第二十綴 教室と同級生と鬼の姫子と
ざわざわと賑やかな教室。
三階の教室から見おろせる校庭にはこうこうと電灯が燈り、派手な色彩をまき散らす夜の街に溶けこんでいた。教室ではいま授業が終わったところだが、時計の針は十一時を指している。
夜間高校に通う生徒の多くがそれぞれ、複雑な事情を持っている。もとの学校で暴力をふるい夜間にまわされてきた不良もいるが、大多数を占めるのは勤労で昼間就学できない生徒だ。 そのため、外国籍の人間も多いものの、この教室には日本人ばかりが机を並べていた。 そんな夜間高校だから、アヤカもこんな変わった髪でも差別されることなく、ふつうに馴染むことができた。中学の頃はひどいものだったが、いまさら思いだしたくもないので思いださないことにする。
誰もが帰宅の準備、部活があるものはその準備をしているなかで、嫌でも目立つ赤い髪は机を枕に爆睡していた。
蛍光灯の後も夜弥の質問責めは続き、家中の物を説明し終わった頃にはすっかり夜が明けていた。蝉が騒々しく合唱をはじめ、朝日の登場に怯んだかのように次々とネオンが消えてゆく。窓の外に広がる朝焼けに目を細めながら、アヤカの心は真っ白な灰と化していた。
後、二時間ほどでバイトが始まってしまう。親類の援助なしで生活をしているアヤカはバイトを掛け持ちして、夜間高校へと通っている。
一時間だけ睡眠を取って出勤するのも、逆に辛いだろう。
「……バイト、行ってくるわ」
夜弥を自分のベッドに寝かせつけ、絶対に部屋からでないように約束させたアヤカは睡眠不足と疲労で千鳥足になりながらバイトに赴いた。
ラーメン屋でのバイトは疲労を押し殺してひとつのミスもなく完遂したが、教室に着いた瞬間、どっと疲れがでたようだ。机に突っ伏したきり指いっぽん動かさない。
ホームルームがはじまる前からいままで、アヤカは死んだように眠っていた。
朝七時から三時半までの八時間労働に加えて、高校が終わってからの三時間バイトを掛け持ちしているアヤカの苦労は周知の事実であったため、生徒はおろか教師まで彼を無理に起こそうとはしなかった。
誰もがアヤカの存在を忘れ始めていた頃、派手な打音が教室に響き渡った。
「あがっ」
脳天に強い衝撃を受け、アヤカは一気に心地よい眠りから引き戻される。必死で焦点を定めたさきに立っていたのは、ノートを片手に構えた女子高校生だった。
つりあがった瞳からは気の強そうな印象を受けるが、真面目であるが故の正義感といったところだ。斜めうえで結ばれた髪が、子犬の尻尾のごとく左右に揺れている。
「トリイ……? 何すんだよ、人が気持よく……」
「もう授業全部終わっちゃったわよ?」
続々と教室を後にする生徒達を見まわし、アヤカはようやく現状を把握した。いまさら羞恥はないが、みなが気を使ってくれたのだとおもうと申し訳ない気持ちがわいてくる。
「あー、わりぃ」
「分かったら準備しなさい。それから、私のことは委員長でしょ?」
トリイ、こと
「ねえ、
「別になんともねーよ。ただ昨日の夜寝かしてもらえ……あー、委員長に言ってもしょーがねーか」
「なんか、あやしい言いかたね」
大人な想像でもしたのだろうか。トリイの頬がぽっと赤みを帯びる。
「そっちだったらどれだけ良かったか……マジで」
「ほんと、何があったのよ? ……まあ、いいけどね。私のノートを貸してあげるから、写しときなさい」
「サンキュ、ん?」
手渡されたノートは大きさこそB5だったが、学習用のノートとは思えないほどマンガチックな表紙だった。というよりもモロ、マンガのイラストだ。小柄な少年を取り囲むように三人の美青年が寄り添い、はだけた制服を恥じらいもせず、意地悪そうに笑っている。
趣味の本だと気づいていないトリイは腰に手をやり、年上面で説教した。
「
ぐいと押しつけられ、イラストが眼前に迫る。
青年の一人に手綱のようにネクタイを握られ、羞恥に涙ぐむ少年の表情へ視線が釘づけになった。健全な男子生徒であるアヤカには、正直、どうコメントすればいいのか判断に困る。
「……俺は何の勉強をさせられるんですかね?」
向上意欲どころか、そっち方面へ目覚める気すら毛頭ないのだが。
「なんのって……あ、やだっ!」
自分の提出したものがBLの同人誌であった事に気づき、トリイは慌ててアヤカの手から同人誌をもぎ取る。取りかえすのはいいが、危うく指が脱臼しそうな勢いだった。
「はにゃぁ……、何やってんだろ私」
余程に恥ずかしかったのか、耳まで赤くなっている。
「んな思いつめなくてもいいって、趣味は人それぞれだろうし。……俺はそっちに踏みこむ気ねーけど。現在過去未来、皆無だけど」
「それはそれで、残念かも……。せっかく相手もいるのに」
「こわいこと言うなつーの!」
ほんとうに残念そうなのが怖かった。腐女子が男子に興味を持つとしたら、そういう意味あいだけだと聞いたことがあるが、男としてはヤンデレ以上に勘弁してほしい。同人誌を鞄にしまい、黄色チェックのノートをあらためて手渡す。
「ん、じゃあこれで間違いないから」
「明日、返せばいいか?」
「書き写すのが大変だったら、コンビニ使いなさい」
「いや、いい。金がもったねーもん」
コピーも案外馬鹿にならない。時間はかかるが、ペンで書き写したほうが得だろう。夜間に通っているだけあって、トリイにも節約根性が根づいている。「そうね」と同意し、大変なら手伝ってあげると笑った。
今日は夜のバイトはないが、なにしろ疲労がもの凄い。早く帰って睡眠を取ろうと荷物をまとめ、教室を出ようとした時だった。
「アヤカ先輩、いま帰るところですか?」
「げ、ラギ」
美青年と呼ぶのが相応しい甘いマスクに微笑を湛え、ひとりの男子生徒が教室へと入ってきた。
「
「いつもいってますけど、ラギでいいですよ? 本名よりそっちの方が好きなんです。先輩が決めてくれた愛称ですから」
そういって、
みるからに柔らかそうな金髪が身にそぐっており、日系の顔立ちでありながら異国の雰囲気を醸しだしている。それもそのはず、彼はクオーターなのだ。祖母がギリシャ人だったらしく、金色の髪は地毛で僅かに緑がかった目もカラーコンタクトを入れているわけではない。
女子生徒から歓声があがり、熱い視線がそそがれるなか、
「先輩、僕もこれから帰るところですし、久しぶりに一緒に帰りません? 今日は深夜の仕事はない曜日でしょう?」
「なんで、お前が俺のバイト先のシフト、知ってんだよ?」
「調べたんです、先輩のことはなんでも知っておきたいですからね。さ、帰りましょう?」
屈託のない笑顔で微笑みかけるキサラギの誘いにたいし、アヤカは呆れと嫌悪を露わにする。
「相変わらず、暇な奴だな……。つーか、俺んちとお前の家は逆方向なんですけど? 言っとくけど、男なんか送らねーぞ」
「大丈夫ですよ。僕が送りますから」
にこり。にこにこ。
屈託がなければないほど、アヤカとしては身の危険を感じざるを得ない。キサラギは女顔ではあるが、男だ。同性にここまで懐かれてヒかない男がいるだろうか。 トリイがさきほどいったことが現実になるのはなんとしても回避したい。
しかも、今日は部屋に
「あー今日はちょっと用事あんだよ、また今度な」
ありきたりな文句で断ろうとすると、嘘を見抜くふうに凝視される。こういう時のキサラギは、意外にも勘が鋭い。後ろめたくはないはずなのに、ぎくりとしてしまう。
「……オンナですか?」
「はぁ!?」
思わず、大声を出してしまった。
女といえば女だが、キサラギが想像しているような女とは違う。慌てて誤解を解こうとすると、それよりもさきにトリイが会話に乱入してきていた。
「ちょっと、それホントなのっ!?」
「誤解だっつーのっ! そんなんじゃなくて、
余計なことを口走ってしまったと、気づいた時には遅かった。
二人の目が確信を得たように輝く。
「いや、違うんだって。親戚の子を預かっててさ。確かに女だけど、まだガキだぞ? 子守みたいなもんで……」
「ほお、わらわを
ここで聴こえるはずのない不機嫌な声が耳穴に飛びこんできて、アヤカは硬直する。半開きのままで口の端をひきつらせ、ゆっくりと教室の扉を振りかえる。
「おなごの扱いかたも知らぬ、青二才が」
開け放たれた引き戸の向こうに、椿の振袖を引きずった夜弥が立っていた。
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