弐ノ草紙 鬼のつかのまの洗濯
第十六綴 日常と非日常の境
深夜になればなるほど、明るさを増す歓楽街。
眠らない街に面する小路を百メートル程進んで通りに抜けると、正面に古びた三階建ての建造物が立ち塞がる。築三十年が経過していてもおかしくないこのオンボロマンションがアヤカの住居だ。元は白だったのだろうと辛うじて推察できる煤色の外壁から分かるように、外観はひどいが、なかはそれほどぼろくはない。部屋にはいってしまえれば、普通のマンションと大差なかった。1LDKにユニットバスつきの部屋は家族で暮らすには狭いが、一人暮らしの学生には丁度いい広さだった。洗濯機くらいならば廊下にもおけるし、寝室も五畳あればそれなりにレイアウトできる。
厳密には築十五年程度だそうだが、真上に走る高速道路が原因で外壁が変色している。交通量の多いゴールデンウィークなどは深夜まで騒音がすさまじい。
「ま、おかげで家賃が激安だったんだから、高速道路さまさまだな」
エレベーターが設置されていない為、夜弥を背負ったまま階段を上がる。
アヤカの部屋は二階の201号室だ。他の部屋は空き室が多く、二階で暮らしているのはアヤカだけである。寝間着に着替える際、帯の折り目に挟んでおいた鍵を取りだし、扉を開ける。
「相変わらず、中は暑いな……」
扉が開くや否や、室内からむぅっとした熱気が溢れだした。場所が場所である。防犯の為、窓を開けたままでは出掛けられない。よって夏場はいつも蒸し風呂状態だった。
「取りあえず、こいつをおろさねーとな。リビングのソファでいいか」
ダイニングの照明をつけると、見慣れた我が家の風景が広がる。
帰ってきた、と言う実感がようやくに湧いた。家族が待っていないせいか、バケモノに襲われた時も家のことなど浮かんでこなかったが、あらめて生還すると感慨深いものがある。
倦怠感が一気にのしかかり、現実と日常に帰還した喜びに身を震わせた。
「あー、俺生きてんだな……」
今更ながらにそんな言葉が零れる。
だが生を実感する前に、まずは夜弥をどこかに寝かせないといけない。さすがに肩が凝ってきた。恐らく彼女の体重はそれほどでもないのだろうが、着物が驚くほどに重い。
ベッドに寝かせるのには抵抗があったので、赤いソファに夜弥をおろした。
スプリングが微かに軋み、夜弥のからだはビニール製のクッションに沈む。はらりと黒髪が顔に流れ、
夜弥は「ん……」と吐息を洩らしたが、目を開ける様子はない。寝顔は幼く、だが長い睫毛はどこか憂いをはらんでいる。穏やかな寝息から察するならば、悪夢はみていないとおもうのだが、表情は曇っていた。
「夢自体に抵抗があるのか……?」
知りあい曰く、アヤカもまた眠っているとき、しかめっ面をしているらしい。その時は悪夢を見ていなくても、悪夢を見続けると眠ることにたいする恐怖が生まれると誰かが言っていた。
「それか、寝苦しいのかもしれねーな」
今年の夏は都心でも気温が低く八月中旬の現在でも二十五度を超える日はない。まれにみる冷夏だとニュースでは騒いでいた。室内の蒸し暑さに変わりはない。エアコンをつけると電気代がかさむので、窓を開けて扇風機をまわす。からからとまわりだした羽は、すぐに爽やかな夜風を室内に巡らせた。
「……とりあえず、飲み物でも入れるか」
夜弥はまだ起きそうにない。
このまま寝せてやってもいいが、
キッチンに入り、何か飲めるものはないかと冷蔵庫を探す。
のっぺらぼうな冷蔵庫の中にはだいたい三日分の食料が入っている。といっても昼はバイト先で食べ、夜は学食なので自分で作るのは朝食と休日分だけだ。鮭とか卵くらいしかない。
かろうじてパーシャルに〈やーい、お茶〉の缶がひとつ入っていた。購入した記憶がなく賞味期限をみると今月の終わりまでだった。ぎりぎりだが、大丈夫だろう。
「これだったら、夜弥も飲むだろうしな」
コップを持って、リビングへと戻る。
二つならべたコップに茶をそそいでいると、それを待っていたかのように静かな声が掛かった。
「アヤカ」
「ん? 目が覚めたのか?」
夜弥は薄く目蓋を開き、天井を見あげていた。眩しげに細められた目から察するに、蛍光灯の光があわないようだ。確かに蝋燭の火と比べれば、さぞ瞳孔に突き刺さることだろう。
夜弥はゆっくりと身体を起こし、三日月の眸でアヤカを見た。
「目が覚めておらねば、口も利けまいて」
「……なるほど、道理」
相変わらず人を喰った態度の夜弥に、不思議と安堵感を覚える。
「で、話してくれるのか」
むかいあって話そうと、ソファーのまえに腰をおろす。夜弥は澄んだ眼差しでアヤカを見据え、やがて静々と口を開いた。
「どこから話せば良いのやら……、聞かれるのも話すのも、初めてじゃから迷うの。そうじゃ、これは恐らく、この世のどの文献にも記されておらぬ忌まわしき歴史……。倭に棲まいし物ノ怪と異国より渡来せしめた仏魔との戦いの伝奇成り――」
そうして夜弥は語り始めた。
千年以上もの永き歳月、その身に背負い続けて来た記憶と、それにともなう幾多の激情を。
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