さゆりの巻
春。森永さゆりは通学電車のようなものに乗っていた。ようなもの、というのは、彼女は実際には学校へ通っていなかったからだ。その後ろ暗さからか、いつしか車両の端っこ――あまり開かないドアの前が彼女の指定席になっていた。
「人世町〜 人世町〜」
さゆりは、学校まで三つ手前のこの駅で電車を降りた。なぜなら、下校時間まで時間を潰すのにうってつけの、寂れた児童公園があるからだ。
彼女は昨年からクラスの中で「標的」にされていた。理由なんてあって無いようなものだ。ただ、未熟な子供たちだけの狭い世界においては、誰かが――特に優しい子ほど、その役割を押しつけられやすいというだけだった。さゆりは、次第に学校へ行けなくなった。だから、本当はずっと家に閉じこもっていたかった。けれど彼女は優しかったから、妹の世間体を気にして、毎朝こうして学校へ通っているふりをしていた。しかし、たくさんの人が「自分の居場所」へと向かっていく朝の電車に乗ることは、世界からはみ出した自分をますます直視することだった。
(去年はなんとか進級できたけど、今年は……)
あんな連中のせいでさゆり姉ぇの人生が壊されるなんてバカげてる、だから負けないで――妹のミユの言うことはもっともだ。さゆりもそれは分かっていた。彼女たちの父母はよく言えば放任主義、悪く言えば子供に興味の無い人達だったから、唯一親身になってくれる妹の言葉にはできるだけ耳を傾けたかった。けれど、疲弊しきった心はもう理屈では動いてくれなくなっていた。
※ ※ ※
次の日も、さゆりは憂鬱な気分で電車に揺られていた。
「天間崎〜 天間崎〜」
さゆりはこの駅が嫌いだった。せっかく人の目から逃れたくて開かないドアの前に立っているのに、必ず六十秒の間、隣の線路に止まった電車と向き合ってしまうからだ。女子高生というだけで、ドア越しにジロジロと舐めるように見てくるサラリーマンだっている。誰も、私のことを見ないでほしい。そっとしておいてほしい。顔を下に向けて時間が過ぎるのを待った。
なのに、その日は一段と熱い視線を感じた。いや、正確に言えばさゆりにではなく、さゆりが鞄に付けたライオンのぬいぐるみにだ。ドアの向こうの、青いリボンの中学生。小さな体をさらに隠すように、車両の隅っこで存在感を消している。さゆりはひと目見て分かった。ああ、この子は私と同じだ。だからつい、ライオンの手を振った。驚いたその子の目に、光が灯ったように見えた。そうか、今日はこの子が喜んでくれたから、私はここにいてよかったんだ。そう思えたから、さゆりは自然に微笑んでいた。随分と、久しぶりに笑った気がした。
※ ※ ※
「天間崎〜 天間崎〜」
翌朝。いつもは憂鬱なだけのアナウンスに、今日はほんの少し明るい色が付いている気がした。
(そうだ、昨日この駅で……)
ふと思い浮かべた青いリボンが、また目の前に現れた。その驚きはすぐに喜びに変わった。似たもの同士だからか、あの子が笑うと、さゆりはなんだか自分のことのように嬉しくなった。
(うちのライオン、気に入ってくれたのかな。あの青いリボン……付けたらもっと喜んでくれるかな)
その日、さゆりは途中下車しなかった。たった六十秒が、さゆりに元気をくれた。今日は昨日よりも、少しだけ前を向いて過ごせる気がした。
それから、毎日ではないにしても、さゆりはまた徐々に登校するようになった。わずかな蜜月の時間に得たものが彼女にそうさせたのだ。しかしそれは、日に日に活力を取り戻していく「ドアの向こうの女の子」と対等でありたい、そうでなければ、彼女に与えてもらった笑顔に対して、こちらが与えた笑顔が嘘で出来たものになってしまう……そんな責任感の裏返しでもあった。
言い換えれば、虚勢である。虚勢で作られたものは、遅かれ早かれ崩れ去る。さゆりにとってのその時は、ある冬の日にやってきた。
ドアの向こうの彼女が嬉しそうに見せた、さゆりが通う高校の願書。それがお別れの合図だった。
(あの子は私と違って立ち向かう勇気がある子だから、きっと受験にも受かるよ。でも……でも、そうしたら……)
さゆりは、本当の自分を知った彼女の落胆する姿を見たくなかった。……いや、言い訳だ。ただ、知られるのが怖かったのだ。
そして……その日から、さゆりはまた通学できなくなった。
※ ※ ※
「だから、あなたにはさゆり姉ぇの居場所を奪った責任があるの」
真冬の太陽が傾き始めた午後四時。入試を終えた佳代とミユは、誰もいない天間崎駅の待合室で向かい合わせに座っていた。
「私は……」
佳代は何も知らなかった。知らずにさゆりを追い詰めていた。それはミユも承知していたから、彼女の目的は佳代を責めることでは無かった。
「分かってる。あなたのことはさゆり姉ぇから毎日聞いてたし。そもそも、あなたがいなかったら、学校なんてずっと休んでただろうし。……そのうさぎのぬいぐるみ、本当に喜んでたよ」
それを聞いて、佳代は少しだけ肩の荷が下りた気がした。
「けど、中途半端に手を差し伸べるのはやめてほしい。やるなら、最後まで助けてほしい。このままじゃ、さゆり姉ぇの人生がダメになっちゃう」
「私に……私に、何かできることがあるんですか」
その懇願にも近い問いに、ミユはある提案をした。それから、明日の土曜日に再びこの駅で会う約束をして、二人は別れた。
※ ※ ※
急行がホームで待っていた客を根こそぎ乗せて去った後、天間崎駅の待合室は三人の貸し切りになった。
「……あのさあ、二人とも」
向かい合わせに座った佳代とさゆりが、もじもじと落ち着きなく下を向いたまま、一向に顔を上げようとしないので、その間に立ったミユが呆れて呼びかけた。
「だって……」
ハモった二人の声が、ミユにはステレオとなって聞こえた。
佳代にとって、ドアを挟まず声の届く距離にさゆりがいるという非日常は、まるで裸にされたような気恥ずかしさがあった。
さゆりは、何の心の準備もなく佳代に引き合わされ、いざ目の前にすると、あれほど合わせる顔がない等と思い悩んでいたことが馬鹿らしくなるほど気分が高揚している自分に気が付き、とても見せられないほどに赤面していた。
「まったく、お見合いじゃないんだから」
ミユは、改めてさゆりの方へ向き直って言った。
「……あのね。私たち、来年から二人でさゆり姉ぇを守るよ。だから、これからは安心して学校に通って大丈夫だよ。絶対、あんな連中のためにさゆり姉ぇの人生を壊させたりしないんだから」
さゆりが再び通学できるように協力してほしい――それがミユの提案だった。もちろん、さゆりが望むのなら佳代に断る理由は無かった。けれど。
「……ありがとう」
さゆりは声を振り絞った。二人の気持ちは本当に嬉しかった。応えてあげたいとも思った。……しかし、できなかった。思いとはちぐはぐに、すくんだ足はもう動きそうになかったのだ。
「……行かなくて、いいよ」
唐突に佳代が言った。
「学校なんて、行かなくていいよ」
「はあ!? 何言い出すのあなた?」
話が違うじゃないとミユが詰め寄ったが、佳代は意に介さず、さゆりだけをただ見つめた。一晩考えて、考えて、佳代は決めていた。もしも、さゆりがもう学校へ行けない状態にあるのなら、ミユの提案には乗らないと。さゆりの事情を聞いた時、初めは自分と同じだと思った。けれど、それは違った。佳代には本当に辛い時、優しく頭を撫でてくれる家族がいた。帰れるところがあったのだ。確かに学校は辛かったけれど、ゆっくりと息をつける居場所があったからこそ、佳代はここまで頑張って来られたのだ。
さゆりはどうだ。学校は地獄だ。父母は素知らぬふり。妹は大切に思ってくれているが、さゆりが寄りかかれる相手ではない。それじゃあ、彼女は一体どこへ帰ればいいというのだ。
「ちょっと、無責任なこと言わないで!」
ミユが思わず声を荒げた。
「高校を卒業できなかったら、これから先ずっと大変なんだよ? あなたがさゆり姉ぇの人生をめちゃめちゃにするつもり!?」
さゆりの言葉を待たず、ミユが佳代に詰め寄った。気圧される。しかし、佳代は退かなかった。彼女の決意が退かせなかった。学校へ行かないといけない? 将来のため? 将来って何? 今日を捨てたら、本当に素敵な明日が来るの? 佳代の心に、沸々と溜め込んできた思いが湧き上がってきた。
「………………から……」
「あなたなら力になってくれると思ったから声をかけたのに!」
「私が…………うから……」
声を。決意を声に。
「それなのに、あなたは!」
「私が………………」
「……えっ?」
「私がっ! 養うから!!」
「ちょ、何言って」
「私が、あなたからもらった元気で! すごい学校に行って! いい会社に入って! いっぱいいっぱいお金稼いで! 養うから! だからもう学校なんて行かなくていい! 今日から……私があなたの居場所だから!!」
言い終えて…………沈黙が場を支配した。ミユがポカンと口を開けているのを見て、佳代は自分の言った言葉を思い返し……頬をリンゴのように真っ赤に染めた。
「あ……あなたねえ……」
その大胆な告白を耳にして、ミユは怒るのも馬鹿らしくなってしまった。
「あの……えっと…………はい……」
恥ずかしすぎていたたまれなくなった佳代は、また下を向いてモジモジした。
「…………その言葉、甘えるね」
気が付くと、さゆりは包み込むように小さな佳代を抱きしめていた。小さくて、でも大きな女の子。佳代はさゆりの胸の中で、どんどんと早くなる自分の鼓動を聞いていた。一分……それとも十分……頭の中で時間を数える余裕なんて、とてもなかった。
「…………ふう」
呼吸を整えて、ゆっくりと佳代の背中から手を離すと、さゆりは柔らかく微笑んだ。
「少し甘えたら、ちょっと元気出てきたみたい。……だから私、もうちょっとがんばってみようかな」
はにかむさゆりを、佳代が心配そうに見つめた。
「大丈夫だよ。だって、大丈夫じゃなくなったら……また、甘えさせてくれるんでしょ?」
「…………………………はい」
ゴウ、と大きな音がして、次の急行がやってきた。それに合わせて、ミユが待合室の扉を開いた。
「私、帰るわ」
「あっ、じゃあ私も……」
「……あのねえ。私はどー見ても邪魔者だから帰るの。さゆり姉ぇは、その子と『お見合い』の続きがあるでしょ。ほら、この駅おっきいから、駅前に美味しいお店たくさんあるでしょ。せっかくだから案内してあげなよ。じゃーね」
と言うだけ言って、ミユはとっとと電車に乗り込んで行ってしまった。代わりに、降りてきた客たちがどかどかと待合室になだれ込んできた。
「あの……とりあえず出ましょうか」
「うん」
佳代とさゆりが扉を開くと、吹き荒れる木枯らしが二人の体温を奪っていった。
「さむいっ!」
さゆりが右手をコートのポケットに突っ込んで言った。佳代のコートのポケットに。
「本当はね」
さゆりが、頬を少し赤らめて言った。それが寒さのせいかどうかは分からなかった。
「本当は直接手を握りたいんだけど……ほら、電車のドア。ずっと、こっち側が開けばいいのにって思ってたのに、無くなってみると、ちょっとまだ恥ずかしいんだ。……その代わり、ね」
ひと呼吸おいて。
「駅前に、あったかくて美味しい紅茶が飲めるケーキ屋さんがあって、一緒に行きたいんだ………………佳代ちゃんと」
佳代の返事は、もちろん決まっていた。
「はい………………さゆりさん」
左手をさゆりのコートのポケットにそっと入れながら、そう答えた。揃って歩き始めると、二人の鞄の上で、ライオンとうさぎが揺れて触れ合った。
改札の向こうには、きっと新しい世界が広がっている。
-おしまい-
六十秒の恋 権俵権助(ごんだわら ごんすけ) @GONDAWARA
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