第十三綴  美しの鬼は猛る

「待たせたのう、土蜘蛛……いや八足観音やそくかんのんと呼ぶべきかえ」


 夜弥は口もとを袖で押さえ、嘲笑を隠す。しかしながら三日月形に細められた双眸が、すでに嘲りと憤怒の念を漲らせていた。

 変貌した夜弥の気迫を感じ取ったのか、土蜘蛛の顔つきが憤怒から焦りへと移り変わる。だが戦いを避ける聡さは持ちあわせていないようだった。大地を揺るがす咆哮をあげる。


『戯レ事ハモウ良イ……、絶エロ、鬼ノ血ヨッ!』


 鉤爪の斬撃が夜弥を刺し貫かんと、豪雨のごとく降りしきる。

 しかし冷静にみると、単細胞らしい雑な攻撃だ。ぎりぎりの間隙を見極めながら、夜弥が確実に蜘蛛への距離を縮めていく。するりするりと無邪気な胡蝶の仕草で、夜弥は歪んだ歩脚のあいまを擦り抜けた。


『マイマイト鬱陶シイ奴メ……ッ』


 蜘蛛が身体を縦にする。糸を吐きだす合図だ。


「夜……弥」

「分かっておる」


 糸疣しゆうの直線上に夜弥は立っており、されど夜弥は悠然として歩みをとめない。緩慢に傲慢に、たたずむ夜弥にむかって土蜘蛛が粘りけのある糸を吹きつける。

 なにを悠長なまねをしているのだと、アヤカが階段から身体を乗りだす。それだけでも全身の筋が引きつり、額や背から冷や汗が噴きでた。夜弥はこれを、夜弥自身の受けている呪いの一部だと語った。つまりこの激痛と、溺れているようなからだの重さは、夜弥が常日頃から感じているものなのだろうか。どうしようもない痛みに喘ぎながら、見ていることしかできない自分が悔しい。


 勢いよく放射された糸が夜弥のからだに触れる直前、夜弥が軽く扇を振った。それだけでふわりと糸がなびき、地面に散る。


「こんなものか、戯れにもならん」

『ナ……ッ』


 がたんと大地ごと揺るがして、土蜘蛛が左肩から床に倒れこむ。

 切断された左歩脚が焼けた畳上に落ち、途端に火の影響を受けて燃えあがる。いまさっきまで身体の一部だった肉塊が焼けていく様をみた、土蜘蛛のくぐもった悲鳴が座敷内に木霊する。


 夜弥の眼光は鋭く、情けは露ほどもみえない。

 まさしく鬼の面差しで、土蜘蛛を睥睨し、夜弥はたけった。


「わらわは機嫌が悪いのじゃ、優しゅうはしてやれんぞえ!」


 たんと裸足のつまさきが焦げた畳を蹴り、夜弥の身体が空中に舞いあがる。赤い胡蝶を連想させる軽やかな飛翔だった。焔の舌も届かない上空にあって、夜弥の赤い着物は目だつ。夜弥は優雅に袖を羽ばたかせて、鉄線を投げ放った。

 くるくると風車の如く回転する鉄線は途中で焔の渦中を潜り、灼熱を纏う。赤く爛れた鉄の風車ふうしゃは土蜘蛛に突き刺さり、よどみもなく一撃で、その胴体を両断した。


『――――ッ』


 緑の体液は油だったのか、焔の勢いを煽り、土蜘蛛は断末魔ひとつ発せないままで紅に呑みまれた。ふたつに分かれた胴体はぐらぐらと揺らぎながら、火の海へ倒れ、座敷で立っているのは舞い戻ってきた鉄線を受けとめた夜弥だけとなった。

 あれほど女中達が苦戦したのが嘘のように、味気ない結末だった。


「すまぬ、マイヅル……カサネ、アイゾメ、ツムギ……わらわの呪いさえなければ、こんなにも容易に打ち倒せたのに」


 悔恨のつぶやきがアヤカの耳朶に触れた。

 だが夜弥はすぐさま艶美な笑みを取り戻す。軽やかに跳躍して火焔を跨ぎ、汗だくになってもがいているアヤカの傍でしゃがみこむ。


「待たせたのう」


 夜弥の唇からは鋭利な牙が覗き、頭上には前髪を割って鬼の角が生えている。アヤカの頬に添えられた真紅の爪が肌を破り、つーっと血が流れた。


「……っ」


 それではじめて自分が鬼と化していることを思いだしたのか、夜弥が慌てて手をひっこめる。もはやアヤカには切り傷程度に痛みを感じる余裕もなかったのだが、夜弥は柳眉をひそめ、無理矢理に口角を持ちあげた。


「わらわがおそろしきか」

「おそろしくなんて、ねーよ」


 そんな感情、とっくの昔に失くしてしまった。壊れてしまった。

 だが、脅威を脅威と感じる本能が生きていたとして、自分は彼女を恐れただろうか。

 これほど美しい鬼の姫を遠ざける理由がない。

 これはきっと、あの角と牙があっての美しさなのだ。


 アヤカはにっと笑いかけた。


「綺麗だからな、お前」

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