第四十二綴 後ろのしょうめん だあれ
時は遡る。
アヤカと夜弥の後ろ姿を見送り、振りかえったキサラギは鋭い眼差しでトリイを睨みつけた。
「邪魔をしないでくださいね――?」
僅かな沈黙があった。
トリイはおびえるような素振りをみせ、だがキサラギの視線に確信が滲んでいるのをみて、すぐにその芝居を辞めた。
「なんのこと……って、とぼけても無駄なんでしょ?」
トリイがにたりと唇の端をもちあげ、禍々しいまでの殺気を放った。確信はしていたが、まさかここまでトリイが変貌するとは予想だにしていなかったのか、キサラギがぎゅっと瞳を細めた。
「ねえ、いつからなの? 私、もしかして失敗しちゃってた?」
「貴方も、モカが好きなんですよね? 貴方と……誰ですか?」
アヤカは喫茶店ではいつもエスプレッソばかりを注文する。モカも好きだったとは、キサラギも前に商店街ではじめて聞いた話だった。
「……そっか。確かにそれ、私は聞いてなかったかも。失敗だったな……」
「細々と、そうしたことつみ重なっていたんですよ。まあ、もとはといえば、先輩が僕を疑っているようすだったので。ですが僕には心あたりがない、ということはおそらく、君だと――――君の狙いは……姫ちゃん、ですよね」
「そこまでわかってたんだ」
故にキサラギはアヤカに気づかれないよう、ひそかに対処し続けていた。
トリイが夜弥に触れないよう、歩くときはあいだに割りこみ、レストランでトリイが握手をもとめた際には彼女の手の上に手を重ねた。
アヤカは夜弥を大事にしていた。
「先輩の大事なものならば、僕にも護る義務がありますから」
「ふうん、ほんとに鬼童君が好きなんだね。リアルBLなんて、こーふんしちゃ、うッ!」
そでぐちからてのひらへとすべり落ちた一枚の紙を構え、トリイはキサラギへと投げ放つ。キサラギは素早く姿勢をさげてそれを避け、距離を取った。防御ではなく追撃へと転じれば、仕留められたかもしれないが、深追いは禁物だ。
「君が欲しいのは先輩の所在ですよね。そしてそれは僕のなかにある……。吐くつもりはありませんが、僕と先輩の話を知っていたことからして、君は人の記憶をのぞけるんでしょう? それがボディタッチの理由ですか?」
「はぁ……。そこまでバレてるなら、もう、力づくしかないよね」
うちあわせたてのひらから、禍々しい符が現れる。
種も仕掛けもないこの術には手品師も真っ青だろう。符が触れた場所だけコンクリートが溶けているとなれば、手品師だけではなく誰もが戦慄だ。
ずっと疑ってはいたものの、それでもトリイは間違いなく友達だった。
だからこそ。
「僕がここで倒します」
トリイを敵と認識しなおし、拳を構えようとして……キサラギはできなかった。
「な……っ」
良心の呵責などではない。単純に身体が、動かない。
金縛りというものだろうか。背筋を凍らせるような気配を感じ、唯一動く首をまわす。背後にたたずむ男は見慣れぬ和服に身をつつみ、両の指を絡ませ、異様なかたちに組んでいた。
いつの間に、後ろを取られたのかすらわからない。
「遅かったから、見にきてしもたわ」
「
謝りつつも、トリイはこの隙を見逃さない。
異様なふんいきを漂わせた若い男が首を横に振るのが、最後にみえた。それも、迫ってくる指の間から垣間見えただけである。次の瞬間には、トリイの手に覆われ、視界は闇に閉ざされた。
「友達になってくれて、ありがとう」
聴こえた言葉は、それだけ。
真心のこもった礼でさえ、こうなった後は苦痛にしかならない。
抵抗出来ないままで水底に沈んでゆく意識のなか、キサラギが想いを巡らせていたのはやはりアヤカのことであった。それが彼の行動原理、しいては生きる理由なのだから。
(すみません、アヤカ先輩……。先輩は優しいから、委員長が敵だったと知ったらかわいそうなくらいに傷つくんでしょうね。だから、僕は先輩の知らないところで決着をつけたかったのに……力不足で……結局は貴方に嫌な役割を背負わせてしまう)
ほんとうにすみません……と囁く謝罪は、誰にも届かないまま、闇に落ちた。
―――――――― ・ ――――――――
アヤカは愕然としていた。
まさか、トリイが敵だったなんて。
誰を疑っても彼女のことだけは疑いもしなかったのだ。
彼女は日常の側にいてくれると、根拠もなくおもっていた。だって、彼女は、あかるかったから。影をのぞかせたことはなかった。
それなのに、いま、彼女は非日常にたたずんでいる。
穏やかな日常からはかけ離れた、仏と鬼の戦いの渦中。
アヤカの胸を焼くのは憎しみや怒りではなく、悲しみばかりだった。しかしながら、どれだけこころが揺らいでも、倒れるわけにはいかなかった。ぐっと唇を噛み、仮死状態だった口角をたたき起こす。
いつの間にか霧は晴れている。
行かなくてはならない。夜弥のところへ。
だが、その前に聞いておきたい事が一つだけあった。
「……お前、なんで陰陽師がいいんだよ」
さきほど尋ねられたことをそのままかえす。
トリイはふっと自嘲するような笑顔を浮かべた。屈辱に歪んでいて綺麗とはいえなかったが、力強い笑みだった。
「救ってもらったのよ」
明瞭な答えだが、それが人間にとっては何にも勝るものなのかもしれない。
誰も救えない神さまは、用無しなのだ。それは決して責められることではない。誰だって、救われたい。
かつて倭で生きていたひとびともそうして、物の怪を排他したのだろうか。
だとすれば、時が、人間を変えることはない。
わかったと、細い首筋を刀の峰で強打する。
声もなく、トリイが固い舞台に崩れ落ちた。死臭漂う舞台は安楽のベッドとはならないだろう。瞳を閉じたトリイはなにかを懺悔するような表情をしている。
「俺は、夜弥のところに行く」
手に残る熱は不快感を増長させ、心は裂けかけているけれど。
ものけの姫が、泣いている。
アヤカよりもずっと傷つきながら、鬼の姫子が泣いているのだ。
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