューが湯気を立てていた。回しかけされた生クリームの白い渦に引きこまれそうになる。付け合わせのインゲン、蒸かしたじゃがいも、艶やかなにんじんのグラッセが華を添える。
となりのガラスの皿では、赤パプリカと黄パプリカ、グリーンリーフのマリネサラダが豊かな色彩でマキを待っている。
美奈子と神羅万象に感謝していただく。シチューの牛すね肉は、スプーンが抵抗なく入るほどにやわらかい。ルーと一緒に口へ運ぶ。噛みしめると、細胞が震えるかのような感動が、じんわりと全身に染みわたっていく。舌の上で肉がほどけるようにとろける。
「すごいねこのビーフシチュー。コクがあってうまみがぎゅっと詰まってる。ワインかなにか?」
「赤と白の両方使いました。あと、隠し味にコーヒーを」
にんじんのグラッセは甘めにつくられているので、濃厚な味わいのシチューと交互に食べるとお互いがひきたてあって、相乗効果を生む。あえて味をつけていないインゲンと蒸かしいもが名バイプレイヤーを務めている。
「あの……シチュー、おかわりある?」
「もちろんです!」
皿を受け取った美奈子が足取りも軽くコンロへと向かった。
その後ろ姿を見て、さまざまな思いがマキの胸に去来する。
マキの居住地も美奈子の住んでいる自治体もパートナーシップ宣誓制度は採用していない。女と女では役所は婚姻届を受理しない。あたりまえのことだ。だが、なぜあたりまえなのか。いままで疑問に思ったこともなかった。美奈子と付き合いはじめてからはじめて気づかされた。男と女なら入籍できる。同性ではできない。まるで法律によって「正しい愛のかたち」を規定されているかのようだ。役所は書類に不備があると受け付けない。では、女と女が籍を入れたいという気持ちは不備だということなのだろうか。
「いやあしかし、女どうしの結婚生活って、こんな楽しいもんなのかね。それともみーちゃんだからかな」
いうと、美奈子ははにかみ笑いをみせた。
その健気さにマキの胸中でにわかに罪悪感が頭をもたげる。楽しく感じるのは美奈子に家事を任せているからではないか? 家事ほど生産性のない時間もないのだ。
「いまさらにもほどがあるけど、いつもみーちゃんに与えてもらってるばっかりじゃん。なにかあたしにお返しできるもんあるかなあ」
「お返しなんて、そんな」美奈子が必死にかぶりを振る。「わたしはマキさんのそばにいられればそれで……。こうやって一緒の部屋にいるなんて奇跡みたいなものですし。お世話だってわたしがやりたくてやってるんです。マキさんのぱんつを洗うことで、日々の仕事で汚れたわたしの心も洗われるんです」
だいたい女が「気にしないでいいよ」といっているときはもっと突っ込んで気にしてほしいと思っているときである。
「ほんとにぃ? あたしにしてほしいことないのぉ?」
おどけてみせながら確かめる。
「……いいんですか?」
「もちろんよ。あたしにできる範囲なら」
「じゃあ」美奈子が決意したように口を開く。「子供がほしいです」
マキは箸を置いて悩んだ。マキにできる範囲どころか、人類の科学力はいまだ同性とのあいだに子をなす
もっとも現実的な方法は、
「里子をもらうこと、かなあ」
自分の言葉にマキは唸った。
「でもさあ、里子は親を選べないんだよねぇ。ふた親が両方とも女ってのは子供がかわいそうなんじゃない?」
「そうですか? 子供が親を選べないのは、ふつうの家庭でも、ノンケの里親でもおなじことですよ。ゲイカップルの里親のときだけ、なんでかわいそうになるんですか?」
美奈子のいうことにも一理ある。しかしやはり子供も人間である。幸せをアピールするためのアクセサリーとして人ひとりの人生を引き受けるわけにはいかない。少なくともマキにはまだ人の親になる覚悟はできていない。
「とはいっても、わたしもマキさんの血が流れてない子供を愛することはできませんけど」
美奈子も生物学的なつながりがほしいようだった。
どうすればそれが成るか……食事を再開しながら悩んでいると、
「あ、ごめんなさい」
美奈子が顔をそむけて、かわいらしいくしゃみをした。くしゃみは何度か続いた。
「花粉症?」
マキから隠れるようにしてティッシュで鼻をかむ美奈子に訊くと、くしゃみのあいだから「そうなんです」とつらそうな鼻声が返ってきた。
「スギとイネとブタクサがだめで……」
「年中じゃん。かあいそうに」
「薬を飲むとどうしても眠くなって……」
「たいへんだなあ」
マキはデザートのはちみつトーストにバニラアイスを乗せたものを堪能し、
「なんか寄生虫を飼ったら花粉症治るらしいけどね、サナダムシとか」
思いつきを口にした。軽い冗談のつもりだった。
「それですよ!」
美奈子が世紀の大発見をしたような顔でマキを見つめた。きっと湯槽に浸かってお湯が溢れるのをみて「ユリイカ! ユリイカ!」と叫びながら裸のままで飛び出したときのアルキメデスもいまの美奈子とおなじ表情をしていたにちがいない。
「わたしのおなかで育ったサナダムシにマキさんが感染したら、それはふたりの子供といえるんじゃないでしょうか」
どうです、と涙目で訴えられて、月の残業時間が平均190時間のマキは、美奈子の手を両手で包んで、こう答えた。
「すっごくすてきだと思う……!」
かくして食後にふたりだけの作戦会議がはじまった。要項はこうである。
サナダムシは古代ギリシャ語で
しかしながらマキも美奈子も潔癖をもって鳴る現代日本人のご多分にもれず、体内に条虫や回虫といった寄生虫など存在していない。ふたりはぎょう虫検査の経験すらしたことがないほどなのだ。だからまずどちらかがサナダムシに感染する必要がある。これについては、「わたしのサナダムシがおなかにいるマキさんが見たいです」という美奈子たっての熱望から、美奈子が先行することで一致した。
では、かりに美奈子がサナダムシに感染し、彼女の大便から卵を回収してマキが服すれば、マキの腸内に美奈子直産のサナダムシが定着するのか。否である。
レウコクロリディウムがその生活史でカタツムリと鳥類を往き来するように、あるいは500年もの永きにわたって山梨県は甲府盆地の人々を苦しめた風土病の原因たる日本住血吸虫が、ミヤイリガイを介して人間などの哺乳類に感染するように、サナダムシもまた成長に応じて宿主を乗り換えていく。サナダムシの成虫が人間の腸内で産卵するからといっても、その卵は人間の体内では成熟しないのだ。便宜上、寄生虫が成虫となって産卵するための宿主を「終宿主」とよび、幼虫が成長につかう宿主を「中間宿主」と呼称する。しかし寄生虫にとって終宿主はけっしてゴールではない。寄生虫の生活環では、幼虫が成虫になるように、成虫もまたつぎのステージで卵になる。本質的には、寄生虫は卵、幼虫、成虫とループ状に姿を変えながら生き永らえていると考えるべきである。
寄生虫は終宿主、中間宿主ともに寄生相手の生物の種類が決まっている。たとえばレウコクロリディウムはオカモノアラガイのみを中間宿主とする。おなじカタツムリの仲間でも、オカモノアラガイと分類的にちかいミスジマイマイやニッポンマイマイ、もしくはナメクジには定着できない。つまり生活史のすべてにおいて、正しい中間宿主、正しい終宿主に移住できないと、寄生虫は天命をまっとうできずに死ぬのである。
「運ゲーじゃん。なんでわざわざそんなめんどくさいライフサイクルしてんだろうね。成虫になれる確率を自分で減らしてるようなもんじゃない」
「宿主が1種類だけだと、その宿主が絶滅したら自分も共倒れしちゃうからじゃないですか? 頼りきってた取引先の倒産で連鎖倒産するみたいな感じで」
なるほどとマキは納得した。
サナダムシの場合、人間や犬、猫、豚、熊などの哺乳類が終宿主である。卵は大便とともに外界へでて川に放出され、水中で孵化して幼虫となり、ケンミジンコに摂食されることで寄生する。さらにそのケンミジンコがマス、サケなどの魚類に捕食されると、幼虫は魚の筋肉中に寄生する。その魚類を食べることで、人間はサナダムシに感染するのである。
すなわち、第1中間宿主がケンミジンコ、第2中間宿主が魚類、終宿主が哺乳類となる。
以上を踏まえたふたりが立案した作戦は大きくわけて5段階。
第1段階では、美奈子がサナダムシに寄生された魚類を生食して感染する。
第2段階。美奈子の排泄物にサナダムシの体節の混入が認められたら、糞便中に虫卵が混在しているものとし、ケンミジンコを飼育している水槽中に当該糞便を投入する。ケンミジンコへの寄生を観察することは困難を極めるので、当該糞便の投入をもって、ケンミジンコは幼虫に汚染されたものとする。
第3段階。汚染されたケンミジンコを魚類に給餌する。
第4段階。寄生された魚類をマキが摂食し、サナダムシを体内に取り入れ、自身に感染せしめる。
最終的には、マキの糞便にサナダムシの一部が混入していること、もしくは排便時の肛門からサナダムシが
作戦名は、『日本海裂頭条虫による被寄生を利用した擬似的な生殖を目的とする飼養下の中間宿主への意図的な感染ならびに摂食を主軸とした作戦』、通称『らぶらぶ作戦』とした。
まずは美奈子が寄生されるための始祖となるサナダムシを探さねばならない。サナダムシの主たる感染経路はマスやサケの生食である。ではそこらへんのスーパーマーケットで売られているサケを刺身で食べればサナダムシのブリーダーになれるのか。
あくる日の土曜日、ふたりは、地方に出店して地元の商店街を寂れさせては撤退してあたり一面を焼け野原にすると評判の全国チェーンのスーパーに出かけた。鮮魚コーナーで白エプロンにヘアーキャップとマスクとゴム長靴で完全武装した従業員をみつけたので、1尾まるまるパックのニジマスを示して、サナダムシがいるかどうか訊いてみた。彼は自信満々に胸を張った。
「弊社で販売している国産サケやマスは、すべて独占契約の淡水養殖場で配合飼料によって養殖されています。公的機関で構成される全国
いないのか。マキと美奈子はがっくりと肩を落とした。従業員は怪訝な顔をするばかりであった。
かつて高度成長期くらいまでは日本国民の大半が飼っていたというサナダムシであるが、現代日本ではむしろ感染するほうがむずかしいということだ。おかげで衛生的な生活が送れている。
サナダムシの第2中間宿主はマス、サケ、カマスが代表格である。しかしどんなマスやサケにもサナダムシが寄生しているわけではない。サナダムシが寄生するのは
サクラマスは川で産まれ、海に下って回遊し、産卵時に故郷の川にもどってきて遡上する。このように河川から海にでる生態のものを降海型という。しかしなかには海へ行かずに一生を川で過ごす個体もいる。この残留組を
サナダムシが第1中間宿主とするケンミジンコは淡水産と海産が存在する。ところが、サナダムシは海産ケンミジンコのほぼ全種類に寄生するのに対し、淡水産ケンミジンコには1種類しか寄生できない。事実上、サナダムシの第1中間宿主は海産のケンミジンコということになる。マスやサケは降海時にこのケンミジンコを摂餌することでサナダムシに寄生されるのだ。スーパーの従業員が淡水養殖場で養殖されたニジマスにサナダムシはいないと豪語したのはこのためである。
ならば海外から輸入された魚はどうか。いわゆるアトランティックサーモンはノルウェーやチリからの輸入品である。
しかし、食の安全に世界一うるさいといわれる日本に輸出するだけあって、なにも対策を施されていないはずがない。アトランティックサーモンもまた養殖ものは乾燥した人工飼料で育てられるから寄生虫の入りこむ余地がなく、天然ものでもどのみち日本へはマイナス40度以下で72時間冷凍した状態で輸送され、鮮度をたもつと同時になにがなんでもサナダムシやアニサキスを皆殺しにしてから販売される。魚を凍らせてから解凍して食べるアイヌ民族のルイベという調理法は理に適っているといえる。
導きだされる結論をマキが下す。
「自分たちで降海型のサケなりマスなりを釣って食べるっきゃない」
サクラマスにせよサケにせよ、遡上する降海型を釣るのは異常にむずかしい。
「なんでですか?」
「遡上フェイズに入ったあの手の魚って、ほとんど餌を食べなくなるのよ。だから餌と勘違いさせて捕まえる釣りって手法自体が生態とマッチしてないのね。でも生まれてからいままでずーっと、口に入るものはなんでも食べてきたわけだから、目の前に餌っぽいものがきたら反射的に食いついちゃう、かもしれない。サクラマスなんかはこの“食いつくかもしれない”に賭ける分のわるいギャンブルみたいなもんでね」
「く、詳しいですね」
「大学のころから趣味でサクラマスやらシロザケやらの釣りやってたからね、いまの会社に入るまでは」
ときあたかもサクラマスの遡上シーズンである。ネットで調べてみるとここ数日は福井県九頭竜川での釣果が芳しいとのことだった。九頭竜川といえばサクラマスの聖地である。
「釣りなんか久しぶりだなあ。まあ、SNSで自分の個人情報ばらまいてたらこんなきれいなストーカーが釣れたけど」
マキに美奈子は赤面するばかりであった。
この数年は仕事で忙殺される日々だった。サクラマス釣りなど何年ぶりかわからない。
「なまってないといいけどなあ」
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