第三十七綴 囁く京の闇
午前五時――。
屋敷がいまだに微睡みのただなかにある時刻、音もなく廊下を過ぎゆく影があった。狩衣装束に身をつつみ、烏帽子をかぶった時代錯誤の青年は呼吸をするようにみずからの気配を調節し、誰にも不審に思われない程度の気を纏う。完全に消さないからこそ誰の眠りも妨げない。
左右に配置された障子に映る影だけが、彼の存在を現世に繋いでいるようだった。
黒びかりする板張りの廊下は歩くぶんには差しつかえないが、日中と比較すれば当然薄暗い。朝日は昇りはじめていたが、まだ窓から差す朝日より等間隔に並べられた行灯の灯が勝っていた。
――京都御所。
表向きは言うまでもなく旧皇居であり、許可さえ取れば誰もが観覧できる。しかしながら、至るところに結界術を施し、無人に見せているだけで、実際には現在の陰陽寮となっている。
やがて彼はまわり廊下にでたが、観光に適した表の御所とは違い、庭にいろどりはない。
夜弥が世籠っていた穏ノ宮とは対照的に殺風景な光景が広がるのみである。
「……
明け時の静寂を打ち破ったのは、声でも文でもない無音の伝令だった。言語を介せず招集の意のみを伝えるそれは虫の知らせに近い。しかしながらきわめて優れた術者にしか受信できないため、内密での招集の場合はこの無音術を使う。
彼の自室である
紫神殿――。かつては公事を行うための建物として建てられたが、現在は陰陽寮当主
前庭を経由して、正面に位置する
「
「うむ。入れ」
冷夏とはいえ、紫神殿に漂う空気の冷たさは尋常ではない。身を切る威圧感と綯いまぜになった冷気が骨に染み入り、魂まで萎縮する錯覚を引き起こす。
清狂はどちらも感じていないのか、うっすらと微笑さえ湛え、清定の真正面に敷かれた畳の上で正座する。実の息子の前でさえ
「先刻、
「そないな
喰えない笑みを顔面に張りつかせる清狂にたいし、清定が苦虫を潰したような表情になるのが息遣いで分かった。天才とはいつの世も扱いづらいものであり、しかしこの時勢、真に求めるものでもあった。
「ならば、答えよ。何故
清定が語っている間に、清狂の双眸が鋭さを増した。
研ぎ澄まされた殺意の刃が鞘から放たれる。これだけの殺気をまといながら、唇から消えない
これは密会ではあるが、完全に人払いしてあるわけではない。気配を消して息を潜めているが、御殿の隅には幾人もの陰陽師が控えている。
彼らが殺気に反応しなかったのは、これは清定にむけられたものでないと判断したからだ。
「夜弥姫の
にこりと目を細めるそれだけで、鬼を呪い殺せてしまいそうだった。
いまだ波があるものの、おのれの息子が持つ呪力の強大さに清定が息を呑む。素直に膝を叩くことができないのは、彼の危うさもまた知り得ているためだ。 しかし力の値だけで言えば、当主たる自分を抜くのも時間の問題だろうと清定は覚っていた。
「千年前激戦の果てにわが手中に収めた都を奪われるわけにはいかぬ。幾体程の仏が必要だ? 主要な仏閣には既に配置しておるが、どこから忍び寄るか分からぬからには……」
「お心遣いおおきに、でも仏はいりまへん」
清狂から危うさを感じるのはこういう時だ。思えば、実地試験の際もそうであった。
物の怪の真実に近づいた愚者を秘密裏に処理する――。
それが試験内容であったが、清狂は派手に無理心中事件を演出したうえ、生き残った子供を野放しにしたのだ。
おそらくは彼にとって、物事は面白いか、面白くないかに二分されるのだ。
「戯れではないのだぞ」
「分かっとりますて。ぼくかて、ちゃあんと考えてます。夜弥姫が侵略する場所はぼくの側近が調べとるやろし、間もなく通達が入るはずですわ」
早くも席を立ち、座敷を後にしようとしていた清狂は、出入口の古い柱に片手をついたままで振りかえった。つめのさきで柱を撫ぜる。ひっかくのではなく、傷がつかない程度に痛みを与えるような仕草からは、獲物を甚振る肉食獣の残虐性が見えた気がした。
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