第三十一綴 ものけと人はすれ違ふ

 早くも明け始めた空が淡く照らしだす部屋の真ん中に横たわり、アヤカはとりとめもなく、闇のわだかまる天井を見あげていた。


 疎らな蝉の演奏を背景にして、静かな寝息が耳朶をくすぐる。


 あの後、すべての報告を終えた小参次は、みずからの妖気でこの場所が仏魔にさとられる前に……と速やかに帰路についた。また時折訪ねてきたいとの事だったが、例の如く仏魔によって封じられる危険もあり、気軽にはこられないようだった。うちわをはばたかせて風に乗る小参次を見おくり、窓の外から室内へと視線を戻すと、夜弥はソファで両足を投げだし、九分九厘眠っていた。

 慌てて夜弥を寝室のベッドへ運び、軽くシャワーを浴びてから自分もとこについた。ベッドは夜弥に占領されているため、最近は床でのごろ寝が習慣になりつつある。

 いっそソファで眠ったほうが柔らかそうだが、すっぽりと納まる夜弥とは違い、アヤカはどうしても足が飛びでてしまう。丸まって眠るのは身体に悪いだろう。

 そうして結局、床にたどりついてしまうのだった。


「……今、五時か」


 明けがたにもかかわらず、アヤカはぱっちりと目蓋を開いている。 眠れないのだ。


「にしても、良く寝てるな」


 夜弥の寝顔を眺め、おもわず顔がほころぶ。

 きゅっと手足を縮めて、すうすうと子供じみた寝息を立てるさまは小動物さながらだ。白いシーツにさらりと流れた黒髪は輪を描き、額の角が無防備に露出している。 肌蹴た着物からのぞく雪白の肌だけが色っぽく、大人の色香を放っていた。

 綺麗だが、より正確に言い表すのならば、可愛らしいというのがただしいだろう。


「ほんと完璧だよな……」


 夜弥はおそらく女が持つ全ての魅力を網羅している。

 外見年齢相応に可愛くもあるが、真紅の唇を持ちあげると震えがくるほど妖艶で、それでいて触れることを躊躇われるような高潔さを持ちあわせていた。

 はっきりいって……。


「反則だよ」


 アヤカだって健全な男子だ。

 こうして隣で安心して眠られては、苦笑せずにはいられない。

 だから床とベッド。隣りあわせでも遠い、この距離が最適だ。手を伸ばしても届かなくて、文字どおり高嶺の花。けれど、有事の際は真っ先に護れる。


「……って、護られてるのは俺か」


 男が女を護ると言う構図はいまや古いのかもしれないが、女に護られる男の情けなさはいつの時代も同様だ。それが自分の現状だと思うと、嘆息すらでない。


 暗部の物の怪との接触で甦って来た記憶がよりアヤカを責め立てるようだった。

 隠ノ宮にて、実姉あるいは実母のように夜弥を育てていたマイヅル。土蜘蛛の攻撃から夜弥を護り絶命した彼女は今際の時に優しく微笑み、アヤカへとこう囁いたのだ。


『姫様をお願いします』


 護ってくれ、傷つけないでくれ――。

 どちらとも取れるその遺言は、アヤカが背負うには重すぎた。

 鬼ノ姫はおおよそ、人間ごときに護れるものではない。そして、自分は人間だ。

 本来ならば、はじめから背負うべきでなかった。

 かといって放りだせるはずがない、いまさら。いや、あるいは最初から見捨てられなどしなかったのだ。


 これはきっと、そういう呪いだ。


 護れるならば悔いなどなかった。

 護れないいまが一秒過ぎる度、後悔になってゆく。


「…………」

 

 すくりと首を持ちあげ、夜弥の寝顔を見つめた。睡夢にいだかれた夜弥はどことなく、人形じみている。安らいでいるはずなのに、死人を思わせる無表情が静寂をいっそう深くするのだ。

 その表情は愛らしくとも幸せそうではない。

 静謐な面持ちで交睫こうしょうした鬼の姫は沈黙を保つ。

 しかし無機質な静寂は、突如として打ち砕かれた。夜弥自身によって。


「母、様ぁ……」


 ぎょっとした。

 だって、眠っているときの夜弥は人形のようで、規則正しい寝息もゼンマイ仕掛けのようだったのに。


「いやじゃ……。母様、父様……どこにも、行かないで……」


 呼吸は乱れ、白磁と見間違うばかりだった顔が上気する。あまりにもくるしげな様子の夜弥にアヤカは身体を起こし、ベッドに身を寄せた。


「どうしたんだよ、夜弥」

「何故に……、わらわを置いていかれ、るのです?」


 羽毛布団からでた小さな手を握ると、じっとりと汗に濡れていた。

 ぎゅっと眉をひそめ、熱の帯びた吐息をこぼす唇は震えている。これだけうなされていながらまなじりが濡れていないのは夢のなかにあってもなお、涙を禁じているからなのだろうか。


「置いていかないで、わらわも……」

「夜弥……俺はここにいるぞ」


 昔の夢でも見ているのだろうか。

 なぐさめとしてこのうえなく無力な言葉をかけながら、夜弥の手を握りしめる。壊さないように真心をこめて、誰にも奪われないように力強く。

 掌を、胸に懐く。


「母様や父様と一緒に……死にたい、のに……っ」

「ッ――」


 後ろから金槌で殴られたような衝撃だった。

 だからしっかり握っていたはずの掌から、夜弥の手が滑り落ちたことにも気づけなかった。

 小さな手は音もたてず、シーツの海へと落ちる。

 夜弥がうすく目蓋をもちあげた。


「……ん、かあ、さ……」


 赤い髪をみて、彼女は失望したように安堵する。


「アヤカ」

「夜、弥……なんだ?」


「わらわは、うなされていたか?」

「……ああ」


「では、何ごとか申しておったか?」


 いつでも唇に浮かべていた微笑を潜めて、夜弥はアヤカへ問い詰める。彼女は自分が寝言を言っていたことを知っているのだろう。

 知ったうえでの問いならば、答えはひとつだ。


「いいや、何も言ってなかったケド?」

「そうか……」


 夜弥は微睡みの延長を思わせる目つきで天井を見つめていたが、やがて意識が定まったのか、アヤカへと視線を戻す。今度は普段通りの笑顔だった。


「むしょうに……喉が渇いた……。どうせ、眠らないのじゃろう? 茶を入れておくれ」

「姫さんの仰るままに?」

 

 夜弥が笑っているのに自分が笑えないなんて、それこそあってはならないことだ。冗談めかしに答えて、寝室を後にした。三分もしないうちに麦茶を持ってくる。

〈インスタント珈琲〉と〈やーいお茶〉が切れたので、眠る前にティーバックからペットボトルに出しておいたのだ。まだ色は薄いが、味に問題はないだろう。

 ベッドの上で正座した夜弥にコップを差しだすと、唇を濡らす程度に啜った。


「む、この茶は香り高くてよいな」


 唇が濡れても、三日月の双眸から涙が流れることはない。


「……のう、うぬは全くおなじ夢をいくたびも見ることはないか?」

「あるよ、最近は寝不足で見てないけどな」


 アヤカが同意するとは予想外だったか、夜弥がふせていた眼をうわむきにする。


「そうか……、良い夢ではなさそうじゃのう」


 知らず知らず、表情が硬くなっていたのだろう。一拍も思案させることなく、見透かされてしまう。だからこそ、夜弥はそれ以上の詮索はしなかった。


「……物の怪の長、暗鬼あんき……その御方がわらわの父じゃ」

「そう、だったのか」


 母親と暗鬼の名をならべて口にしたのを聞いた時から、なんとなく分かっていた。


「暗鬼さま……父様は、立派なかたじゃった。倭ノ鬼を率いる武勇の達人でありながら穏やかで……いつだって笑っておられた。 母様は椿と申し、優しげな眼差しを持ちながら、意志の強い女性じゃった。紫の御召し物がよう似合い、いつも椿の花をかんざしにしておったのを覚えおる」


 頬に浮かべた朗笑は、過去の彼女がいかに幸せだったかを証明している。そして、古の物の怪がどれほど穏やかな暮らしを営んでいたのかも、また。


「父親がどうなったかは聞いたけど、母親はどうしたんだ? やっぱり……」

「いや、母様は陰陽師や仏魔に殺されたわけではないよ」


 それでも仇には違いないとつけ加え、夜弥は悲しく微笑む。


「父様が護国の亡鬼ぼうきと化した後、母様はわらわを隠ノ宮に隠して、父の後を追った」


 グラスのなかの飴色をした鏡面を覗きこみ、夜弥はアヤカの知らない誰かを探す。物憂いげな嘆息が波紋を産みだし、やっと見つけた背中すら幻に変えてしまった。


「自殺かよ」

「いや、死因は自然死じゃ。自害ではなく、孤独の余り生きてゆけなくなったのじゃ。は……寂しゅうて死ぬ、比喩ではのうてな」

「うさぎみてーだな」


 どれだけ夫を愛していたのだと感心する半面、独り残された夜弥への無責任さに憤る。それでも、アヤカに夜弥の母親は責められない。

 自分もまた、母の手によって、独りぼっちで生かされたいのちだからだ。


「夜弥、愛されてたんだな」

「どうじゃろう……、少なくともわらわは両親が好きじゃった。じゃからこそ、陰陽師やそれに迎合した民が許せぬ。仏魔よりも人間のほうが姑息で恐ろしと思うのは、可笑しきかえ?」


「……当然だと思うな」


 仏魔は恐ろしい。けれど、あれは人間が誰しも持ち得る業の恐ろしさだ。

 仏魔は醜い。されど、それは人間の名残りを留めているからこその異形である。

 人間を憎むのも、仕方ない。怨んでしまう気持ちを誰が責められるだろうか。


「のう、アヤカ……わらわの願いを聞いてはくれぬか?」


 あらたまって言いだされた言葉に戸惑いはあった。

 返事をしなかったのはその為だ。しかしながら返事を待たずに夜弥は言葉の続きを繋いだ。


「わらわは京へと赴く」

「はあ?」


 脳が回転を停止したわけでもないのに、理解が追いつかなかった。

 だって、ついさっき、伝達を受けたばかりなのだ。


 ――京都には決して、足を踏み入れてはいけないと。


 小参次のはなしによると、現在の京都は仏魔の本拠ほんきょと言っても過言ではなく、物の怪を封じた神社仏閣にはもちろんのこと……至るところに仏魔の影があり、危険極まりないとのことだった。

 第一、 京はいまなお、陰陽寮が秘密裏に残る地でもある。

 ほとんどのものが呪術を信じなくなった現代、日本全国に点在する神社仏閣を所有、管理することによって仏魔に人の祈願……つまり欲と言う名の供物を捧げさせるのが陰陽師の仕事である。

 

 そう、小参次が説明してくれた。

 神社仏閣が密集した京の街は、まさしく敵地だ。


「聞いておらんかったのかえ? わらわは近々京へ発つと申しておるのじゃ」

「わがままもいい加減にしろよ。ダメに決まってんだろ?」


 軽くいったつもりなのに、驚くほど己の声が低くかった。


「だいたい、なにをしにいくんだよ」

「小参次が申しておったじゃろう? 仏閣には多くの物の怪が封じられておると。わらわは物の怪の長たる暗鬼の娘じゃ。物の怪を救えるのは、わらわをのぞいて他におらぬ」

「助けにいくってか? 無理に決まってんだろ」


 笑い飛ばせなかった分、今度は意識的に怒った声色を押しだす。

 そうしてなくては止められない気がした。自分の反感を買った程度で、夜弥が自重するとも思えなかったが、今はそれしか術がない。


「無理なものか。むしろ、わらわこそがいかねばならぬのじゃ」

「……うぬぼれんなよ」


 夜弥が容易く蹴散らせる相手ならば、暗部は小参次を使いに出してまで忠告などしないだろうし、逆に仲間を助けてくれと懇願しただろう。

 これには夜弥も気を害する。


「わらわを愚弄するのかえ?」


 夜弥の眼は燃えている。鬼火を宿し、殺気すら孕んでいた。

 恐るべき気迫に怯みながら、アヤカは首を縦に振ることだけはしない。


「そもそも、旅費もねーのにどーやっていくんだよ」

「じゃから頼んでおろうが」


「言っとくけど、俺はびた一文ださねーぞ。いきたくないからな」

「物の怪が……友が苦しんでおるというに何故じゃ!?」


「俺だって命は惜しいんだよ。大体、俺にとっては赤の物の怪だしな」

「うぬはそれでもわらわの顕人あらひとかッ!」


 よほど頭に血がのぼったのだろう。夜弥は朱に染まった顔をしてヒステリックに両手を振りまわす。赤い小袖がはためき、戦の旗を思わせるのが洒落にならない。

 これほど激高した夜弥をみたことがない。


「臆病者……っ、薄情者ッ! うぬがそのような冷血漢だったとは、見損なったわっ! うぬは軽薄そうに見えるとも、根は誠実であると信じておったのに……」

「…………」


 烈火の如く怒りつつも伏せられた睫毛が、死にたくなるほど胸を抉る。彼女は憤っているが、それ以上に深く悲しんでいる。

 せめて、「裏切られた」と続けられる前に。


「はぁ? それどこのアヤカですか? 少なくとも俺は、何のかかわりもない奴のために命賭けられるほどできた人間じゃねーって。恐怖心が死んでるぶん、理性で合理的な選択しねーと生きてけねーんだよ」


 この話は終わりと立ちあがる。

 時計を一瞥して身支度を始めるアヤカに失望したのか、夜弥はそれ以上この件に関してはなにも言わなかった。諦めの言葉さえ口にはしなかった。

 ただ一言だけ――。


「わらわは……何故にあの時、暗鬼さまが刀を捨てたか……分からぬのじゃ」

 

 アヤカに聞かせる気のない独白を零して、ベッドへと這い戻った。

 薄紅の唇から転がった言葉は空気に触れる毎に色あせ、闇のわだかまりへと沈んでいく。それを拾うこともできず、そそくさと出勤するアヤカは、閉まってゆく扉の隙間に最後の返事を滑りこませた。


「いや、お前の親父さんは正しかったよ」


 それが届いたのか、確認する間もなく。

 玄関は閉まり。


 全てが隔てられた。

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