終ノ草紙 鬼と仏とひとの決戦の刻

第三十八綴 持つべきものは友

「ほぁ……!」


 キャリーバックから身を起こした夜弥は鯉のように口を開いて、空気を肺に取りこんだ。夜弥にとっては実に七時間ぶりのまともな呼吸なのだが、傍からみているとなんとも笑えた。 アヤカが噴きだすと、夜弥はじとっと睨みつけてきた。


ワリィ悪ィ、大丈夫か? なんか、飲むか?」

「水でよい。臭いがひどくて、いまはなにも味わえる気がせぬ」

「におい……ねぇ」


 ここは京都駅のコインロッカーだ。

 バスが駅に着くなり、キャリーバックを担いで走ってきた。丁度なかは無人だったが、駅内部には人が溢れていた。しかしながら人為的に配置されているものとはいえ自然も多く、東京の歓楽街と比べれば空気が悪いとは思えない。


「そうではない。煙の臭いじゃ。寺などでよう線香が焚かれておるじゃろう? 街全体を煙で覆って、物の怪の鼻を利かぬようにしておるのじゃ」

「お前に不都合はないのか?」

「案ずることはない。くさうてかなわんが、わらわは煙くらいで惑わされたりせん」


 とはいえ、悪臭で体調を崩す人間もいる。小参次ならば、かんたんに方向感覚を失いそうだ。


 取りあえず自動販売機でミネラルウォーターを購入し、夜弥に手渡す。夜弥はまずは唇をしめらせ、水の味を確認してから喉に流しこむ。

 ごくりごくりと細く白い喉が跳ねるのを眺めているのも悪くはなかったが、はやくロッカーにキャリーバックをかたづけてしまわなくてはならない。


「金をはらって空のバックを預かってもらうって、なんかすげぇもったいない気がするけど、持って歩くわけにもいかねーしなぁ、って……?」


 コインロッカーの出入り口に立ちつくしたふたつの人影に気づいたアヤカは硬直しかけ、嘆息とともに脱力する。髪に手をやり、苦笑いをこぼした。


「いいかげん、バレるとおもってたよ」


 キサラギとトリイもこうなっていることを予測していたらしい。その顔に驚きは浮かばなかった。トリイのほうが一瞬、委員長として叱ろうとして、失敗する。


「やっぱり、夜弥ちゃんを連れてきてたのね」


 結局、あきれながら口にしたのは、そんなわかりきった台詞だった。


「悪い。でも、うちのマンション、場所が場所だけに置いていけなかったんだよ」

「それでも、やって良いことと悪いことがあるわよ……」


 呆れているのか、怒っているのか、どちらとも言えない表情でトリイは夜弥に歩み寄る。その場でしゃがみ込み、子供にするふうに夜弥の頭を優しくなでようとした。


「苦しかったでしょ。熱中症とか大丈夫?」

「問題ない」


 それだけいって、夜弥は控えめにトリイの手を振り払う。

 角が見つかることを恐れたのだろうとアヤカにはすぐ分かったが、トリイは少々狼狽する。しかし根が明るいので、それを気にもつことはなく、今度はアヤカに視線をむけた。


「フィギアでも違反なのに、人間をいれてきたなんて犯罪レベルの行動よ。分かってる?」

「……教師に言いつけるか?」


「ほんとうはそうしなくちゃいけないけど……友達のよしみと妹を溺愛する兄キャラが実在するって証明してくれたことでチャラにするわ。でも帰りはチャックをちょっと開けとくとか、工夫するのよ?」


 相も変わらずお人好しのトリイは、そういって快活に笑う。

 隠すことは共犯になることだ。バレれば彼女は間違いなく、委員長としての信頼を失う。すでにそれだけのリスクを負ってくれているのだ。

 これいじょう頼みごとをするのは気がひけたが、今回は二人の協力なしではどうにもならない。


「なあ、修学旅行は三人一組……俺と委員長とラギでまわることになってるんだよな?」

「そうだけど……」


「あともうひとつ。頼んでいいか?」


 真摯な眼差しに、後ろめたさが混じる。


「俺は夜弥を連れていってやりたいとこがあるんだ。個人的な場所だから修学旅行からは離脱するんだけど、俺もふたりと一緒にまわったってことにしておいてくれねーか」


 ふたりを巻きこみたくない。だからアヤカは、今度も真実をなにひとつ告げないまま、トリイに甘え、キサラギに頼るのだ。 身勝手すぎるとはおもうのだけれど。

 時代錯誤の初陣に赴くアヤカにとっては、やはりそれが、最善なのだった。


「先輩の頼みでしたら、喜んで」

「そのかわり、夜弥ちゃんを楽しませてあげてね。東京に戻ったら、また四人で喫茶店にいきましょ。わたしもモカ、大好きだし」


 返事は一拍の間もおかないものだった。

 勝手な頼みに憤るのではなく、三人、あるいは四人でまわれないことを残念そうにしている。打算的に聞こえそうで口にはださないが、アヤカはこの瞬間、ふたりが友達でよかったと痛感した。

 その時だ。ポケットにはいっていた、トリイの携帯が小さく鳴った。


「メール……? あ、先生からだわ。わたし、委員長の仕事があるから、至急戻るわね。鬼童君、彼方あなたもいったん、入り口に戻ってきなさいよ」


 そう言い残し、トリイがコインロッカーを出ていく。走っていく後ろ姿は内股で女の子らしい。ぴらぴらと揺れる制服のスカートの裾が視界からなくなると、今度は夜弥が歩きだした。


「わらわは先にいくぞ。仏魔に見つからぬように身を潜めつつ、うぬがわかる場所で待機しておくからのう」


「ああ、俺もすぐいく」


 具現化している夜弥をひとりにするのは心配だが、東京の歓楽街を疾駆したこともあるのだ。外見どおり、子供扱いする必要はないだろう。 アヤカも早く集合場所へいかなくてはならない。

 しかし、キサラギの目を見れば、アヤカの言葉を待っているのがわかった。


「ラギ……」

「……分かっています。ここでまた、勝負をしても負けるだけでしょうね」

「勝ち負け以前に勘弁してくれって……」


 体力は温存したい。無駄に浪費するのは精神力だけでじゅうぶんだ。


「なら僕にいえるのは、無事に帰ってきてくださいということだけです。帰りのバスには遅れないようにしてくださいね?」


 どうしてだろうか。キサラギはいまにも泣きだしそうにみえる。照明の加減かもしれないし、それだけではない気もした。だから気が迷ったのだ。

 気づいたときには、アヤカはひとつの手掛かりをこぼしていた。


浄瑞寺きよみずじ


 キサラギは眼を見開き、その言葉を噛み締めるふうに復唱する。あるいは、その寺名がなんであるかを理解するための行動だったのかもしれない。

 おもわず洩らしてしまった目的地だが、友情の礼としてはつりあうはずだ。


「んじゃ、いくとするか」


 ひとつの、決着をつけなければならない。

 陰陽いんよう入りまじった、あらゆる呪いの清算だ。


 集合後、それぞれ組分けされた学生が、京都の街にひろがってゆく。

 たった一組だけふたりしかいなくなったキサラギとトリイは、喧騒に呑まれていったあかい髪とあかい小袖を見送り、やがて姿が見えなくなると嘆息した。


「鬼童君、どこにいくのかしら。訊くの忘れちゃった」


 せっかくの修学旅行で仲間とまわれないことが残念でしかたがないと、トリイは失意と疎外感を口調に垣間見せる。アヤカがいる間は押し殺していたのだろう。彼女らしい気遣いである。


「ねえ、如月君は知らな……」


 何気なく、キサラギを見たトリイは一瞬にして凍りついた。

 キサラギはトリイと目を合わせることすらせず、遥か遠くを眺めている。アヤカが去っていったのとは別の方向だが、虚空を凝視する眼差しには見覚えがあった。


「さあ、どうでしょうか……それより、委員長」


 振りかえったのはいつか歓楽街でみたのとおなじ、絶対零度の睚眥がいさいだった。


「邪魔をしないで下さいね――――?」

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