第二十五綴 彼の裏事情
歓楽街でアヤカが刺される数分前のことだ。
深夜の静寂を保った裏通りで細身の影がゆらりと揺れた。
目を凝らせばその場には五人ほどの人影が蠢いていたが、自力で立っているのは一人だけだ。 他四人は壁に立ち縋っていたり、冷えたコンクリートの地面に足を投げ出してうずくまっている。薄闇にありながら、彼らの顔にははっきりと殴傷が見てとれる。この様子だと黒いスーツの下にも無数の青黒い痕がまき散らされているに違いない。
荒い呼吸の断片や唸り声が空気を乱すなかで穏和な声がこだました。
「何か、言い残しておくことはありますか?」
微笑みさえまじえた声音だったが、芯は冷ややかだ。
重い沈黙がおり、返事を待ちかねた細身の青年は、最も近い位置に倒れていた男へと歩み寄る。目と鼻の先でしゃがみ、うつ伏せる男の髪を無造作に掴んで、顔をあげさせた。
「……若、頭……」
苦悶の呼び声をかき消すように一陣の風が吹き抜ける。風で飛ばされた雲の間から半月が顔をだし、暗闇の裏路地に青白い月光が差した。
月に照らされ、冷ややかに笑うのは
学校にいる時とは違い、特徴的な緑眼は獣の如き鋭さを宿している。凶暴性を剥きだしにしたキサラギは、男の失言にたいして薄い唇を歪めた。
「その名で呼ぶな」
髪を引く手に力をこめると、男は厳つい面を、さらに顰める。キサラギ以外の人間は全員黒いスーツ姿だったが、今では一張羅も砂と血にまみれ、普段着よりもみすぼらしい有様だ。
男は歯を食いしばって苦痛に耐えながら、哀願めいた言葉をこぼした。
「何故、何故……お戻りになって下さらないのですか……。若頭ほど、後継ぎに相応しい御方はいらっしゃいません……また、二か月前よりも強くなられたのでは……?」
「何度きても、何人で襲ってきても無駄だと、伝えたはずですけど。しつこい男は嫌われますよ?」
その時、壁にもたれて呼吸を繰り返すだけだったもうひとりの男が動いた。喉に絡まっていた血反吐を吐き棄て、焦点の合わない目でキサラギを捉える。
「では、若頭には他にやりたい事があるんですか……!? ないのでしょう?」
「ありますよ? ですが、お前達には教えません」
男の髪を握ったまま立ちあがったキサラギは、勢い良く膝を振りあげた。
「ぎ……ッ」
「いい加減うるさいので、眠っていてください」
膝蹴りは男のみぞうちを穿ち、大柄な男も今度こそは卒倒する。続けて、キサラギは壁に立ち縋るもうひとりの男を振りかえった。相手が漏らした悲鳴など右から左で、顔色ひとつ変えずに拳を構え――――
身体をひねったままでぴたりと、キサラギの動きがとまった。
近くの歓楽街から悲鳴が聞こえた。
ひとつやふたつではない、男女の余興でもない。
「若頭……?」
不自然に硬直したキサラギを見あげ、若い男は不審げに眉を寄せた。しかしそれすら聞こえていないのか、キサラギは口のなかで何事かを呟いたと思ったら、若い男の懐に手を突っこんだ。
「……なっ?」
「借りますよ」
胸ポケットに入っていた拳銃を奪い、弾が装填されていることを確認したキサラギは、もう二度と男達を振りかえることもなかった。歓楽街を睨み、足早に裏路地を立ち去ってゆく。
月光を受けて、色素の薄い髪が一際妖しく光を撥ねた。
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