第二十九綴 俺は、人間だよな
名前を持たない歪な月が見下ろす先で、ゆがんだ影が伸びていた。
白澤の如く、背中が丸まったかたつむりの姿勢。大きく膨張した背部からは折れた羽根が生え、頼りなく地面を漂っている。 人のものとは思えないその影に、呼び名はあるのだろうか。
きっと、ないのだろう。あったとしても、誰にも分からない。 上弦、下弦、満月、半月……。いずれとも異なる、今宵の月と同じだ。
だが、敢えていうのならば〈物の怪〉と、そう呼ばれるだろう。
下だけを向いて歩いている人間から見れば、そう後ろ指を指されても仕方のない風体だ。それでも少しだけ顔をあげれば、青年が振袖姿の少女を背負っているだけだと分かる。
「結局、俺が背負って帰るのかよ」
「当然じゃ、うぬはわらわの下僕じゃろう?」
「記憶力のよろしい事で……」
乾いた苦笑を吐息に交え、ずっと気になっていたことを口に出す。
「あれが、仏魔……なのか」
「そうじゃ。今回は
かつて人間に物の怪が見えたように、仏魔の姿も視認出来たのかもしれない。しかし現代人の眸には仏魔の姿は映らない。
「のう、うぬは突然憂鬱になったり、訳もなく苛立ったことはないか?」
「……ある。大抵の人間はあるんじゃね?」
「仏魔は負の感情を喰ろうて生きておる。じゃから、時折人間に干渉しては、心の隙を突いて負の感情を煽ったり、人を操り悲劇を演出したりする。衝動的殺人の大半が仏魔の仕業じゃ。幸福な時は人は神など忘れておるが、不幸になれば仏にすがるのが人情というものじゃろ?
仏に頼れば、その欲にまみれた願いも又、供物よ」
「……仏魔って、意外に策士なんだな」
他人事のような言葉しか出ないが、自分だってどこで化け物とすれ違い、いつ化け物に魅入られているか分からなかったのだ。夜弥と逢わなければ、今でもあんなグロテスクな存在が街を往来しているなど考えもしなかった。
「今日のあいつは……裏弁財とか言ってたよな」
「才能を司る仏として親しまれておるが、実際は嫉妬心を煽る仏魔じゃ。さしずめ、劣等感があるからこそ、人を貶めみずからを称える言葉を羅列したのじゃろ」
「優越感ってやつか」
言われてみれば、嫉妬される理由はともかく、みな一様にアヤカを羨んでいた。競争社会において、嫉妬心は誰にでもあるものだ。
「そっか……あれが、な」
嫉妬に駆られた人間の眼球が。背後から迫ってくる鈍器や凶器が。人が仏と敬う異形の禍々しい梵音が、瞼の裏でのた打ち回る――。
火焙りにされた蛇の乱舞を、巻き戻し再生にするみたいだ。
吐き気が催しても、恐怖は感じない。危機は認識しても、脅威には成り得ない。
今までは非日常の中での恐怖であり、脅威だった。ともすれば、夢で勇者をやっているのと大差ない。死んでも生きかえる気がする、希薄な現実味を持って戦っていた。
しかし、今回は日常を生きている途上で、襲撃を受けた。あの隠ノ宮で異常を受け入れ、脅威を封じるのとはわけが違う……はずだ。それなのに、いっさい恐怖を覚えなかった。怖がれなかった。
自分が壊れていることを自覚する。
あれだけの人数に囲まれて、笑う男がどこにいる。フルーツナイフで脇腹を刺されて、相手を蹴り飛ばす学生がどこにいる。
物の怪、それも鬼の姫を背負って、家まで連れ帰る人間がどこにいる。
――此処にいるんだよな。
ああぁあぁぁと奇声を発して、頭を掻きむしりたくなった。鬼の頭髪をひきちぎりたい。けれど、十代にして禿げるのはごめんだ。それに夜弥を落としたら、後でとんでもない目に遭わされそうな為、取りあえず今は自重する。
自分だって、初めからこうだったわけではない。
心が壊れた瞬間のことは明確に覚えている。
早く忘れてしまいたい記憶ほど、脳にこびりついて取れなくなるものだ。人間を作った誰かさんの、意地の悪さが窺える。
正常が殺ぎ落とされた瞬間――――――
それはアヤカの世界が崩れ去るのと、同時進行で訪れた。
(あの日、警察署から見あげた月は、こんなにきれいじゃなかったよな)
アヤカは幼少時に両親を失くした。
事故や災害ではない。母親が父親を殺し、その後、自害した。
猟奇事件の全貌は色褪せず、睡夢のふちで繰りかえされている。
時に第三者として、時に過去の自分自身として、母が父の胸に包丁を突き立てる光景をみた。
母は地面に伏した父を振りかえりもせず、買ってきたばかりの食用油に手を伸ばし、床に撒くのだ。どぽどぽと油がフローリングへ落ちる音にまじって、自分の心臓が耳もとで騒ぐ。
幼い日のアヤカはただ呆然と立ち竦んだまま、叫び声すらでなかった。
ただ無色の油と鮮烈な血液が合流して、真っ赤な川が広く伸びてゆくのを眺めていた。
眼前で繰り広げられるなにもかもが、小さな頭では解析しきれず、脳が消化不良を起こしたのだった。思考回路の混雑による低速化は、全身の稼動にも悪影響を来たす。
地面が、壁が、燃えだした。
当然、火のまわりは早い。
それでもアヤカは動けなかった。
母が振りかえる。
『アヤカ……』と名前を呼ぶ。
その声が酷く嗄れているのは、立ちのぼる煙のせいなのか。それとも、彼女の心境がそうさせるのか。我が子の名前を復唱しながら、母がゆらりゆらりと幼いアヤカにせまる。手に握られているのは包丁で、包丁は今や料理をするための道具ではない。
人を、殺す、武器だ。
怖かった。恐ろしかった。
気が狂うかと思うほど、母親に怯えて。心が壊死するかと思うほど、父の死を否定した。
すべてが嘘であることを願った。神や仏にではなかったかもしれないけれど。
怖かった。恐ろしかったのだ。
それなのに、自分は。
『おかあ、さん、ど、して……泣いて、るの?』
〈悲しい〉と思った。
母が泣いていることを〈悲しい〉と思った。
抱き締めて、なぐさめてあげないと……と思ったのだ。
恐怖を感じるべき状況でありながら、愛おしむような感情を優先的に懐いてしまった。
――それが、矛盾の始まり。
恐怖を感じる以前に、本能的親近感を抱いてしまう誤作動の原因だった。
恐怖とは生物にとって必要な生存本能のひとつだ。
なにかにたいして恐怖を覚え、反射的にその対象を避けようとすることで、生物は存続してきた。猫にたいして恐怖を覚えない鼠は、あっというまに捕食されてしまうだろう。
だが、アヤカはまさに猫を恐れない鼠なのだ。
単に恐怖がない、だけならば、まだいい。それどころか、彼は恐怖を覚えるべき対象――これは人物などにかぎらず、危機的な状況にたいしてもそうだが、本能的に好意を懐いてしまうのだ。
結局、母はアヤカを殺さなかった。
手を伸ばしたら届く距離まで歩み寄り、しかし母はなにかと葛藤する素振りをみせた後、自分の心臓にむけて、包丁を突き刺したのだ。
やがて、アヤカは炎に包まれる家屋から保護された。
一家無理心中としてこの事件を結論付けた警察は、母親はアヤカも巻き込むつもりだったが良心の呵責があった――と解説したが、死人に口無しである。真意は誰にもわからない。
アヤカの両親はもともと、世間からは白眼視されていた。
父親である
母親の鬼童
だから両親が死んだ後、ひとりになったアヤカをひき取ってくれる人はなかなか現れなかった。周囲のものがアヤカをみる目は、無理心中の犠牲になった憐れなこどもをいたわる眼差しではなく、異常な夫婦の異常なこどもを疎んじる視線だった。けっきょく、叔父叔母がアヤカを引き取るといってくれたのだが、あのふたりのもとで四六時中怒鳴られながら暮らすよりは施設のほうがまだましだったのではないかとアヤカはいまさらながら振りかえる。叔父からは殴られ、叔母には蹴られ、赤い髪をまるぼうずに刈られたこともあった。叔父と叔母がアヤカを養子にしたのには財産がらみのあれこれがあったようだが、詳しくはアヤカも知らない。
学校にも逃げ場はなかった。
物を壊されたり、靴を捨てられたり。縛られて殴られたり階段から突き落とされたり……まあ、ひどかった。教師でさえ、アヤカのことは露骨に嫌い、まともに視線をあわせてもくれなかった。
鬼だといわれた。
おまえなんか、人間じゃないと。
「なあ、俺は人間だよな」
アヤカがぽつりと、尋ねた。
「ん」
耳もとにあわい息が掛かる。
「ああ、人間じゃ、紛れもなく、な」
両親が死んだあの日、自分の世界は一度崩壊したのだろう。そうしてまた、再構成された。
トリイやラギという、変わり者の友達によって。
「夜弥」
彼女もきっと、いまでは世界の一部だ。
矛盾が繋いだ縁もある。欠陥が産みだした幸せもある。
それは、それだけは、錯覚ではない、はずだ。
(俺は異常な両親から生まれた異常なこどもだ。
だったら、ひとでありながら、鬼と一緒に生きてもいいだろう?)
「ふふふ」
夜弥がアヤカの筋張った首筋に頭を埋め、鈴の転がるような笑いを洩らした。
「じゃが、忘れるでなきぞ。お前は人間である前に、わらわの
「下僕じゃなくて?」
「何を呆けた事を申しておる。顕人のふりがなは下僕じゃ」
名前のない月が照らす路地を、アヤカは歪んだ影をひきずって歩く。明日へむかう足取りは、軽かった。
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