第9話 神崎さんには、アポイントをとってから俺に話しかけてくるように要求したい。

 管理人の芝山さんと別れ、朝練でストレッチをしている最中に、黒髪の乙女が校舎の前を通り過ぎた。


 その瞬間、空気が少し綺麗になった気がした。マイナスイオンには、空気中のチリ・ホコリを除去するなどの空気清浄効果がある。きっと彼女からマイナスイオンが大量に発生されてるからだろう。


 黒髪の歩く空気清浄器こと、神崎さんが登校してきた。彼女も吹奏楽部の朝練に違いない。


 こちらに気づくと、にこやかな笑顔で手を振ってくれた。


 俺に手を振ってくれてるんだよね……? 疑心暗鬼に陥り、思わず後ろを確認したが、グランドにはまだ自分とちろるしかいない。ちろると神崎さんは面識がないだろうから、これは俺に手を振ってくれていると考えていいだろう。


 後で落ち込まないように、きちんと後方確認してから、ぎこちない笑顔でこちらも手を振り返した。我ながらなんと用心深いのだろう。石橋は何度も叩いて確認して、叩きすぎて壊してしまうタイプだ。


「ちょっとせんぱい……何にやついてるんですか? もしかしてあの人……。」


 プラスイオンの含まれたじれっとした視線を感じる。振り返ると、ちろるはサッカーのボールカゴを押しながら、ジロ目でこちらを睨みつけていた。


「ばかっ、何いってんだ……。神崎さんはただのクラスメイトだよ。」


「まぁ……いいですけど。」


 少しつれない様子で、ちろるはぷいっとそっぼを向いてしまった。告白を保留されている彼女からすると、そりゃまぁ、好きな奴が他の女の子にデレついてるのを見るのは、かなり複雑な心情だろう。


 他の部員もぞろぞろと集まり出し、いつも通りのメニューをこなす。そして朝練を終え、いつも通りの一日が始まる。


 学生の本分は、何といっても勉強だ。授業に関しては今のところ真面目に受けている。


 一応大学進学の予定ではあるが、この大学に行きたいどころか、どの学部にしようかなぁ……という段階である。まぁそれが普通であり、むしろ高二の段階で、将来がビシッと決まっている奴の方が稀である。


 そう、それが――普通なのだ。


 しかし、将来の夢がはっきりしていないからといって、それが勉強をさぼるという言い訳にはならない。夢がはっきりしていないからこそ、確固とした夢が見つかった時に、学力が足らなくて夢を諦めるという結果にはしたくない。


 というわけで、一時間目の英語をがんばって集中して受けた。基本的に授業中に関しては、神崎さんをガン見するということはない。ガン見はしないが、チラ見はする。


 そして休み時間は周囲にばれないよう気を払いつつ、結構ガン見している。


「~~♪♪」


 神崎さんは何やら鼻歌を口ずさんでいる。かろうじて聞こえた曲調から判断するに、どうやらエルガーの威風堂々第1番であるようだ。


 ペットボトルの蓋を開けようとするが、なかなか開かないらしい。きゅっと目を瞑りながら力を入れて開けようといているところが可愛らしい。開けてあげようかと声をかけたいところだが、残念ながら俺の席から神崎さんの席までは何とも言えない微妙な距離がある。


 もし、通りがかりの男子が「開けてあげようか。」とか、神崎さんに声かけやがったら、そいつのことを一生嫌いになる自信がある。


 まぁそんな心配は杞憂に終わり、神崎さんは自力でなんとかキャップを開けた。


 全体の五分の一ほどの量を飲み干し、キャップを閉めるかと思いきや、神崎さんはペットボトルの口に、柔らかな彼女のぷるっとした唇を押し当て、「フゥーッ」と吹きだした。


 あぁ羨ましい! ペットボトルが妬ましい。来世は神崎さんに飲まれるペットボトルとして転生したい……。


 神崎さんは何でもすぐ楽器にしようとする癖がある。


 そんな無邪気なところも可愛い。たとえ変なところや、欠点があったとしても、それすらも可愛く思え、全部含めて何もかもが好きだ。好きになるとはそういうことなのかもしれない。


 シェイクスピア曰く、『ほどほどに愛しなさい。長続きする恋はそういう恋だよ。』とのことだが、それができれば苦労しない。


 恋い焦がれるという言葉があるように、本当の恋とは、まさに身と心を炭火で炙り焦がされるような気持ちなのだ。ほどほどに愛するなんてできない。理屈でどうこうできるものじゃない。


 キーンコーンカーンコーン……


 全く――充実した休み時間だったぜ。みんなも時間潰しのオシャベリや、次の授業の予習なんてするくらいなら、この最高の休み時間の過ごし方を真似したらいい。



 午前の授業が終わって、お昼休みの時間となった。ゆっくり神崎さんの横顔を見ながらお昼を食べようと思ったその時、スマホにラインのメッセージ通知画面がポップアップした。


“昼休み、生徒会室に来てもらっていいか? 少し仕事を手伝ってほしい。”


 姉貴からのラインであった。青葉家においては基本、年長者の言う事は絶対である。いや、それだとおかしいな。俺のいうこと全然風花のやつ聞きやしないし……。言い直そう。青葉家において、基本的に女性陣の言う事は絶対である。


 姉貴の要請メールにそれでも必死の抵抗を試みようと、俺はこう返信を返した。


“えっ、俺生徒会じゃないのに……。”


 そう返信を打ち終えると、わずか五秒たらずでまた返信がきた。


“学期末で忙しい。弟の手もかりたい。弟にもすがりたい。いいから来い。”


 俺への助力を頼んでおきながら、お前の力なぞは所詮、猫の手や水中の藁とどうレベルだと軽くディスッてくるあたり、そして最後はもう御願いではなく命令口調になっている、それを五秒で返してくるとはさすが姉貴だ。


“わかったよ。いきます。すぐいきます。”


 姉貴の命令に従い、俺は昼休みに弁当を持ったまま、生徒会室へと向かおうとした。


「あれ? 青葉くんは教室でお弁当食べないの?」


 風鈴がちりんと鳴るような涼し気な声、突然神崎さんに声をかけられた。


「えっ、あっ、ちょ、ちょっと姉貴に、仕事手伝えって呼び出されてさ。」


 きょどりすぎだろ俺……。しっかりしろ。


「そうなんだ。青葉君はお姉さん想いだね。やっさしー。」


 ころころと子どものように笑う神崎さん。いや、これもう誰だって天使と間違えるわ。だって、何か後ろにキラキラしたスクリーントーンが見えるもの。背景に笛加えた子どもの天使が舞ってるもの。


「そっ、そんなことないよっ。っじゃあ、またね。」

「うん、お疲れ様。」


 ひらひらと手をふる神崎さんに、軽く手を振り返して俺は教室を出た。そして激しく後悔した。


 またねじゃねぇよ俺……。何早々と会話切り上げようとしてんの! もっと気の利いたジョークの一つでもかませよ! 「お姉さん想いか。そうだね、俺の半分は家族への愛と、もう半分は神崎さんへの愛でできているよ。」くらい冗談っぽく言ってみろよ。まぁ死んでも言わんけども……。


 ってか、神崎さんも悪い……。いきなり声かけてこられると困る。こっちもきょどらないための心の準備とか、声が上ずらないための準備とか色々必要なので、声かける前には、一言ラインスタンプ送るとかでアポイントをとってほしいものだ。


 カント曰く、『真面目に恋をする男は、好きな人の前では困惑し、愛嬌もろくにないものである』、とのことだ。全くもってその通りである。というか、こんな名言残すってことは、カントも同じような経験したってことか。なんか親近感湧いてくる。


「はぁ……。」


 情けない自分に対し、今日一番の大きなため息が出た。


 いや、正直すごい嬉しいのだけど……。神崎さんから声かけられただけで、今日一日授業中だって構わず小躍りできる気分である。土足で椅子に上がり、机の上にのって、ぴょんぴょんと机を跳びわたって、先生の前で尻をぺちぺち叩いてリズムを取りながら小躍りできる。まぁしないのだけど。


「生徒会室いくか。」


 切り替えがパッとできるのが、俺の48あるいいところの一つだ。なお、悪いところを数えはじめると、きっときりがないからやめておこう。

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