第十八綴  血の契りは結ばれた

「いつしか人間がのことを思いだすときがくれば、そのときはわらわが皆に真実を告げ、物の怪とひとがともにあったあの懐かしき倭を再建する。それが暗鬼あんきさまとの約定じゃ」


 そっと胸元で手を重ね、夜弥が眸を閉ざす。心臓が送りだす血の脈動に宿る、なにかを確かめるふうな仕草だった。かえす言葉が見つからず、アヤカは終始黙りこくっていたが、ここでようやく口を開いた。


「千五百年前っつーことは飛鳥時代だよな。けどそんなことは……史書には残ってねーぞ? ってか、そもそも妖怪の実在を立証する資料自体がねーし……」

「なんじゃ、わらわの話しを疑うのかえ?」


 片眉を吊りあげ、夜弥が憤りを露わにする。

 だが、アヤカが夜弥を疑うはずがなかった。あれほどの異常事態に巻きこまれて、信じないほうが現実的ではない。 重ねて、アヤカには夜弥を信じる理由がもうひとつあった。


「実はさ、俺の親父、民族神学者だったんだ。俺が子供の頃に死んだから、なにやってたのかはあんまし記憶ねーけど、妖怪のことを研究してたらしい。ま、さすがに自分が物の怪とかかわることになるとは想像してなかったけどな」


 テレビの裏歴史特集などを観て、史書などあてにならないとおもったことはある。なにせ聖徳太子がいたか、いないかもはっきりとしないのだ。しかしさすがに物の怪が実在し、人間を護ってきたなど考えもしなかった。 所詮、人間にとって教科書に明記されていることが全てなのだ。

 歴史書にたいして猜疑心をいだく人間などいないし、それ以上を知りたいと思う者は極少数だ。アヤカとてテストの点数稼ぎのためだけに歴史を覚え、鵜呑みしてきたひとりだった。


「しっかし、仏が妖怪……つーか、外国の物の怪だったなんてな」

「そう、不思議でもあるまい。仏はぶっけ、ぶつじゃ」

「なるほど、確かにな」


 よくできているもんだ。


「なんで、倭は侵略されたんだよ」

「倭は強いちからをもった土地じゃ。物の怪がこれほどまでに栄えしもそが所以。異国ノが欲するのも無理はない」


 土地や資源の奪いあいは、人あらざる者の間でも続いてきたわけか。現在、日本は戦火とは無縁だが、戦争の記録はいまもどこかで刻まれ続けている。おそらく人間がいるかぎり、これから先も永遠に。


「そのような顔をするでない。嘆いても恨んでも、過去は変えられるものではないのじゃ。もう過ぎ去ってしまった……遥か、遠い昔にな」


 そういう夜弥は未だ、過去に囚われているようだった。

 魂すら塗りつぶす悔恨を振り払い、夜弥がアヤカへと視線を戻す。


「これより語るは、わらわとうぬの爾今じこんについてじゃ」

「ジコン?」

「……これからについてじゃ」


 夜弥は呆れたようだったが、すぐに気取り直し、透徹した眼差しでアヤカを見据えた。


「人間が寝返った事により、われら物の怪が弱化されたのは、物の怪自体が人の想念によって具現化しているからじゃ。つまり怪の存在を信じ、怪をいつくしむ人間が傍らにおらねば、われらは無力。風や花などに身をやつし存在を留めることはできるが、それではあまりに脆い……」


 机の上に乗せていたアヤカの指に、柔らかなものが触れた。

 みると夜弥がアヤカの手を取り、指を絡めている。それは血を交換した時のことを想起とさせた。


「わらわとうぬは血の約定を交わした。物の怪を具現化させる者のことを《顕人あらひと》と呼ぶが、血を混ぜるあの儀式は《顕人産霊あらひとむすび》と申す。血の契りにより、うぬはわらわの顕人となった。うぬの血と想念がいま、わらわを現世に繋ぎ留めておるのじゃ」


「俺の血が、お前、を……」


 淡雪の如き肌に浮かぶ、緑青ろくしょうの血管に視線を落とす。

 アヤカの中で夜弥の血が脈打つように、夜弥のあかにはアヤカの緋色ひいろが融けているのだ。呪いは夜弥に戻ったが、どくどくと心臓が押しかえす血潮にはまだ夜弥がいる。


「されどわらわは鬼の血を継ぐもの……物の怪のなかでも異なる存在じゃ。約定が成立する相手は滅多におらぬ。例えどれだけ物の怪を敬い、近しくあろうとな」

「約定が結べない可能性も高かったのかよ」

「否、わらわは確信を得た者としか契りを交わさぬ」


 結約は偶然ではなく必然であったと、夜弥は断言する。

 

「うぬは、ほんに特異な存在じゃ。これもまた、鬼の髪が起こせし御業みわざかのう」


 不意に伸ばされた夜弥の指が緋髪の間に差しこまれた。彼女は頭皮に甘く、爪を立てる。傷つけようとしているわけではなく、むしろ愛しむような仕草だったから、アヤカは振り払わない。


「鬼一族の姫たるわらわの顕人あらひとになれるのじゃ。身に余る光栄と心得よ?」


 やがて夜弥はアヤカから手を離し、どこからか取りだした扇を口もとにあてて微笑んだ。

 傲慢な言動だが、それだけのことを口にしても違和感なく似合ってしまうのは反則に近い。 なにより「自分だけだ」と言われるのは、悪い気がしなかった。


 不快ではないからこそ、怖いこともある。

 頭の奥で壊れた本能のかわりに理性がサイレンを鳴らしているのも、わかっていた。ここで首を縦に振れば、ふたたびに日常には戻れない気がする。反射神経と恐怖心が壊死している状態では頼れるのは理性だけだ。


 ――けど。いまは黙ってろ。

 いまだけは、理性がくだす冷静な判断なんていらない。


「あーはいはい、俺は鬼姫さんの下僕です?」

「無性に腹が立つ口の利き方じゃの」


 パンパンと高圧的な音を立てて、夜弥は鉄扇を机に打ちつける。口こそ笑っていたものの、眼差しは鋭く笑顔には程遠い。


「いや、下僕でも文句はねーから。不満はあるけどな。言えないだけ」

「ほう、わらわの耳にはどちらもはっきりと聞こえたが?」


 夜弥は青筋を立てながらも、楽しげにみえた。

 こうして戯れることのできる相手など、いままでひとりもいなかったのだろう。

 深海に身を沈める乙姫を演じてきた夜弥は、当たり前への憧れすら押し殺して来たに違いない。人魚姫は地上に憧憬を抱くことで身を滅ぼしたが、夢見ることを捨て去ったその聡さこそが切なく思えた。


「何はともあれ、うぬに伝えておかねばならぬ事は全て話した。次はわらわの質問に答えてもらうぞ。よいな?」

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