第三十四綴 火事と喧嘩は東京の華

 学校での目覚めは、けたたましい携帯の着信音で無理矢理にうながされた。

 携帯はマナーモードにしていれば、教室への持ちこみも許可されているが、今日はマナーにするのをわすれていたらしい。


「悪い悪い……」


 顔をあげると教室にはもうほとんどの生徒が残っていなかった。普段、授業が終わるとすかさず起こしてくれるトリイの姿もない。もうすこしで深夜の学校に取り残されるところだった。


「にしても、こんな時間に電話って、誰だよ?」


 寝ぼけながら鞄に手を突っこみ、ガラケーを取りだす。表示を確認せずに耳に押しあてる。


『もしもし、先輩? あぁよかったです、出てくれて』

「ラギ……? どうしたんだよ、学校で電話してくるなんて」

『屋上で会う約束をしましたが、実は急用が出来て……キャンセルして頂いて良いですか?』


 頭にかかっていた眠気がかき消える。


「別にいいけど、なんで?」


 猜疑心を見抜かれないよう、明るく振る舞う。納得する答えをかえして欲しいと思いながら、どんな答えならば自分は納得するのだろうと自問した。

 嫌疑は、既に確立している。


「すみません、僕から言いだしたことなのに」

「……ん、気にすんなよ。じゃあな。俺、帰って寝るわ」


 乱暴に畳んだ電話を投げるようにして鞄に放りこむ。

 想定したなかでも最悪の返事がアヤカを突きとばし、馬乗りとなって首を絞めた。圧迫されてゆく喉もとは幻覚だが、呼吸を繰りかえしてなお解消されない酸欠状態は現実だ。


「くそ……っ」


 人目もはばからず、こぶしを机に打ちつけた。

 いまから思えば、アヤカにたいする度を超した懐きかたも、警戒心を抱かせないための芝居だったのかもしれない。きっかけといえるできごとはあったが、それを差しひいても異常だ。


(それでも信じたかったんだよ……。俺は、あいつを信じたかった……悪いかよ)


 笑いとばしたい。いつもみたく獰猛に笑いとばせたら、どれだけいいか――。

 これが恐怖ならば、そうできただろう。恐れを感じられない欠陥品のこころはどうして、悲しみだけは壊してくれなかったのだろう。


 ふと顔をあげると、窓硝子には幼い日の自分が映しだされていた。大好きだった母親にナイフを向けられた時以来だろうか。実に正常な、人間らしい表情だった。


「帰れねーよな……、こんなツラさげて」


 昨日の騒ぎのせいで、夜間のバイトがなくなってしまった。やはり若い子はあぶないので歓楽街で働かせられないとのことだったが、善意からの解雇であってもクビはクビだ。

 次の仕事は今月中に見つければいいが、今日はまだ帰宅したくない。


「屋上の鍵、開けとくっていってたけど、まだ開いてるのか?」


 風に当たればすこし気持ちが晴れるかもしれない。現実を消化できないからもたれるのであって、どろどろになって融合すれば、楽になる。つまりは割り切ればいいのだ。

 夏の暑さが消化不良を引き起こすならば、寒風は吸収をうながしてくれるかもしれない。

 いつの間にか無人となったがらんどうの教室を後にして、廊下に面した幅広の階段をあがる。仮眠のおかげで体力は回復し、足取りは軽かったが、心の重量が付加されて一段跳びにとはいかない。


 やがて現れた屋上への扉には〈関係者以外立ち入り禁止〉の貼り紙が貼られていた。鍵は開いているようで、ドアノブが軋みながら回る。そのまま、前方に力を加えた。


「うお、寒っ」


 扉を開けた途端、身を斬るような冷風が薄着のアヤカへむかって押し寄せる。思わず身体を縮めたが、そう長居はしないからいいかと思い直して、屋上へと踏みこんだ。


「って……?」


 瞬間、アヤカは自分の目を疑った。

 誰もいないはずの屋上にたたずむ影があったのだ。フェンスにもたれて下界を眺めていたその男子学生は物音に気づき、ゆっくりとこちらを振りかえった。


「来てくださったんですね、アヤカ先輩」

「ラギ……っ!? お前、電話で用事ができたとかいってたじゃねーか!」


 にこにこと微笑むキサラギに駆け寄り、問い質す声が必要以上に大きくなる。


「用事? ですか?」


 何も知らないと首を横に振る様子は、演技だとしたら真に迫り過ぎている。無論、アヤカとの関係そのものが芝居だったとしたら、これくらいは朝飯前なのだろうが、あまりにも無意味だ。


「僕は先輩に電話なんてかけていませんし、そもそも先輩よりも大事な用事なんて僕にはありません。そう、例え組が壊滅寸前でも僕は先輩優先ですよ?」

「んな事になったら、黒スーツにサングラスの霊に祟られそうだからやめてくれ」


 ひきつりそうになる頬を無理やり持ちあげて、アヤカが冗談を吐く。からからと笑い声をあげるキサラギは、いっそ不自然なほどいつもどおりだ。アヤカと肩をならべるとき、キサラギはかならず笑みを湛えていて、子供みたいに穏やかな表情をしている。

 それさえも芝居だというのだろうか。


「なあ、お前……」


 フェンスにもたれるキサラギとならんで、アヤカは金網を握り、身を乗りだす。

 騒音が風でかき消されると、ネオンの輝きだけが目にはいり、都会の景色も風流に感じる。闇と光が融け合う都会の地平を眺めながら、なにげない雑談のようにアヤカは尋ねた。


「俺に隠し事をしてないか?」


 強い風が雲を流し、月を隠す。

 比例して屋上には暗い影が落ち、キサラギの顔色が窺えなくなる。


「…………先輩は」

「あん?」


「先輩こそ、なにか隠しているんじゃないですか?」


 低い。冷たい。

 それはおおよそ、キサラギがアヤカにむけて発したことのない声色だった。


 かつてキサラギとアヤカが出逢ったときでさえも、彼の声はこれほどまでにとがってはいなかった。いや、違うか。当時のキサラギはすべてのものにたいして、ひたすら無関心であった。興味を持てないごみに、とがりもしなければまるくもなるはずがない。


 そうだった。アヤカとはまた、別の意味あいで彼は――破綻していたのだ。

 キサラギは凍えるような冷たい目をして、詰問を続ける。


「姫ちゃん……いや夜弥というあの娘は、先輩の親戚なんかじゃないですよね?」

「……お前、鬼童家の家系図でも持ってんのかよ。何を根拠に、んなこと……」

「そもそも人間でもない、そうじゃありませんか」


 心臓を鷲掴みにされたようだった。


「はははは、漫画とかラノベの読みすぎじゃねぇの、そんなわけ」

「みたんですよ……って言ったら、どうします?」


 絶句する。

 夜弥の素性を知られるのは、ただのクラスメートでもあってはならないことで、陰陽師と関係があるのならば、ここでわざわざ、かまをかけるような発言をする理由が問題である。


「ねえ、先輩……」


 声が近づいた。

 しかしながら、それだけではない。


 かたく握られたこぶしが、アヤカの横っ面にせまっていた。


「――――ッ」


 フェンスをつかむ腕をバネにして、なかば跳ぶように後退する。

 あと一秒反応が遅ければ、キサラギのこぶしはアヤカの頬を砕いていた。女性的な見ためとは裏腹に、キサラギの一撃はアスファルトをも砕く。つまり戯れで繰りだしていいものではない。


「ラギ……ッ! てめぇ、何しやがるッ!」

「よけるんですか?」

「はあッ? よけんだろ、フツー」


 戻ってきた月光に浮かびあがる面差しは無表情で、それでいて哀しげだった。睫毛をふせ、次にキサラギは唇を持ちあげてみせる。


「覚えていますか? 僕と最初に会った日のこと……」

「ああん、忘れるわけねーだろ」


 それが現状と、どう関係があるというのだろう。


「嬉しいです。僕も忘れられませんよ。あの日は僕にとって先輩と運命的な出逢いを果たせた大切な日ですが……初めて喧嘩で敗北した屈辱の日でもありますから」


 ぞくりと背骨を奔る、赤い電流。これは決して素人がだせる覇気ではない。当然だ。彼は鬼ではないが、一般人でもない。

 如月組の若頭……。

 それこそが本来、彼が名乗るべき肩書きなのだから。


「先輩、こうしませんか? 僕が先輩に勝ったら隠しごとをぜんぶ話してください。僕が負けたら……姫ちゃんのことはいっさい他言しません。フェアな条件ですよね?」


 敵意よりも混じりけのない殺気にあてられて、アヤカは寝起きの身体に鞭を入れた。 ぼやっとしてたら、ほんとに殺される。

 まずはキサラギから距離を取ろうと地面を力強く蹴る。キサラギの追撃は予想どおり、速かった。一秒前までアヤカがいたところにこぶしが撃ちこまれる。へたをすれば、弾丸よりもえぐい打撃だ。まわりの空気がねじれ、ぶうんとくるしげな唸りをあげた。


「先輩と会った頃、僕は丁度ちょっとばかり荒れてて……お恥ずかしい話ですが、喧嘩に明け暮れていましたよ。僕は如月組組長のひとり息子でしたから、どうあっても僕が組を継がなくてはならなくて……けれど僕は、やくざなんてご免でした」


 アヤカを着実に追い詰めながら、キサラギはにこやかに独白する。柔和な笑顔はこの場に不似合いだが、不自然ではない。彼からはいっさい悪意が感じられない。ただ、殺気が放たれるだけなのだ。


「どれだけ一般人を努めてみても、世間はやくざの跡取りをみる目をやめてくれず、それで自棄になって手あたり次第にフルボッコ……だっけか」


 男に泣きながら身の上話をされた、五年前の夏。


「やくざになりたくないあまり暴力三昧って、どんなパラドックスだよ」

「ええ、だから恥ずかしいんですよ」


 その恥ずかしい話を持ちだしてくるのは、正体を明かす前振りなのか、ただのきぶんなのか。後者であれと願う心が此の期に及んで残っていたことにアヤカはわれながら呆れる。

 しみじみと思い出話をしながらも現在、接近戦に持ちこまれて打撃を避けている最中だ。


「ったく、ワケがわかんねー……とっ!?」


 拳の応酬のあいまで繰りだされたキサラギの足払いにかかり、アヤカがおおきくバランスを崩す。前方に倒れこむことだけは防いだが、尻持ちをついて一瞬だけ隙が生まれる。

 キサラギがそれを見過ごすはずがなかった。


「ぐっあぁぁ……ぁ!」


 抉りこまれたつま先が、無遠慮に内蔵をこねくり回す。


「そんなとき、目障りな赤い髪が目にはいってきたので、殴っておこうと思ったんです」


 痛いが、嘔吐感が先立つ。喉までせりあがってきた学食を、寸でのところで飲みくだす。激減した生活費で購入した大事な栄養源だ。吐きだすのは勿体ない。


「甘ェよ……ッぼっちゃん!」


 キサラギの靴を握り、避けられなくしてから思いきり腹を蹴りあげる。こちらも手加減なしだ。


「くッ!」


 横転して抜けだす。すぐに態勢を整えて、アヤカは反撃を繰りだした。こぶしとこぶしが衝突し、蹴りと蹴りが絡みあう。ちからの差はほぼない。だが本能的に怯まないせいか、アヤカのほうがわずかに動きが鋭い。

 アヤカの脚払いが決まった。


「っ……」


 さきほどとは立場が逆転する。コンクリートの地面に叩きつけられたのがキサラギで、立って見おろすのはアヤカだ。 唇の端をゆがめて、アヤカはキサラギの腕を踏みつぶす。折れる音はまだしないが、それでも痛みが半端ではないのか、悲鳴をかみ殺す薄い唇からは泡の混じった透明な唾液が流れる。


「先輩……ッラギと、呼んでくださいよ。ぼっちゃんなんて……いわないで」


 縋るようにいわれ、おもわず、脚のちからがゆるむ。

 喧嘩をしているはずなのに。信じたいきもちばかりがおおきくなってしまう。彼はアヤカの敵ではない。それが夜弥のみかたということなのか、イコールになるのかはまだ分からないけれど。アヤカはそれを確信した。

 彼は自分と似ているから、贔屓もあるのかもしれない。それでも。

 

「また、ぼうっとして……油断していて、ほんとにいいんですか……ッ?」


 ラギが腕を振りあげる。

 アヤカの頭を砕くように放たれたこぶしが、なぜか、ひどく緩やかにみえた。当然、実際にはそんなはずがない。だがアヤカは、それを受けとめられると判断し、てのひらで進路を隔てた。


 パァン――――――ッ!


 銃声とも似た破裂音が都会の空を裂く。

 骨が砕けたのではないかとおもうほどの激痛が腕をかけあがり、アヤカは声にならない声をあげた。たいし、キサラギも言葉をうしなっていたが、こちらは痛みからではない。


「先輩……僕の負けですね」


 憑きものが落ちたような、やすらかな声。キサラギはなにやら納得しているようだが、アヤカとしては微塵も腑に落ちない。


「はあ? どーゆー基準で勝敗が決したんだよ。つーかバトること自体が意味不明なんですけど?」


「こぶしで語りあったほうが男の友情っていう感じがしません?」


 ようやく両者腕を垂らす。疲労が限界にきていたアヤカは、それだけでは飽き足らず、キサラギの横に寝転がった。大の字になったなんとも格好のつかない姿で、キサラギが懐かしげにアヤカをみる。


「……受けとめくれましたよね、最初に会った時も」

「あー、そうだったな」


 回想するまでもなく、掌の痺れるような痛みを記憶している。

 当時から反射神経が死んでいるアヤカは、突然殴りかかってきたキサラギにたいして、受けとめるしか対処方法がなかった。彼のこぶしを受けとめられた事自体が驚くべきことなのだが、自覚のないアヤカは痛みに顔を引きつらせながら、呆然とアヤカを見つめるキサラギになにかをいったらしい。ただし、ここだけははっきり覚えていない。


「あんまり覚えていないみたいですね、先輩らしいです。でも、僕はほんとうに感銘を受けたんですよ。先輩は僕の目をじっと見つめて、『拳を振るうんなら、自分が望んだ未来のために振るえよ。こうして人を手あたり次第に壊していくのが、お前の望む未来なら、俺に言える事は何もないけどな』って……言って下さったんですよ」


 彼の事だ。一字一句間違いないのだろう。

 つか、そんなくさいこといったの、俺? といまごろ赤面する。


「…………未来ねぇ」


 ふと、夜弥の望む未来とは何だろうか、と思った。

 あらためて訊くまでもなく、前に夜弥が宣言していたはずだ。


『何時しか人間が自らの選択を悔い改める時が来れば……、その時はわらわが皆に真実を告げ、倭を再建する。それが暗鬼さまとの約定じゃ』


 約定だとかかたい言葉をつかいながらも、夜弥は義務的な口調ではなく、どこまでも心情的にそういった。

 物の怪と人間が手を取りあい、共に暮らしてゆける倭の再建……それが夜弥の願いであるはずだ。だとしたら、夜弥は……。


「俺さ、ちょっと用事思いだしたから、帰るわ」


 コンクリート製のベッドから起きだして、アヤカは自宅方向をじっと見据える。キサラギにはそれだけで分かったのか、憂いを含んだ瞳で頷いた。


「先輩。僕は姫ちゃんのことを他言しません。結局、負けてしまいましたし、もとから話す気はなかったんです。どうして大人の姿で化け物と戦っていたのかも、額から生えていた角にも僕は興味がない。ただ、彼女が先輩を危険なことに巻きこんでいるんじゃないかと…… 」


 キサラギは首を何度も横に振り、そして無味無臭の微笑を浮かべた。


「アヤカ先輩に付属するものが、僕の敵になるはずがないじゃありませんか」

「……お前はぜんぶ、見えたんだな」


 どうして、夜弥の姿が見えたのか。仏魔の姿を認識できたのか。

 夜弥は前にそういう特性をもった人間もいると言っていたが、ただの偶然なのだろうか。だがもはや、アヤカはキサラギを疑う気にはならなかった。


「たぶん、委員長もみえていましたよ。もっとも彼女は一瞬、姫ちゃんの姿を目撃したくらいみたいですけど。だから……ちょっとだけ釘を刺しておきました」


 屋上から去るアヤカの背にむかい、キサラギが半身を起して呼びかけてきた。

 アヤカは片手をあげてそれに答え、屋上の重い扉の隙間から全く別の言葉をかえした。


「信じるよ。お前を信じる」


 扉が閉まる。

 しばらくキサラギはアヤカが消えていった扉を凝視していたが、ふたたびコンクリの上に身体を戻す。ごろりと寝がえりを打ち、腕を枕にして寝ころぶさまは弱った獣がうずくまっているようでもある。横一文字に結んだ唇を薄く割って、彼は最後に嘆息を転がした。


「一度は疑った人物でさえ、ずいぶんとかんたんに信じてしまうんですね。貴方はそうして……裏切られるんです」


 風が屋上に降り積もった砂塵を巻きあげ、キサラギは口を閉じる。ふせられた睫毛はこれいじょうにない哀愁を湛え、ひそやかな意志にそよいでいた。

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