第三十二綴 きみ魂をよごすことなかれ

 両親は殺されたんだと、被害者少年は主張した。

 今から十一年前に東京市外で起こった一家無理心中未遂事件。

 妻は夫を殺害後、自宅に放火し、包丁で自らの心臓を突き刺して自殺した。通報を受けて消防団と警察官が駆けつけた時には、家屋全体に火の手がまわり、当時六歳だった被害者少年の生存は絶望的と思われた。しかし間もなく、炎に包まれる家屋から六歳の男児が救出され、奇跡的に目立った外傷はなかったのである――。


 事件から一カ月が経過した頃、被害者少年がこう供述した。


「おれの父さんと母さんは、ころされたんだ。おかしなきものをきた子どもに」


 母親による犯行で確定したところで出てきた少年の証言に、事件の新たな展開が予測される。マスコミが騒ぎ、警察は少年の証言を頼りに再捜査を開始した。

 しかし和服を着た子供が一家を殺害した証拠となるものはなく、そもそも容疑者さえあがらなかった。結果、一連の証言は極限状態での幻覚、もしくは両親の死によって脳に何らかの障害を来たしたのだと言う判断が下された。


 それでも、被害者少年は主張する。両親は殺されたのだ、と。


 誰も耳を貸さなくなった後でも、少年……鬼童 妖キドウ アヤカは発言を撤回することはなかった。


 今でも、時折思い出す。

 過去に捕らわれていた幼い日……あの頃の彼は未来を放棄し、過去だけに愛されようとしていた。


「……もうだれもおれの言うことなんて聞いてくれねーよ。でも、おれは……ほんとにこの目で見たんだ。子どもが、母さんのせなかにかくれてこっちを見てた……。

 あのへんなきもの……、〈かりぎぬしょーぞく〉っていうんだってな。むかしのひとが着てたって本に書いてあった。俺とおんなじくらいか、ちょっとだけ年上にみえたけど、このへんじゃあんなやつ、見たことない。母さんはあいつに何かされたんだよな? あいつが……ふたりをころしたんだ…………ッ」


 山奥の墓地でひとりきり、幼い日のアヤカは墓石にむかって喋り続ける。

 叔父や叔母は葬式の直後に足を運んだだけで、それからは一度もお参りにもこなかった。だからアヤカは、いつもひとりで両親の墓前に立った。とはいってもアヤカの叔父叔母が暮らす家から墓地まではそれなりに遠い。年に何度か、叔父叔母に頼みこんで、なんとか、電車賃を用意してもらっていた。花束なんて用意できないから、たむけの花はいつもタンポポだった。

 

 墓前で喋り続ける子どもの姿はさぞかし不気味なものだったと思う。だが彼は誰になんと思われようと構わなかった。


 あの頃のアヤカは――――

 両親の仇を取ることしか考えていなかった。


 両親を殺したのが狩衣装束かりぎぬしょうぞくを纏った子どもであることは疑う余地もなかった。

 子どもは、アヤカの母親が家族を殺していくさまを、にたにたと笑いながら眺めていた。繰りかえされる悪夢のせいでその顔を忘れることもない。だけどもその子どもの手掛かりは依然として見つからなかった。

 ほんとうにただの幻覚だったのではないかと、不安になるときもある。けれども、アヤカの母親が家族を殺すはずがないのだ。なにかに操られていたとしか、考えられない。操っていたとしたら、間違いなく、あの子どもだ。


「おれが、ぜったいに、かたきをとるからな」


 だから彼は、言葉にすることで憎しみの油を挿して、絶望に落ちかける心を燃やした。そうしないと屈してしまいそうで、怖かった。親父が殺されたのに、母さんが殺されたのに、復讐をしないことこそ親不孝だと信じていた自分は、やはり幼かったのだろうと、いまならばわかる。

 

 喋り終わり、そろそろ帰らなくちゃと顔をあげたアヤカは、絶句した。


「……っ」


 見知らぬ他人の墓石も、夕風にざわめく雑木も、一斉に飛びたってゆく烏の群れも、何もかもが視界から追いだされて、たったひとりの存在だけがその瞬間を占めた。

 死に装束を彷彿とさせる、光沢感を帯びた白妙の小袖が風になびく。

 純白に鮮血よりも赤い襟が映え、なにか、狂気じみたものを感じさせた。赤い襟に縁取られた首から先は、いままでみたどんなひとよりも美しい。彼女はあらゆる世俗の汚れとは無縁のようだった。だが同時に、どこまでもあでやかな《女》である。


 アヤカは子供ながら、彼女に見惚れた。


「憎んではいけませんよ……」

「え……?」


 だからだろう。

 浮世離れした透明な声色で諭されても、数秒、その意味が理解できなかった。ちょっとでも呑みこめていたのならば、すぐに反発した。けれど、彼の頭は完全にフリーズしていたのだ。


「貴方のご両親も殺されたのでしょう? 愛する者を奪われる悲しみは、わたくしにも痛いほどわかります。されど、貴方のいのちが、お母さまに護られたいのちであることを忘れてはなりませんよ」

「……やりかえそうとしてもやられるだけだって、いいたいのか?」

「いいえ……」


 白妙の女性はその場でしゃがみこみ、アヤカの頬へと手を伸ばした。絹糸の如き細やかな黒髪が風に流れ、彼の身体を包むふうになびいた。

 翼のようだと思った。なら、彼女は天使なのだろうか。


「貴方の魂はとても綺麗……。緋色に輝いて、曼殊紗華の花灯はなあかりともよく似ています。その魂をよごしてはなりません。その輝きを奪うのは悲しみではなく、絶望でもなく、黒きかえり血ですよ」


 広げる羽根は漆黒の艶めきを宿しているのに、こんなにも神々しくて。

 優美な表情から、アヤカは、想像を絶するほどの悲哀を見た。


「護られたいのちを、その類稀なる魂の輝きを、どうか、よごさないで。ご両親の後ろ髪をひかないで。そして願わくは、わたくしの愛する……」

「あんたのあいする……?」

「いいえ、これはいずれ、天が決する事でしょう……」


 女性はやはり果敢なく微笑んで、アヤカの身体を離した。

 

 そしてふと瞬きした刹那、墨絵に流水を零したように女性の姿はぼやけ、アヤカが狼狽しているうちにあとかたもなく流れていってしまった。はじめからそこには、誰もいなかったとでもいうように。

 残されたアヤカはしばらく呆然とその場にたたずみ、彼女の言葉を反芻していた。

 それを消化するのには、かなりの時間を要した。復讐は、絶望に沈む彼の生きる目的であり、力の源でもあり、けれどその何倍も重い鎖だった。

 だから、反発心と肩をならべて存在する安堵感に似た感情を目のあたりにする度、心底救われないと思った。「許された」なんて思ってしまったのだ。独りよがりにも程がある。


 いずれにせよ、過去に捕らわれていたアヤカがきちんと前をむけるようになるのは、ラギやトリイと友になってからのことになる。

 彼らがアヤカに未来をくれたのだ。



 ――――なあ、夜弥?

 こんな俺の魂でも、それなりに綺麗な光を宿してるらしい。

 なら、世にも綺麗なお前はどれだけ綺麗な魂を持ってるんだろうな。

 見ることはできなくとも、その美しさを想像することくらいはできるから。


 よごしてほしくないと望む。


 それはきっと、白妙の彼女も同じだろう。

 彼女が諭したかったのは、本当は俺なんかじゃなくて……ほんの手違いでも、勘違いでも。彼女が残した言の葉を俺が受け取ってしまったかぎりは、俺が、伝えないといけない。


 護らないといけない。

 が死してなお、案じ続けた、小さな鬼の姫さんを。

 この、鬼紛いの人間風情が。

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