第十五綴  闇に潜むは誰彼ぞ

 燃え落ち、灰と化していく座敷の片隅で節足の影が蠢いた。


『アンタァ……、アンタァァァ……』


 ふらふらと不安定によろめきながら、割れた声で土蜘蛛へと呼びかけるのは絡新婦じょろうぐもである。八つあった歩脚は糸の拘束を抜けだす際にみっつがもげ、残りはたったの五本だ。

 昆虫の仲間にもなれぬ蜘蛛は、蜘蛛でさえなくなって、惨めな声で泣き叫ぶ。


『ナンデ、コンナ事ニ……ッ』


 その啼哭を聞きつけたわけではないだろうが、襖の前には人影が立っていた。

 

八手観音やつでかんのう八足観音やそくかんのん

『っ……清狂せいきょうサマ……?』


 ぐるりと涙で崩れた人面をまわし、絡新婦が振りかえる。

 複眼で見つめるさきには、狩衣装束かりぎぬしょうぞくに身をつつんだ細身の青年がたたずんでいた。襟元には幾つもの勾玉が連なり、焔の紅さをねかえしてぼんやりと発光している。紫草むらさきで染色された衣から、高貴な身分であることが窺えた。

 端麗な面差しに淡い微笑を浮かべて、青年は絡新婦と土蜘蛛を眺めている。一見すれば温厚な笑みに安堵感を覚え、絡新婦が駆け寄っていく。


『清狂サマ、アノ人ガ……オ助ケ下サイ、主人ヲ助ケテ下サイ……!』


 泣き縋る絡新婦を見あげて、なおも清狂は顔色ひとつ変えない。仰視ぎょうししているにも関わらず、どこか睥睨へいげいしているようだと気づいた時、清狂が薄い唇を開いていた。


「あかんなァ」


 いっさいの感情がふくまれない、穏和で静かな一声だった。

 だからこそ、絡新婦は総毛立った。


 清狂は指先を動かし、いつの間にか構えていた紙切れを投げ放つ。

 細い指を離れた一枚の呪符は炎を潜り、一直線に土蜘蛛へと向かった。生き物のように滑降する札が土蜘蛛に触れた瞬間、火に焼かれながらもいまだ生き長らえていた肉塊が潰れた。熟れすぎて腐敗しはじめた果実を踏み潰すような、なんの感慨もない作業だった。

 ぶしゅっと生々しい音がして、噴出した油の雨が降りそそぐ。黄緑色の液体は火を煽り、どこかで屋根の一角が燃え落ちた。

 火の粉と油で服を汚すことを嫌い、清狂が身を退く。汚れを気遣う余裕も平常心も失くした絡新婦は、もはや原形を留めていない土蜘蛛を前にしてひしゃげた悲鳴をあげた。


夜弥姫よみひめ世籠よごもる隠ノ宮の守護が消滅したゆーて、部下から伝達があったんは、今から二十五分前のことや。そやけど、実際に守護が弱まったんは申ノ刻……六時間も前になるし、完璧に守護がのうなってからもほどらい一時間半は経っとる。この意味、分からへんはずがないよねェ? そや、東京南方を管理しとる君ら八手八足夫婦観音やしゅやそくめおとかんのんからの報告がなかったんや」


 鼓膜を逆なでする叫喚を背景にして、清狂は当てつけがましく述べる。炎上する肉塊など、眼に入っていないようだ。実際、鬼に破れた仏魔などごみ同然なのだろう。

 

「難儀やなァ……。つかえへん走狗そうくを持つと、計画みィんなワヤクチャにされてもて、かなわんわァ」


 困った困ったと連呼しながら、彼は愉しげな表情を崩さない。


「責任の取り方は、ぼくが言うまでもあらへんよなァ?」

『ワ、ワタシハアノ強欲ナ男ニ無理矢理付キ合ワサレタダケデ……ッ』


 我が身にむけられた殺気にたじろぎ、絡新婦は夫に寄り添う妻の面を易々と投げ捨てる。醜く生に執着する蟲にたいして、清狂は白狐を彷彿とさせる双眸を薄く開き、唇を吊りあげた。


「この期に及んで、命乞いかいな。分かっとるやろ? ぼくは不細工なモンが嫌いなんや。おんなじ空気を吸っとるだけでも虫唾が走る。

 ――もう去ねや」


 パンッと乾いた音を立てて、絡新婦の胴体が弾け飛んだ。

 散り散りになった節足が火の海を割り、恐怖に染まった顔面はぼこりぼこりと水ぶくれのように膨れあがり、体液を巻き散らして破裂する。

 醜い生に相応しい醜い死だった。


 黄緑色の雨が衣に付着する前に清狂は座敷から退室し、指さきすら動かさず触れもしないままに身長の三倍近い襖を閉めた。


 煤を被った袴の裾をはたき、烏帽子を正す。廃墟のごとき有り様となった廊下を見まわせば、十五世紀もの途方もない時が押し寄せてくるようだった。

 宮の主たる夜弥よみが何者かと契約し、夢からうつつへと目醒めたことにより時の影響を受け始めた建物は、すでにあちらこちらで倒壊が始まっている。廊下は慎重に歩かなければ床が抜け、軋む天井からは木屑が絶え間なく降りしきる。

 数時間前までここで人が暮らしていたとは、とてもじゃないが思えない。しかし目蓋を閉じると、微かに人の気配が残っている。

 それにともなって屋敷全体から感じるのは……


「ひゃあ、強烈な妖気やなァ……これが鬼の気ィか」


 妖気が濃すぎるせいで人の気配が掻き消され、彼ほどの術者でも個人の判断は難しい。しかし鬼の姫と契約した人間の身元は、すぐに判明するだろう。


「下界にはぼくの最も信頼する人間を配置しとるしなァ」


 廊下を曲がる際、最期に座敷を振りかえった彼は、これまでとは違う笑みを浮かべていた。それは相変わらず愉楽をともなうものであったが、いままでのどれよりも狂気を宿した一笑だった。


「愉しみやわァ。鬼の姫ちゃんはどないな声でいて、どないな色の血ィを流して、どないな眼ェでぼくを憎んでくれるんやろか……?」


 うっとりと、快楽に酔った囁きは何人なんびとの耳にも届く事はなかったが、姫を護り続けていた宮だけは震えを大きくし、憂懼ゆうくの果てに崩落した。

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