第十四綴  呪ふは愛らしき鬼の姫

「綺麗だからな、お前」


 夜弥は茫然とアヤカを見詰めかえす。

 そんなことははじめていわれたとでも言いたげに視線を彷徨わせ、やがて莟が綻ぶように微笑んだ。夜弥はぎゅっとみずからのからだを抱きすくめる。袖を握り締める指さきは、細かく震えていた。


「ほほほ、物の怪を恐ろしがらぬものなど久方振りじゃ……」


 その久し振りというのがいったいどれくらいぶりなのか、アヤカには想像もつかない。それでも彼女が胸に隠した悲哀を吐露するのならば、アヤカはいくらでも受けとめてやるつもりだった。


 しかし夜弥はそうせず、次に顔をあげた時には普段どおりだった。


「手をかせ。はよう封印しなおすのじゃ」


 もう自力では持ちあがらないアヤカの掌を、夜弥が強引につかむ。


「わらわの怪配けはいは純度が高い。垂れ流しにしては、よからぬ者に感づかれぬとも断言できん」


 指先を組みあわせ、アヤカのなかに雑ざっていた呪いが再び夜弥に戻ってゆく。それにあわせて、夜弥の身体は徐々に縮みはじめ、元通り子供の姿になるまで時間は掛からなかった。 夜弥はアヤカから手を離し、かたまり始めた鮮血を舌で舐めとる。幼い容姿のままでも夜弥は充分に色っぽく、妖しげな魅力を備えていた。


「ホント、こんな状況じゃなきゃ、一目惚れしてたかもな」


 この姿の夜弥に手をだしたら犯罪だ。マイヅルさんにも顔向けできない……などと間の抜けた思考ができるのは、痛みがひいたおかげだ。すっかり頭も冴え、心なしか身体も軽い。


「つーか、熱っ」


 じりじりと髪先をのぼってくる焔で、アヤカは我に帰った。

 あまりの安堵感にわすれかけていたが、顔をあげて座敷が火の海であったことを思いだす。見れば、頭上ぎりぎりまで焔の舌が迫っていた。

 双眸に映り込む赤と黒に状況を把握しなおし、アヤカが立ちあがる。


「ともかく、ここを出るぞ。蜘蛛と一緒に丸焼けなんてゴメンだっつーの」

「その必要はない」

「はあ?」


 赤く照らされた横顔は、どこか寂しげに燃えつきていく座敷を見渡す。憂いを秘めた表情はどうにも不安をあおり、アヤカはぴくりと片眉を持ちあげた。


「もしかしてお前……」


 宮とともに果てるつもりなのか、と続ける前に、眼前の風景が陽炎のごとく揺いだ。自分の目を疑い、瞬きを繰りかえしたが、何度見てもせかいは震えている。


「今度はなんなんだよ……?」


 水彩画に大量の水を零す。編物を一本の毛糸に戻す。どちらの作業とも換言できる、世界を侵食する揺らぎは、あっという間にアヤカが視認していた光景すべてをあやふやにした。曖昧かそうでないものかに二分されてゆくなかで焔は夢になり、夜弥はうつつに残され、座敷はまぼろしと消え、屍が無数の紙人形に化ける。

 

 気がつくと、アヤカは芒野原すすきのはらに立ちつくしていた。

 先刻せんこくまで座敷にいたことが嘘のように、冷たい夜風が素肌を撫ぜる。着崩れ、さらには緑の油に塗れた和服と、傍らに寄り添う夜弥だけがすべての証明だった。

 満月を浮かべた芒野は、はじめから宮など存在していなかったと断言して曲げない。

 アヤカは、ともすれば縋りつくふうな視線で夜弥を見おろす。しかしたいする夜弥はアヤカなど振りむきもせず、ただ彼女の眸と酷似した盆の月を仰瞻ぎょうせんしている。

 月は金光きんこうの冠を大地へ投げかけ、粛々と空にあった。

 

 おそらく夜弥が小宮に世籠よごもる以前より、いっぺんとて変わることなく。

 さやかに差す月光をてのひらいっぱいに受け、夜弥がほうと穏やかな吐息を洩らす。


「げに麗しき月夜だこと……」


 うっとりと睫毛を伏せる姿は月の使者を想わせる果敢なさで、アヤカもまた感嘆の息を零した。 が身体の疼きから解放されると、今度は疑問が後を絶たなくなった。明日は学校もあるのだ。いまが何時なんじかは分からないが、いつまでもこんな山奥で月見をしているきぶんにはなれない。


「夜弥」

「無粋な男じゃのう」


 ちゅんと唇頭しんとうを尖らせて、夜弥が振りかえる。機嫌を損なわせてしまったかと、アヤカが申し訳なさに曖昧な表情になる。それを見はからい、夜弥の口もとに笑みが戻った。


「よい、うぬの申したきことは承知しておる」

「お前のこと、と仏魔とかいうやつのこと、全部話してもらえるんだな」


 夜弥は頷いたものの、雑然とした周囲の様子を見まわし、意地悪な表情を浮かべる。鉄扇で顔を半分隠し、上目づかいでアヤカを睨む。


「して、わらわにこの様な場所で立ち話しをさせる気ではあるまい?」

「分かってるつーの、俺ん家に来いよ。後の事はそこで聞く」


 みれば、すぐ背後が山道出入口だ。ここからアヤカの家までは、徒歩でも二十分程度で帰宅できる距離である。タクシーを呼ぶまでもないだろう。そもそも携帯は、何時の間にかなくなってしまった。枕もとに置いた記憶があるので、明日このあたりを捜索すれば発見できるだろう。 が夜弥はなおも扇を隔てて、不満げだ。


「よもや、わらわにぬかるんだ悪路を歩かせはしまいな?」

「いい加減にしろよ、そこまで面倒見切れるか! そもそも俺は怪我人で……」

「何を申す。すでに治っておるではないか」


 怒るアヤカを眺め、夜弥が畳んだ鉄線の先でアヤカの左肩を指す。頭に昇った血が一気にさがり、アヤカは自分で自分の左肩を眺めまわした。見たところ傷はないが、骨が折れただけならばそれも当然だ。だが言われてみれば、痛みさえ奪いさる程の灼熱感がひいている。恐る恐る指で触れると、僅かに火照っているだけで痛みはなかった。


「鬼たるわらわの血を受けたのじゃ。それくらいの傷、完治しても不思議はなかろう」

「……わーったよ、背負えばいいんだろ背負えばっ」

「ほほっ、分かればよいのじゃ」


 夜弥のことだ。宮中にいた時も、籠に乗って移動していたに違いない。

 しかたなく夜弥の前で膝をつくと、すぐさま夜弥が腕をまわしてくる。ひしっと襟もとを摘まんだ指さきはか細く、頼りにされているようで悪い気はしない。

 草の根を掻き分けて、アヤカが一歩踏みだす。


 その刹那、アヤカを見送るふうに突風が吹きあがり、地面に散らばった人形が空に舞った。

 華雅な千代紙で織られたそれらは羽衣を広げ、月を背負って宙を円舞する。

 桜よりも艶やかな紙吹雪に、アヤカは息を呑んだ。


「……ゆくぞ、アヤカ」


 耳元で囁かれた夜弥の声が震えていたことには、気がつかないフリを努めた。


 月はひたすら美しく。

 夜空へ消えていく魂は物悲しく。


 仄かに微睡んだ意識のなかで、アヤカはちいさく言葉を落とす。


「案外、重……くはないです、はい」


 ぴたりと首筋に当てられた鉄線が、いまさっき化け物を両断したのは忘れられない記憶だ。瞬時に言い直し、頭部と胴体の分離を免れる。

 ほっと安堵の息を洩らしつつ、また歩きだす。彼女と約定を交わしてしまったからには、これからも様々な災難に巻きこまれ続けるのだろう。今夜の死闘ですら序章ではないかとおもう。何度も死にかけるかもしれないし、遠くない未来、殺される事もあるかもしれない。だから、きっと。


 俺は呪われている――。

 幾度となく、繰りかえしてきた言葉をもう一度頭のなかで唱える。

 出掛ければかならず大雨か吹雪になるし、遠足も運動会も大抵は嵐になるか、風邪か食中毒。年に数度は交通事故に巻きこまれかけ、籤の類はことごとくはずれる。けれど、人生最大の不運ともいえるこの出逢いを、彼は後悔しない。これからも悔やむことはないだろう。


 だって彼が出逢った《鬼》は、こんなにも綺麗だ。

 背に押しつけられた頬の暖もりも、首筋をくすぐる髪からふわりと漂うかおりすらも愛おしい。護ってやりたくなる。

 こんなに可愛らしい鬼に呪われるのならば、悪くない。

 耳をくすぐる吐息が寝息になっても、アヤカはその暖もりを惜しんで声をかけずにいた。どちらにしても家まではまだ十五分以上かかるのだ。

 それまで生意気な鬼の姫さんには、ゆっくりと眠っていてもらおう。

 振袖姿の少女を背負った青年の影は歪で、路上に延びる様はのようだった。

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