雨とセッター

九条馨

雨とセッター



昼過ぎに彼からメッセージが届いた。

「そっちの講義終わったらいつもの場所で。」

この不定期でそっけない連絡はもう慣れたものだった。

いつもの場所というのは、大学の近くのショッピングモールの駐車場の1区画にある喫煙所のことだ。

彼との付き合いは長い。来月で3年と半年になる。

私が高校時代にシアトルで1年留学しており、

彼は現役で大学に入学したため、

彼とは大学では同学年だが、私の方がひとつ年上だ。


私たちは同じ大学の四年生で、来年度から社会人になる。お互いに就職先の内定は決まっていて、

彼は私の会社の隣町にある中小企業で働くそうだ。


「無駄に背伸びをしないこと」が彼のモットーであった。

私は唯の怠慢にしか思えないのだが。


就職だって、私たちの大学を出るのであれば、もう少し良いところもあっただろうに、挑戦もせず、即採用を決めるところで早々と手を打った。


残りの大学生活は貯めていたバイト代でゲームやらパチンコやらで遊ぶことに精を出すそうだ。


彼はいつから鉛のようなアパシーを抱え込みだしたのだろう。


元々真面目に講義に出席をしたり、勉強に勤しむ性格ではなかったが、付き合いたての頃は酒を嬉々と呑み、毎週末の夜には出かけて街で遊んでいた、典型的な「遊び人」大学生だった。


ここ1年ほどはそんなこともせず毎日を気怠げに、ただぬるぬると時を溶かすように過ごしている。


彼との馴れ初めは入学して数ヶ月の時、女友達に強引に誘われて渋々行ったクラブだった。

入学してから、彼とは取っている共通講義があまりなく、会話も全くなかった。

顔はかろうじて憶えているという程度の一同級生。

席が近くに座った際に、線は細いが端正な顔立ちに似合わない金髪をしていて、勿体無いと思っていた。

そんな彼と偶然にもクラブで会ったのだ。

私は久々のクラブの空気に圧倒されており、

彼の存在に全く気づいていなかった。

そのため、「あれ?」と先に声をかけたのは彼からだった。丁度女友達も背の高い彼女の好みそうな青年に声をかけられて今日は私たちは解散ということになった。


「良かったら一緒に踊ろうよ」彼はそう言って私の手を引っ張り、ダンスフロアの中心へ連れて行った。

鼓膜をを劈く勢いのクラブサウンドと人々の喧騒、熱気で私たちは自分たちの会話に注意を払うほかなかった。


彼と軽くリズムの波に乗って踊りながら、簡単な自己紹介をした。ありきたりな趣味の話や近況や、恋人の有無などについて話していた。

目が痛くなるほどの極彩のエフェクトライトに囲まれながら周囲の嬌声を塞ぐようにして2人で透明の膜を張って、美しい世界に閉じこもった時間は今でも忘れられない。


それから、踊り疲れた私たちはフロアの端のテーブルに肘をついてもたれかかった。


そこで彼は意気揚々と黒のスラックスパンツのポケットから煙草の箱を取り出した。

「俺って吸うんだ」と得意げそうに、しかしタバコの箱の入り口を少し押して人差し指と親指の腹で摘み出すような慣れていない手つきで箱から一本取り出し、火をつけた。


「意外ね。」と私は返した。


「セッターが好きなんだ。」と彼は言った。


「まだ未成年なんでしょう。ダメじゃない。」

と私は少し笑いながら言った。


彼はへらっと苦そうに微笑んだ。


あたりには煙草の煙が広がってゆく。

あまり煙草を美味しそうに吸っているようには見えなかった。むしろ少しまだ抵抗を持っている様子だ。

煙の合間から彼の線の細い端正な顔が覗く。

喫煙することが大人への憧れを叶える手だと思っているのだろうか。だとしたらその似合わない金髪もその一種なのか。

そんな彼の稚拙な様子も好きだった。


その頃の彼は背伸びをしていたのだ。


私の鼻腔に煙草の煙の匂いが入ってきた。

私はどちらかと言えば嫌煙家であるが、

その晩だけは彼の吸うタバコの煙は不思議と嫌いになれなかった。


もっと彼と一緒にいたかったが、私が次の日の午前からバイトが入っていた。そのため、その晩はお互いに連絡先を交換して別れた。


その後3日後に彼から夕飯の誘いの連絡がきた。

嬉しかったが、くるだろうと思っていた。

大学1年生が選ぶにしては、中々に落ち着いている、駅から近い小洒落た洋食屋だった。


「君って凄いよね。友達からなんだけど、君が帰国子女枠の推薦だったって聞いた。英語が堪能だって。」ポークソテーをナイフで切りながら彼は言った。


「そんなことないわ。シアトルに行ってたって1年だけだし、英語圏の環境下だったら誰だって少しは話せるようになるわよ。」


「偶に講義が一緒だと君のことを遠くから見ていたんだ。大人だなって。1歳しか違わないのに、俺とは全然違うな。」


「そうかしら。そんなことないわ、それは褒め言葉かしら。だとしたらありがとう。」


遠くから見ていたという彼の言葉に私は照れながら返した。


もっと可愛げのある返事を返せば良かったと思った。


「そういうところが大人っぽいよね。落ち着いてる。少し話しかけづらかった。でも今は違う。」

そう言って彼は赤ワインを呑んだ。


彼は未成年飲酒も平然としていた。酒も彼の思う大人への憧れを叶える一手だったのかもしれない。

大学生では未成年飲酒なんてものは広く横行しているため、私は何も言わなかった。


私は何度か同じことを同級生から言われたことがあった。落ち着いていて、どこか話しかけづらいと。

自分でも少しものの考え方は達観しているところがあるとは思っているが、周囲が言うほど特別自分が周りと比べて大人びているとは思ったことはあまりない。


「じゃあもっとわかりやすい褒め言葉を言っていいかな。君はとっても綺麗だよ。整っているから、大人っぽく見えるのかな。僕の好みの顔なんだ。」


と彼は純真な眼差しで言った。


私は自分でも思うのだが、まあまあ良い容姿をしている。

男性からのアプローチは普通の女の子よりも少し多い程度だろうか。大学に入って同じサークルの先輩からデートに誘われたことも数回あった。


だが、彼からの言葉は妙に新鮮味があり、素直に嬉しかった。

私も彼に好意を抱いていたのだ。


それから私たちは近くの洒落た雰囲気の居酒屋に入って度数の弱いカクテルをお互いに呑んだ。


カクテルがグラスの中盤になってから、

「よければ僕と付き合って欲しいんだ。」と彼は言った。ストレートで変に飾らない言葉は私の好みだ。


私は上気した顔で黙って頷いた。その時ばかりは、私の顔は可愛げのある少女の様な顔を作った。何も知らない処女のような。


「大人っぽいのに可愛いね。」と彼は言った。


私は表情を作るのが上手い。

そのため、色々な場所で気に入られることに私は長けている。

これが計算高いというのだろうか。

今は彼もその計算の中の1人だ。

彼も安堵と満足げな顔で私を見つめた。


そんな私は処女は17歳の頃捨てていた。留学先で知り合った背の高く細い中国とのハーフのひとつ年上の日本人学生とだった。今ではその彼の顔も曖昧模糊である。本当に好きだったのかと聞かれたら、返事に困るほど関係は築けてなかったのに、流れのまま抱かれてしまった。あの時は、私も大人に憧れて、背伸びをしたのかもしれない。


居酒屋から出たら、駅まで2人で歩いた。

「俺の家ここから2駅隣なんだ。よければ来て欲しい。」

と誘われた。


私はまたあの少女の顔で黙って頷いた。


その晩私たちは彼の家で初めて寝た。


彼はまだ手慣れていない様子だった。一つ一つの事に必死で、「大人」とはかけ離れてはいたが格好悪いとは思わなかった。

彼は優しかった。脳が液状になりそうなほどに甘い一晩だった。私はあの時本当に幸せだったのだ。


その晩から彼とは長い付き合いだ。

周りのカップルが季節の折々に分かれていくのを横目に私たちは長く続いていた。


同級生からも仲がいい2人だと評判だった。

このまま結婚しそうだと勝手に将来を言う人もいた。


どうだろうか。

私はもう以前のように彼に対して熱い思いはなくなってしまった。ただ関係を続けているだけだ。


彼もきっと同じ思いだろう。


週に1回ほどの頻度でいつもの場所で、とそっけない連絡をよこし、集合したらショッピングモールの中に入っている適当なファストフード店か、どこか安価な店で食欲を満たした後に、彼の車で彼の家に行って味気のないセックスをする。


最近は私たちは本当に冷めている。

彼は避妊具を無しでしたいという、危なっかしい懇願ももうしない。

2回目、3回目と狂ったように求めてくる、若々しい懇願ももうしない。


ファストフードや、安い酒のようにただ空いた欲求を満たすためだけのセックスだ。それ以上でも以下でもない。


同性や異性の友達に相談したら、唯のマンネリだと言われた。俗にいう倦怠期だと。


もちろん私は虚しさや寂しさは感じていた。

だが、彼と別れたらもっとより大きな虚しさが取り憑いて来そうで怖いのだ。


彼は彼で、丁度手頃に性欲を満たせることのできる女が身近にいる訳で、しかも新しい「らしい」女を見つけてまた一から関係を築くのは億劫だと思っているのだろうか。


情や好きだから付き合っているというよりかは、

その虚しさから逃げるように付き合っている。

私たちの交際は、呪いのようだった。

私は何ももう達観していない。弱い人間なのだ。


今日も私は講義が終わったら「いつもの場所」に行く。

「いつもの場所」に到着した。

丁度彼も向こう側からゆっくりと歩いてくる。

私を目で捕捉し、右手を少し挙げた。


「タバコ吸わせて。」と彼は言った。


私の返事も待たず、彼はセッターの箱の上面を人差し指で三回軽く叩き、今では手慣れた手つきで煙草を掴み、火をつけた。

喫煙しない私は彼にこうやって待たされているときは徒然で、いつもはスマートフォンの画面を意味もなく見つめていた。

今日は何故だか彼の煙草を吸う姿を見ていた。


大人の憧れではもう吸ってなさそうだ。

喫煙する姿は様になっていた。

もう背伸びはしていない。

私は本当に煙草は依存するものだと思った。


そして私は彼がもう出会った頃の彼とは全くの別人になってしまっていることを深く実感した。

春になれば、社会人になれば、私も彼も新しい出会いがあって、お互い違う人生を過ごして行くのだろうか。


なんだか泣きそうになってしまった。

煙草の煙が目に染みたのだろうか。

独特な嫌な匂いが鼻腔を充満した。

私はいてもたってもいられなくなって彼から目を背けた。

そして用もないのにスマートフォンのSNSのタイムラインを更新して、気を紛らわすように眺めていた。


それから、私たちはファストフードで夕食を済ませた。

帰りには雨が降り始めていた。

そう言えば今朝のニュースでは今晩は雨予報だと言っていた。

私たちは小走りすることもなくゆっくりと駐車場を歩いた。別に濡れてもいいのだ。どうせもう行く先は決まっている。

それから彼の車にいつも通り乗った。


「俺んちでいいよね。」と彼はエンジンをかけながら言う。


私は黙って頷いた。私はもう可愛らしい少女の顔ができなくなっていた事に気づいた。


私も変わってしまっていた。

彼だけが変わったのではなかった。

私が少女の顔をするのには余りにも彼に抱かれ過ぎていたのだった。


ショッピングモールから見通しの良い広い道路に出た。


フロントガラスには雨粒が多く引っ付いていた。

ワイパーがそれらを退かした。

三日月が見えた。


未練たらしく消えそうになっている光の曲線が弧を描いていた。


セッターの匂いが彼の服に染み付いていた。

また雨粒がフロントガラスに引っ付いて、ワイパーが退かす。目的地に着くまではその繰り返しだ。

私はその律動をずっと眺めていた。


























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雨とセッター 九条馨 @kahokaori

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