第二十七綴 死闘!裏弁財

 屋根へと舞いあがると、一際冷たい突風が夜弥の艶やかな黒髪をなびかせた。

 月光を受け、彼女は軽やかに屋根を渡る。まさしく、翼でも生えているかの如き身軽さである。傍から見れば、灼熱の蝶が夜風に舞っているふうに見えるだろう。

 演舞、否、闘舞とうぶだ。三日月を想起させる瞳は、すでに敵を捕捉していた。


「なんじゃ、あやつは……」


 その姿がくっきりと目に飛び込んでくると同時に、ぞわりと総毛立つ。

 闇に浮かぶ白い異形は、裸身の少女を模っていた。屋根にしがみつくふうにして、這いつくばっている。……と、ここまでは予想の範疇である。


 異様なのは、甲高い異音の発生源だ。


 鼓膜をねぶられるような音響の戦慄わななきは、尺八と酷似している。そこから、相手は笛を吹き鳴らしていると考えたのは、あまりに安直な発想だったとしか言いようがない。

 手首から先が恐ろしく細い。

 正確には、骨しか残っていない。血管と骨を動かす為の筋だけが、白骨にかろうじて巻きついている。筋は指先でいじくられた食べかけのガムを思わせ、嫌にグロテスクだ。

 合掌を模して擦りあわせた掌から、尺八に似た異音が産まれている。

 ガラガラ蛇は骨を振動させて威嚇音をだす。それに動作を加えた、応用だろう。


他人ヒト、妬メ。他人、僻メ。平等デハナイ生ヲ怨メ」

 垂れ下がった頭髪の奥。呪詛の禍々しさを宿した梵音で、少女は唱える。


 凶悪な狂気を察知した瞬間、夜弥は動いていた。鉄扇を一枚、相手の首筋を狙って投げ放つ。


 自分でも無意識の反応だったが、衝動的な行為ではなかった。危機察知能力に基づいた理性的かつ正当な奇襲である。

 研ぎ澄まされた刃が少女に到達する間際、フォォォォンと不気味な響きが鼓膜を突きあげた。


「何!?」


 少女をぐるりと囲む形で出現した衝撃波によって、鉄扇が無残に引き裂かれる。残骸としか形容し難い鉄破片はほとんどが歩道に降りそそぎ、幾つかはトタン屋根に突き刺さった。


「卑怯、姑息、嫌イジャナイ。ダカラ殺ス、殺ス、殺シテアゲル」


 多少のノイズを交えながら、異形は少女の声音を出す。

 かろうじて視認できる顔面の下部で、赤くぬらりとした舌が蠢いた。


「――っ」


 異形の少女が背を丸めた姿勢のままで、一歩、夜弥へとにじり寄った。


 ガギガギと手指の骨で屋根をひっかき、最初は緩慢に、徐々に俊敏さを増して肉薄する。

 それにあわせ、乳房が熟れ過ぎた果実のように激しく揺れた。しかし、これに欲情できる者がいるだろうか。それよりも、白骨の表面で筋や血管がのたうつさまが目に飛び込んで来る。白骨化は今なお続いている様子で腹のあたりは腐乱状態だった。


「私ハ人間トハ違ウ。有能ダカラ、無能ジャナイ」


 あまりの醜悪さにひるみ、動けずにいた夜弥だが、少女の指骨が裾を掴もうと動いたのに気づき、ばっと身を退く。夜弥が後退して空白となった場所にカタリと指を置き、異形は顔をあげる。


「人間、無能。不能。コノ私ガ、裏弁財ウラベンザイガ殺サナイト」


 前髪の合間からのぞく腐った眼球は眼窩にははまっているものの白く濁り、ひどく醜かった。人の目ですらないそれが、仏の眼差しであるはずがない。

 それでも仏の名を持つ異形は拝む。また不協和音が吹き鳴らされる。

 指先から生まれた衝撃波は、今度は夜弥に目がけて放たれた。


「当たればひとたまりもないな……」


 まさしく、空気の弾丸である。腹に風穴が開くどころではない。

 夜弥は地面を蹴り、大きく後退したが、そこで衝撃波が放射線状に広がった。一気に夜弥の立っている位置も射程距離となる。


「何じゃと……!」


 慌てて、更なる回避行動に移ろうとしたが、間に合わない。


「くっ」


 反射的に扇子を広げ、盾代わりに突きだした。だが、鉄扇が衝撃波に対抗する強度を持ち得ていないのは、立証済みだ。路地からあがったアヤカの絶叫が耳を掠めた。


 アヤカは叫びながら、夜弥の側にいこうと走っていた。

 トタンの破片が粉塵となり、夜弥の姿を覆い隠す。鈍色をした濃煙のあいまで、鮮紅の血飛沫が舞い散った。


「夜、弥ッ!」


 鈍重な身体を引きずって、アヤカは夜弥がいる家屋の屋根へと這いあがろうとする。しかし腕に力が入らず、無様に落下した。

 地面に蹲り、アヤカは血を吐く思いで夜弥を呼ぶ。


「夜弥、夜弥……!」

「やかましい、何度も呼ばずとも聴こえておる」


 煙が晴れ、夜弥はよろめきながらもそこに立っていた。

 右の袖は引き裂かれ、椿の紋様が不自然に千切れている。肌には無数の傷跡が走り、血がほとばしっていた。鉄扇はかろうじて無事だったが、中心に握り拳大の穴があき、扇子としては二度と利用できなさそうだ。


 痛々しい風体で佇む夜弥は唇を歪めて、妖しく笑んだ。


「こんなものか」


 裏弁財が怪訝そうに頭をあげた。


「……理解不能」

「この程度の力でわらわを殺すとのたまうのかえ……!?」

「虚勢ヲ」


 裏弁財が掌を合わす。夜弥は動かない。

 骨と骨を擦る度、音が大きくなってゆく。


「コレデ死ヌ」

「――貴様がな、裏弁財……ッ!」


 夜弥が叫んだことを理解できなかったのは、恐らく裏弁財だけだっただろう。

 事は裏弁財の背後で起こっていた。最初に砕け散った扇の欠片が、誰も見向きもしなかった鉄屑が、朱い輝きを宿し、重力を無視して舞いあがった。


「世は無常、されど至極無上のめいならば、花弁散らすも自然のままに……」


 鉄破片は赫灼かしゃくと薄闇に尾を引き、狙いを澄ませるふうにぐるぐると裏弁財を取りかこむ。

 ここでようやく、自身がどういった状況に置かれているのかを理解したようだ。裏弁財の顔色が変化する。震えているせいか、手をすりあわせても音がでない。


「ヤ……、イヤダ……!」


 

「咲き誇れ、飛花落妖ひからくよう

「嗚呼ァァァアァアァァァァァアァアァ――――――――――ッ!」


 鉄の桜花の洗礼は、無慈悲なまでに、裏弁財の腐肉を決裂した。

 流星や花火と例えるのが妥当な光線を、されどアヤカは夜弥の言葉とおり桜のようだと思った。


 季節の常識に捕らわれず、重力の支配すら受けず、咲き誇る朱は魂までも染め抜く。


 黒い血飛沫を受けてもなお、高潔なる朱が穢れることはない。穢すことはできない。

 それはおそらく、夜弥の魂と同様の朱さなのだろう。


 アヤカが夜弥の勝利を確信した、その時だった。


 夜更けの空を灼々と旋回する深緋に染まりながら、一際大きな不協和音が響いた。衝撃波に弾き飛ばされ、花弁が地面に叩きつけられる。

 重力に囚われた花弁は鉄屑へと帰化し、鮮烈な光輝を失った。


「ジャナイ……」


 焼けただれた顔面を露わにして、裏弁財は我を忘れたように喚いた。


「私ハ無能ジャナイッ! 人間トハ違ウッ、あんな家畜共トハ違ウンダッ! 私ガ殺サナイト、私ガ殺スンダ! 殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺スゥゥゥ!!」


 瞬間、裏弁財の姿が消えた。

 消滅したのではない、視角から死角へと移動したのだ。


「屋根から身を投げおったか!」


 夜弥の表情が再び、険しさを増す。

 無論、この程度の高度から落下したとて、仏魔は怪我ひとつ負わない。下の通りには無数の人間がいた。焦燥感に駆られ、裏弁財を追って夜弥が路地へと飛び降りる。しかしそこにはもう、正気を失った集団しか存在しない。


 懸念したとおり、裏弁財は群がる人々の中に紛れたようだった。獣じみた四足歩行ゆえに、一目では見つからない。銃が火を吹くと一旦人波がバラけるので、それを見計らい、目を凝らす。


「いた……!」


 裏弁財を発見した夜弥は今度こそ逃がさないよう、しっかりと見据えて跳躍する。わずか数秒でそこに到達し、完全に滅する……はずだった。


「まや……?」


 無限に打ち集う人雪崩に混じって、見知った顔が押し流されてきた。ただ一人正気を保ち、周囲の人間の異常な様子に怯えきっている。


「委員長!?  駄目です、こっちに来ては……」


 それが失言であると、キサラギが気づくはずもない。いまの夜弥と仏魔の双方が目視できないキサラギには、状況を理解することは不可能だ。夜弥だけが、キサラギの不用意な発言を呪った。

 追い詰められ、逃げ惑うだけだった裏弁財の唇が笑みの形に持ちあがる。


「やっ、なに……っ!?」


 裏弁財の白骨化した指がトリイの足に巻き付く。裏弁財の姿が見えないトリイは、足に絡まる異物の感覚に身を硬直させた。動けないらしく、もがく度に顔面が蒼白になってゆく。

 対し、裏弁財は悪辣な笑顔で指先を軽くこすりあわせながら、夜弥へと振りかえった。


「動クナ……! 動イタラ、娘、殺ス」

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