第四十綴  幕をあげた最終決戦

 来た道を引きかえして、アヤカと夜弥はふたたび、浄瑞寺きよみずじ本堂の舞台へとあがった。

 浄瑞寺本堂は急斜面に建てられている。崖にせりだした舞台をささえるため、無数の柱が組まれているが、そのどこにも釘はもちいられていない。こうした構造は懸造かかりづくりと呼ばれ、まさしく先人の技術力を駆使して建築された、日本が誇る遺産である。ここも表と然したる違いはみられない。特記すべき個所としては観光客が途絶え、陰域を徘徊する幽霊の姿すらないことだろうか。


「この本堂から物の怪の気配がするが……」


 そういって、夜弥が屋根を仰ぎみる。アヤカは舞台の下を覗きみようと舞台の縁に近づき、鼻を突く異臭に二の足を踏んだ。なにより不快だったのは、その匂いに覚えがあったことだ。

 舞台から身を乗りだすと、予想どおり舞台の下には大量の腐乱死体が折り重なっていた。人肉が焼ける異臭と溶ける腐臭は肺に吸いこんだ瞬間に嘔吐えづく感覚が酷似している。


「つーか、んなこと知識に入れたくなかったんですけどね?」


 かつて、浄瑞寺本堂下には疫病で死んだ人間が投げこまれた、と聞いたことがある。表では後に埋葬されたのかもしれないが、裏では怨念がいき場なく溜まっているのだろう。直視に堪えきれず、夜弥のほうをみると、夜弥は目をあわせるなり軽く頷いた。


「物の怪たちが封じられているのはこの上じゃ、間違いない……」

「正解や」


 小袖をひるがえし、夜弥が声のしたほうを睨む。

 瞬きするまで無人だったはずの、広い舞台の中央でひとりの男が嗤っていた。


 刹那、アヤカの時計が狂った。

 時針が巻き戻り、加速する時計の動きに脳が追いつかず、ズキリと鈍い痛みをひき起こす。うずくまったり表情を変えることすらできない衝撃のなか、アヤカはただ、男が纏っている衣裳をみていた。


 セピア色の炎に煽られる鮮烈な紫紺むらさき、眼前で風になびく狩衣装束――。

 褪せることも許されない記憶が重なってゆく。

 喉がひき裂けんばかりに絶叫しなかったのは、それよりさきに誰かが怒号をあげていたからだ。


「陰陽師ぃいいぃッ!」

 

 夜弥だった。

 これまで胸に封じてきた万年分の激情が一瞬にして関をきり、逆流する。


「忘れはせぬぞッ! 貴様の一族が物の怪を……父様と母様を闇に屠ったッ! 母様の悲哀、父様の口惜しさ、よもや知らぬとは申させぬぞ!」


 烈火の如き激しさで滾る感情は黒く渦を巻き、魂まで焼きつくす。眉を逆だて、朱を差し、喉を猛らせる羅刹の面相はそれでもなお醜いとは言いがたく……ただ、哀しかった。


 激高する夜弥を前にして、陰陽師は顔色ひとつ変えない。むしろ笑みを深めた。

 にまにまと歓喜に酔いしれながら、陰陽師は自身の隣に寄り添う人物に合図を送る。隣――陰陽師しか目に入っていなかったが、陰陽師の傍らには狐の面を被った符術師がつかえていた。

 彼女、あるいは彼は陰陽師に応えるふうに、忍び笑いを洩らした。


「そないな昔のこと忘れてしもたわ……ってぼくが言うたら、君、どないする?」


 彼は知っているのだろう、覚えているのだろう。その上での問い掛けならば、それは夜弥の父と母の死を軽くみているという証明に他ならない。冒涜であり、これいじょうない侮辱だ。


「貴様……ッ」


 夜弥は怒りに震えている。噛み締めた牙が唇に突き刺さり、真っ赤な血潮が滲んだ。紅に混じり、ぬらぬらと艶めくのは彼女の魂の色だろうか。

 しかし酸素に触れた赤は、やがて黒く変色してしまう。

 顎に滴るときには、怒りの朱色は憎しみの暗赤色へと移ろっていた。


「ならば、身をもって思いださせてやろうッ」


 血を吐くように天へと猛り、夜弥が床を蹴りつける。

 いつの間にか構えていた鉄扇が、陰陽師にたいする明確な殺意を表していた。

 夜弥がいってしまう――夜弥を、過去にいかせてはならない。復讐のために戦わせては、いけない。


「駄目だ、夜弥ッ――……」


 自力で我にかえり、アヤカが叫んだ。

 精一杯伸ばした腕は夜弥の小袖に触れ、握る前にすり抜ける。夜弥も気づいていたであろうに、振りかえろうともしなかった。


 虚しくくうを掻いた手指のむこうで、夜弥の姿が掻き消える。

 夜弥だけではない、陰陽師もまた、舞台上から忽然と消滅した。いつの間にか舞台を取りかこんでいた濃霧が視界を遮り、孤絶した空間に投げだされた錯覚を起こす。否、錯覚ではない。憎しみがアヤカと夜弥を分断し、それぞれの堂々巡りに引きずり込んだのだ。

 

 カランと下駄の音が響いた。

 

 刀の柄を握り締め、アヤカはゆっくりと振りかえる。

 白い狐の面が立ちこめる霧のなかに浮かんでいた。

 深緑の縁取りがはいった白無地の着物からさげられた、無数の呪符がなんとも不気味だ。女とも男とも特定できない立ち姿は、アヤカのよく知る誰かを想像させる。頭に浮かんだ人物の名前まで分かっていながら、敢えて口に出さないのは確かに迷いなのかもしれなかった。


「お前……、誰だよ」

「分かりませんか、?」


 狐の面は淡白な男の声色で、アヤカへと問いかえした。

 声質にはやはり聞き覚えがあって、呼称には親しみがあって、その分だけ喉元を締めあげられる。だからこそ、アヤカは唇をゆがめ、胸につかえた悪感情ごと吐きだした。


「はっ、……信じたかったんだけどな」


 カランカランと耳障りな音を立てて、投げ棄てられた狐の顔が舞台上を転げまわる。金色の髪を掻きあげ、こちらを見すえた色素の薄い瞳は凶暴な光を宿していた。


「ラギ……!」

「先輩のそう言うところ、僕は大好きですよ」

 

 うっとりと愛を伝えられてもなにひとつ嬉しくない。

 どうして、いつから、なんで。どんな言葉もこうなっては無意味だ。

 

 夜弥から預かった刀を握りなおし、鞘から抜き放つ。

 なにかを断ちきるようにして、アヤカはキサラギへとまっすぐに刃を向ける。


「で、退いてくれ、っていっても無駄なんだよな」

「そうですね。僕が退いたところで、ここから出られるとは思えませんけれど」


「親友だったよしみで案内……とかも、してくれねーよな」

清狂せいきょうさまのところにはいかせません」


 キサラギが両手を打ちあわせ、拡げると、てのひらとてのひらのあいまから呪符が現れた。それもひとつやふたつではない、彼が手を拡げるほどに呪符の枚数は増え、肩のあたりまで開いたところでとまる。

 計九枚の呪符には、一様に禍々しい記号と漢字が書かれていた。


「それでも、俺は夜弥のところにいく。お前を倒してでもな」


 刀を構えると、夜弥の言葉が腑に落ちる。

 重さといい、柄のふとさといい、手に吸いつくようだ。昔からずっと、この刀を携えていたようにしっくりとくる。


「やれるものならやってみてください。いっておきますが、屋上で戦ったときはそうとう手を抜いていましたからね? 調子に乗っていると一秒ももちませんよ」


 キサラギの下駄が地面を叩いたのがみえた、次の瞬間。


「――ッ」


 眼前にせまっていた。


「人体構造上、この速度はありえねーって!」


 すぐに脳から指令を発する。危機感が薄いというのは火事場の馬鹿力とか、反射神経とかいう単語が適応されないということになる。緩慢な速度で回路を奔る号令が腕にとどいたのは奇跡といえよう。

 斬る。

 だが手ごたえは柔らかく、風切り音いがいに鼓膜を震わせるものもない。すぱりとななめに切り裂かれた呪符のあいまで切れ長の瞳が揺れる。


「何故、鬼の味方をするんですか? 鬼が、物の怪が、アヤカ先輩になにかしてくれたんですか?」

「は、助けてもらった、救ってもらった。そういうご利益があるからつきあっているわけじゃねんだよ」


 お参りじゃあるまいに。

 というのはいまは、しゃれにもならない。


「リスクばかり抱えながら、よく鬼なんかに従えますね」

「従ってる? 馬鹿いうなよ、夜弥は俺にとって……」

 ここでぷつんと言葉が途切れる。友ではない、恋人でもない、血縁もない。主従でもないのなら、アヤカと夜弥の関係は……いったい。


「呼びとめた手すら振り払われる……、そんなものが先輩と夜弥ちゃんの関係ですか?」

「……お前には関係ねーだろ」


「光と闇が決してまじわれないように、鬼と人間が心を通わせられるはずがないんですよ」


 すっと、視界からキサラギの姿が消えた。

 しゃがんだのだ。アヤカはすかさず、蹴りあげる。つまさきがなにかにかすり、人影が後ろに跳びすさる。そのまま踏みこみ、刀を振るえば、傷を負わせることができた、はずだ。


「ラギ……ッ」


 それなのに、アヤカは躊躇した。

 僅かな隙だ。だがこの局面においては致命的だった。


「……先輩は甘いですね」


 逆にキサラギがぐっとおおきく踏みこんだ。

 咄嗟に横に薙ごうとした刀はいつの間にか、符によって押さえられていた。籠目模様の呪符が、アヤカの腹に打ちこまれる。


「がはッ」


 肉がねじれ、内臓はひずむ。

 痛みを麻痺させるほどの灼熱感と嘔吐感がアヤカを襲った。しかしながら胃の内容物を吐きだすことさえ許されなかった。うずくまるふうに折れ曲がった身体は後方からの追撃により、今度は弓形にしなる。


「僕と一緒にきませんか? そうしたら、彼方あなただって幸せに……」


 自分の顔は自分では分からない。それでもキサラギの目もとがゆがんだのをみて、反抗的な目をしていたのだろうと想像することくらいはできた。


「……さようなら、先輩」


 鼓膜を突き破る爆発音とともに、血しぶきの華が開花した。

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