第三十五綴 戦の前の静けさ
変色したマンションの扉を開けると、暖色の明かりが隙間から溢れた。
光の暖かさにいまだ慣れない自分がいる。以前までは暗闇の部屋へと帰宅して自分で電気をつけるのが当然だった。待っている人はおらず、夏は熱気が冬は冷気が玄関で出迎えた。
「にしても、今日はえらく静かだな……」
静寂に張りつめた空気はやけに冷たい。
夜弥がきてからというもの、部屋がこれほど静かなのははじめてのことだ。出迎えがないのは、仕方がないだろう。今朝夜弥とアヤカが交わした口論を思えば、期待するほうがおかしいくらいだ。
しかし。
「……いない……ってことはないよな」
今朝夜弥は「京都に発つ」と言っていた。一度は金銭に関してアヤカを頼ったものの、学校の門を職員に開けさせたように、夜弥は物の怪としての妖力で人を操ることもできるようだ。それがどれくらいの時間有効で、どれくらいの確率で成功する術なのか、詳細は不明だが、夜弥ひとりで京都へいくことも可能なのかもしれない。
寒いくらいの気温だというのに、嫌な汗がこめかみを伝った。
「夜弥……」
アヤカには夜弥の気配がわからない。靴を脱ぎ捨て、リビングへとむかったアヤカは、リビングの電気が消えていることに困惑した。電気のスイッチに手を伸ばした瞬間、声が掛かる。
「明かりはつけるな」
闇に目が慣れたこともあり、声を頼りにベランダへと視線をむけると、漆黒に朱色の椿が浮びあがった。すぐに夜弥の姿が視認できるようになる。
ほっと胸をなでおろす半面、夜弥の制止に疑問を抱く。
「なにやってんだよ」
電気はつけないままで歩み寄り、手もとを覗きこむ。
夜弥はベランダとリビングのあいだに腰を降ろし、水の張られた洗面器を見つめている。水面には扇型の月が写りこみ、プラスチック製の洗面器であることを差しひいても、ひどく神秘的だった。
だがただの月見というわけでもないだろう。
夜弥は視線を固定して、アヤカの顔を見あげることすらせず、棘のある口調で言い捨てる。
「見て分からぬのか」
「分からねーから訊いてんだよ」
ついつい、喧嘩腰になってしまう。
その所為か、今度は夜弥も返事を放棄し、おもむろに小袖から何かを取りだした。子供のてのひらほどの大きさしかない袋の紐を解き、水面の真上で口を逆さにする。
なにかの破片が袋からこぼれ、水面の月を乱す。
頼りなさげに
中央に空洞ができた扇型の残骸をみて、理解できない奴は馬鹿だ。
「壊れた鉄線を直して、なににつかうんだよ」
これは武器だ。人を殺したことはなくとも、幾体もの仏魔を滅してきた。だから、問う。夜弥もまた、この時ばかりはアヤカをみずにはいられなかったようだ。
目と目をあわせ、夜弥は決して揺るぎない覚悟を唇に乗せた。
「……取り戻す。我らが倭を。物の怪が、人が、共に笑い合える國を今度こそ護るのじゃ」
万年夜弥が魂に刻みつけてきた覚悟は過去の決意であり、現在の切望であり、未来への希望だ。その志に揺らぎはない。それでも夜弥には心がある。
両親の仇と両親の護べきもの、その矛盾を消化しきれるのか。
消化して、壊れずにいるのか。
アヤカのように破損してしまうのではないか。
「俺は人間だ」
「……そうじゃな」
「俺が恐いか? 憎いか? 腹立たしいか? 信じられないか? 傍に、いたくないか?」
羅列した問いかけにたいして、夜弥は少しも間を開けなかった。
「否じゃ。うぬがならびたてた、すべての問い掛けにたいして、な」
リン……と、音とも言えぬ音色が弾けた。
「おぁっ!」
たったひとつの音がまさしく誘い水となり、洗面器に満たされた水が逆巻き、夜空へと噴きあがる。龍神を彷彿させるちいさな竜巻にアヤカは驚きの声をあげ、夜弥は口をつぐんで見まもる。
音がしたのは最初の一度だけで、水流は渓声ひとつたてずに霧散していく。
幾百の雫は通り雨を模して降りそそぎ、ベランダに身を乗りだしていたアヤカの髪を濡らした。
そうして最後にひらめく片影が惹かれるように、夜弥の胸へと飛びこんでいく。夜弥の右手がそれを受けとめ、二枚の鉄線はようやくに持ちぬしへともどった。
「んじゃ、俺も倭再建までつきあうよ。姫さんのわがままに振りまわされるのが下僕の役割だろ」
すわったままの夜弥に紳士を気取って、手を差しだす。夜弥は鼻で笑うと思いきや、手をつかめずにうろたえている。長い沈黙にたえかね、アヤカの表情が曇った。
「なんだよ。やっぱ、俺じゃ役者不足か」
「うぬは物の怪とは異なり、弱い上に短命じゃ。その命、わらわのよな鬼に預けて良いのかえ?」
なんだそんな事か。
アヤカは拍子抜けして、安堵感に唇を歪ませる。ヒーローの笑いかたではないと分かっていた。
だが、鬼に味方する人間の笑みが聖人めいているはずもない。
「お前、綺麗だからな」
いつかとおなじ、言葉を捧げる。
夜弥は一驚を喫して瞳を見開き、涙を堪える為か、小さな身体をぎゅっと自分で抱きしめる。目を細め、艶っぽく微笑んだ姿は鬼らしくないが、そうおもうのは口伝された鬼伝説の所為で、本来はこれこそが鬼らしい姿なのだろう。
「しかし、アヤカ。路銀はいかにして用意するのじゃ」
「ん、それなら心配いらねーよ」
鞄から修学旅行に関するプリントを取り出し、目の前に突きつける。ついでに簡単な説明を添えた。夜弥は「ほお」と唸りながら、眼光を鋭くする。
「誘われておるな。宴に招かれたかぎりは、主催者を悦ばせてやらねばのう」
鬼は口もとに扇を当てて、声もださずに妖しく笑う。
月はさやかに光の冠を投げ、蝉も眠りについていたが、これはきっと嵐の前の静けさだ。
いまなら、京の都へと鬼の嬌笑もとどくかもしれない。
物の怪たちが聞き留めたとして、彼らは歓喜するだろうか。それとも姫の身を案じ、己の無力さを悔いるのだろうか。
「どっちにしても、もう引き返せねーな。ま、引き返す気なんて毛頭ねーけど」
鬼紛いの人間風情が鬼と血をまじえたとき、万年ぶりに倭が動きだした。
戦が始まる――と、月が呟いた。
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