六十秒の恋
権俵権助(ごんだわら ごんすけ)
佳代の巻
朝。電車の扉が開くと同時に乗り込んできたサラリーマンたちの大波に押されて、先に乗っていた谷本佳代は、あっという間に反対側のドア前まで追いやられてしまった。そのままグイグイと押し込まれ、頭に付けたトレードマークの青いリボンは、ドアのガラスに押し付けられて形を歪めた。
春。彼女にとって、中学最後の一年。その開始二日目にして、早くも気分はどん底だった。昨日、掲示板に張り出された新しいクラス分け。佳代と同じ組に並ぶ、名前の一文字すら見たくない者たちによって、彼女は次の一年も「標的」にされることが決まった。それは、毎日の満員電車など比較にならない程の苦痛だった。
「
学校の最寄りまでは六駅。アナウンスが駅名を告げる度に気持ちが落ち込んだ。まるで、処刑台への階段を一段ずつ昇っているように思えたからだ。ふと、ドアの向こうを流れていく景色の中に公園が見えた。すべり台とブランコだけの、小さな児童公園。
(ここで降りて、下校時間まであそこで時間を潰そうかな……)
無断欠席。きっと、学校から家に連絡がいくだろう。心配する父母の顔が頭に浮かんだ。佳代は、そのまま電車に揺られ続けた。
「
学校の二駅手前。田舎の路線にしては比較的大きな駅で、いつも普通電車と急行電車との連絡のために数分間停車する。開くドアは佳代が立っているのとは反対側。彼女にとっては、閉じた扉の向こうに見える逆向きのホームをただ見つめるだけの、虚無の時間だ。
(あと一年も、これが続くんだな……)
退屈な時間は、人に余計なことを考えさせる。電車が動き出すまでまだ一分もある。と、逆向きのホーム――隣接する線路にも電車が到着した。停車線に合わせてピタリと止まると、こちらと向こう、開かないドア同士が向かい合わせになった。
ドアの向こうのライオンと、目が合った。
隣あった電車の中からジイっとこちらを見つめる、フェルトで出来た小さなぬいぐるみ。ライオンとは言っても、服を着て二本足で立っている、つぶらな瞳の可愛らしい子だ。この辛い時間に不意に現れた癒やしに、佳代は思わず見惚れてしまった。そのことに気が付いたライオンが、彼女に向けて手を振った。
「えっ」
正確には、通学用の手提げ鞄にぶら下げたライオンの右手を指でつまんで、佳代に見えるように左右に振ってくれたのだ。顔を上げると、どこかの高校の制服を着たお姉さんが微笑んでいた。小さな赤いリボンを付けた、艶のある長くて綺麗な黒髪。スラリと高い背丈。なにより、優しい瞳。今度はそちらに見惚れてしまった。
ガタンと大きく揺れて、佳代の乗った電車が動き出す。それから十秒もしないうちに、ライオンもお姉さんも、流れる住宅街の景色に変わってしまった。
「
学校まで、あと一駅。束の間の癒やしは終わりを告げ、また佳代の心に重いものがのしかかってきた。
※ ※ ※
「
夕方。長い一日を終えて、今度は学校の最寄り駅から家へ向かう電車に乗り込む。佳代は空いている座席のひとつに腰掛けた。この時間はいつも乗客が少ない。図々しいおばさんに体をぶつけられることも、見下ろしてくるサラリーマンに舌打ちされることもなく、朝の満員電車よりもずっと快適なはずだった。しかし、佳代の心はさらに深くまで沈んでいた。中学はたった三年間だから、卒業するまで一度も話さないで終わる生徒もたくさんいる。だからこそ、年に一度のクラス替えは心機一転、新しい環境を作るチャンスだった。だが、それは運悪く今年も同じクラスになってしまった者たちによって阻止されてしまった。「アイツは性格が暗いから」「アイツには悪口を言っても大丈夫だから」……彼女らに去年貼られたレッテルは、たった一日で新しいクラスにも広まってしまった。一度ついた印象は、そう簡単には拭えない。明日はもっとしんどいのかな……。そう思うと、自然と顔が下を向く。下を向くと、堪えていたものが重力に負けてこぼれそうになる。
「天間崎〜 天間崎〜」
佳代が顔を上げたのは、今朝その駅で、今日たったひとつのいいことがあったからだ。もちろん、今そこにライオンはいない。けれど、もしかしたら明日また会えるかもしれない……そう思うと、ほんの少しだけ前を向くことができた。
※ ※ ※
翌朝、佳代は自発的にドアの前を陣取った。
「人世町〜 人世町〜」
次の駅だ、と思うと胸が高鳴った。でも、今日も会える保証なんてどこにもないから、できるだけガッカリしないようにと、深呼吸をして鼓動と期待を抑えるように努めた。
「天間崎〜 天間崎〜」
ドキドキしながら待つ数分間。向かいのホームに電車がゆっくりと入ってくる。プロの運転士が、昨日と変わらぬ停車位置にピタリと止める。
「あっ……」
思わず声が漏れた。ドアの向こう、鞄に揺れる小さなライオンがいた。顔を上げると、お姉さんも少し驚いた顔をしていて。
「あっ……えっ……えっと……」
こんな時に愛想笑いの一つでもできたら、きっと彼女の学校生活も違っていたのだろう。いつも自分より人の気持ちばかりを考えてしまうから、些細なことで「嫌われるかも」とビクビクして、壁が生まれて、余計に相手に嫌われる。ずっとそれを繰り返してきたし、今もまたやってしまった。ああ、そうだ。またやってしまったのだ。
……けれど、ドアの向こうの彼女は今日も笑顔でライオンの手を振ってくれた。だから、佳代は今度こそ自然に笑い返すことができたのだ。
六十秒が経ち、またいつもと同じ退屈な景色が流れ出す。けれど、今日は昨日よりも、少しだけ前を向いて過ごせる気がした。
※ ※ ※
次の日、誰も取りはしないドア前のスペースを我先にと確保した佳代の表情は、昨日よりもずっと明るかった。実際、昨夜は母に「何かいいことでもあった?」と聞かれたぐらいだ。佳代の家族は、どんな時でも佳代に優しかった。いつも佳代のことを見てくれる。だからこそ、小さな変化にも気付いてくれる。彼女が辛くても学校に通えるのは、そんな家族のおかげだった。
「天間崎〜 天間崎〜」
ふたつのドアが重なる前から、彼女は小さく手を振ってくれていた。それだけでも嬉しかったのに、今日はさらにサプライズがあった。
「えっ……!」
鞄に揺れるライオン。そのふさふさのたてがみに青いリボンが付いていた。佳代が驚いて顔を上げると、お姉さんはニコリと優しく微笑んで、佳代の頭のリボンを小さく指差した。おそろいだね、と口が動いたように見えた。佳代はあまりに嬉しくて、思わず深くお辞儀をしようとして、突き出したお尻を後ろに立っている人にぶつけてしまった。ごめんなさいと謝っているうちに、ドアの外の景色はすっかり変わってしまっていた。明日、ちゃんとお礼を言おう。明日……また会えたらいいな……そう思うと、胸の鼓動が早くなった。
(私も……私も何か、あの人に喜んでもらえること、できないかな)
※ ※ ※
それから一週間。学校生活は相変わらずだったが、佳代の心の景色は見違えるように明るくなっていた。
(来た……!)
また、ドアとドアが重なる。ふたりに許された六十秒の逢瀬。今までは、学校が佳代の世界のすべてだった。けれど、今の彼女はこの六十秒のために生きている。いつもは奥手の佳代が、今日は自分から微笑みかけた。そして鞄の中から、この一週間の成果を取り出して見せた。
(…………!)
二枚の厚いドアに遮られて、声も鼓動も聴こえない。けれど、お姉さんの驚きはその表情だけで十分に伝わってきた。赤いリボンを頭に付けた、小さなうさぎのぬいぐるみ。少し不格好だけれど愛らしいその子は、差し出した佳代の指にたくさん巻かれた絆創膏の成果だった。母に手芸を教わって、不器用ながら毎日コツコツと糸を紡いだ。佳代がうさぎの手を振ると、お姉さんもライオンの手を振り返してくれた。本当に嬉しそうな笑顔だった。
ガタンと揺れて、景色が流れ始めた。お互い、別れを惜しむ気持ちが体と視線を進行方向に逆らって動かす。けれど、見えなくなるまでの時間はいつも変わらない。たまには、ちょっとくらい遅れてくれてもいいのに。そうしたら、そうしたらもっと。
(……ああ、そうだったんだ)
やっと気が付いた。自覚した。思えば、遅すぎたくらいだ。佳代がいつも見えなくなるまで目で追いかけていたのは、もう、ずっと前からライオンではなく、彼女の方だったのだ。
※ ※ ※
それから。
夏が来て。
半袖。初めて見る夏服姿にドキドキして。
たまに姿が見えないと、病気かな、と心配になって。
秋が来て。
肩に乗せた銀杏の葉に気が付いた時の、真っ赤な顔が可愛くて。
自分と同じだけ伸びた髪に、過ごした時間を感じて。
そして、冬が来て。
マフラーの隙間から白い吐息が見えた頃、佳代はドア越しにそれを見せた。彼女が通う高校の願書。彼女の制服と、その襟元に着けたスクールリボン……ネイビーはニ年生のカラーだと調べて、一年間だけでも一緒に通えると分かったから。先生に希望校を伝えた時、佳代の偏差値では難しいと反対された。それから何にも目をくれず勉強に励んだ。半年もすると、もう誰もそれを口にしなくなっていた。
春になったら、そっちへ行きます。
佳代の精一杯の告白に……なぜか彼女は寂しそうに笑った。次の朝、ドアの向こうにその姿はなかった。次の朝も。また次の朝も。
何も言わず、彼女は消えてしまった。
そして。
※ ※ ※
「
寒風の厳しいニ月の朝、通い慣れた自宅の最寄り駅。いつもと違うのは、佳代が逆向きのホームに立っていることだ。受験会場となる志望校は、すぐ隣の駅前にあった。到着した電車に乗り込むと、佳代はあのドアの前に立った。
(……ここにいたんだ)
いつも見ていた「向こうのドア」に、そっと手を触れる。腕に下げた鞄と一緒に、赤いリボンのうさぎが揺れた。
「ねえ、あなたでしょ?」
声をかけられて振り向き、佳代は驚いた。彼女が……いや、あまりにも彼女とそっくりな人物が立っていたからだ。ひと目で別人だと分かったのは、制服が違っていたり、髪型がショートカットだったりということもあったが、何より背丈が佳代より低かったからだ。
「赤いリボンのうさぎ。いつもさゆり姉ぇが言ってた子。あなたのことでしょ?」
さゆり……あのお姉さんの名前。佳代が頷くと、どうやら彼女の妹らしきその子は少し強い口調で言った。
「……絶対合格してよね。あなたには、さゆり姉ぇの居場所を奪った責任をとってもらわないといけないんだから」
佳代には一体なんのことだか分からなかったが、それを問う暇もなく。
「
ドアが開くと、その子はひとことだけ言い残して先に降りていった。
「……試験が終わったら、この駅で待ってる」
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