第十綴   護ってやるよ、鬼の姫さん

 渡り廊下を通り過ぎ、本格的に異変をさとる。

 ここに至るまで、一度も人とすれ違わないのだ。夜中だから当然かもしれないが、これだけ自分が大立ち回りを演じたと言うのに、誰一人として起きてこないのはおかしい。


 夜弥の座敷へむかう足取りが早まる。


「ショージキ、こっちで良かったか微妙なんだけどな」


 記憶している景色を順にたどれている、はずだが、どうだろうか。この宮のことだ、夜中には部屋の配置等が変わっても不思議はない。


「ちゃんと龍も実体化してたしよ……」


 さきほど通過した廊下には玄関ちかくにあった掛け軸の龍らしき生物が、伸びていた。手酷く負傷した龍には悪いが、気絶していてくれて良かったと心底思う。この最悪のコンディションで、無駄に戦闘を重ねたくはない。


 ぶらりと垂れさがった腕は動かせないだけで、行動に支障を来すほどの痛みはない。怪我が軽度だったわけではなく、腕をまるごと炎に突っこんだみたいな灼熱感が痛覚を麻痺させているだけなのだけれど。


 そうこうしているうちに、見覚えのある襖が立ち塞がった。

 人間が利用する目的で設置されているのならば、絶対に不必要な幅と丈だ。ここに到着するまでどうして襖を開けようかと苦悩していたが、何のことはない。すでに襖は全開だった。

 座敷に設置された唯一の出入口であり、空気の通路からは黒煙が吐き出されている。闇に溶けこみながらも同化はせず、逆巻くさまは、煙々羅えんえんらの如く怪しげにみえた。


「かえり討ちにしてやるって意志表示か、ただの閉め忘れかどっちだろうな」


 中で焼き肉を食べているから換気している、というオチもありそうでない。前者だと死亡フラグが立ちそうなので、後者だと思いこみたいだけだ。


「ただでさえデジャビュなのに、これ以上古傷抉られてたまるかっつーの」


 座敷は炎につつまれていた。

 おかげで昼の数倍は明るいが、煙に遮られて闇よりも見通しが利かない。火焔が揺らめく室内を前にして、強烈な目眩がアヤカを襲った。草が燃える臭いしかしないのが、まだ救いだ。

 目頭を押さえ、トラウマを圧入しながら、赤と黒の空間へ突入する。


 敷居を跨ぎ、もう一歩なかへ踏み込もうとした瞬間、ぴたりとアヤカの足が止まった。

 今度は立ち眩みが原因ではない。


 人の、声がしたのだ。


 神経を研ぎ澄ますと、続けて刀がぶつかり合う金属音が鼓膜を震わせた。焔が燃え盛るなかで誰かが戦っている。人とは思えぬ鈍重な足音から、人外の再登場も考慮すべきだろう。


 状勢が把握できるまで物音を立てず、襖の裏に潜むことにする。

 危機察知能力の代用となるのは、思慮深さと理性だけだ。


 煙の直なかでは、ざりざりと畳を削りながらなにかが蠢いている。火光を照りかえす刃はさきほどの絡新婦の爪甲そうこうとも似ていたが、柱よりも太いこれが爪であるはずもないと考えなおした。

 活発に動いているのはちいさな人影がひとつだけだ。されど煙を裂いて動きまわる刀の数はみっつ。ひとりの人間が扱える数ではない。

 手首から先だけが浮遊して刀を振りまわしているのを目撃したとき、自分が宮の戸を叩いた際に木戸から出てきた青白い手を思いだした。なるほど、あれはマイヅルの手ではなかったのか。


 キンッと一際甲高く刀が啼き、悲鳴が上がった。


カサネッ」


 聞き覚えのある小鈴の響きに、アヤカが襖から身を乗りだす。可憐なだけではなく、艶やかな色気が秘められた少女の声音は異質で、一度聞いたら忘れられるものではない。


「よ、夜弥さ、ま……」


 声を目印にして、朱殷しゅあんに眼を凝らす。

 アヤカの眼に飛びこんできたのは鋭利な三日月で畳ごと串刺しにされた女性だった。揺らめく光焔を映したままの眼球が、言葉はなくとも凄絶な死を物語る。

 顔も知らない他人だったが、彼女は女中の装いをしていた。


 みれば、足もとは死屍累々たる有り様だった。

 女の屍が折り重なり、その場で荼毘にふされている。畳のあちらこちらに刀が突き刺さり、激戦の末での殉死であったことを告げていた。


 いまのいままで気がつかなかったのは、血が一滴も流れていない所為だろう。死傷を受けて絶命していながら、その場に炎以外の赤は見当たらない。体内にそもそも血が流れていないかのように、彼女らは無血で斬り刻まれていた。

 肉が焼ける匂いも感じられず、ただ新鮮ない草が炭になる臭いだけが立ちこめている。あまりにも不自然で、けれどアヤカにとってこれほどまでの不幸中の幸いはない。

 女性達の死の甲斐なく戦況は敗北へと直進していた。


「よくもわらわの宮で好き勝手やってくれおったな」


 いまの女中が最後だったのだろう。護ってくれるものがひとりもいなくなった夜弥は、それでもなお、いっさいのおびえを封じ、弱音を禁じている。


 凛と高圧的な口調を崩す事なく、彼女は言い放つ。


「この屈辱、万倍にして返そうぞ」


『ソレデ、貴様ニ何ガ出来ルト言ウノダ? 呪ワレシ鬼ノ姫ヨ』


 地底から轟くような不協和音が耳穴から脳を引きずりだし、全神経にざりざりとした不快感をもたらす。陰鬱なそれは声と呼ぶには禍々しく、咆哮と表現するにしても生気が欠落していた。


 恐怖を感じないアヤカでも、邪悪なものだと分かる。


 よどんだ波動に煽られ、魔炎が踊った。

 それに倣い、煙がでたらめな文様を薄闇に描き出して、肝心の姿を遮る。赤と黒の接合部分が波打つときにできる覗き穴にも満たない隙間から、辛うじて十二本の柱が見えただけだ。

 二度垣間見て、それが柱ではないことを知る。けむくじゃらの肢の先に生えた、鋭利な矛先。やはり、爪だ。節足の数から蟹を想像したが、不気味に輝く複眼からして蜘蛛だろう。


「また蜘蛛かよ……。つーか、幾らなんでもデカすぎんじゃね……?」


 ここからでは全長が見えない為、推測に過ぎないが、体長は五メートルはある。この座敷だからおさまっているのであって、入室時は壁を突き破ってきたとしか考えられなかった。


「わらわを愚弄するのかえ?」


『憐レンデオルダケダ。セメテ親、同胞ト共ニ死ネレバ……』


「黙れ!」


 夜弥がはじめて、声を荒らげる。振りかざした鉄扇が、深紅の閃きを奔らせた。


「何時しか我が同胞が、やまとを奪還する日。鬼一族最期の生き証人あかしびととならんが為、わらわはここにおるのじゃ。父様の無念、母様の悲哀を背負っておるこの命、むざに渡すわけにはいかぬ!」


『鬼ノ姫ヲ狩ッタトナレバ、我ノ名声モ高マル。足掻イテモ無駄ダ、ソノ首、貰イ受ケルゾ!』


 夜弥の小さな頭に目掛け、象牙色の爪が振り降ろされる。死へのカウントダウンが緩慢にみえるのは目の錯覚ではなく、獲物が抵抗できないと知り、甚振っているに過ぎない。

 どれだけ追い詰めようと、毅然として萎れることのない高嶺の華を手折る。自分よりも美しく気高いものを穢すとき、歪な快楽に酔い痴れるのは人間的知能を持つ生物共通の感覚だ。


「くそっ」


 反射的に床を蹴り、アヤカは焔の直なかへ飛び込んだ。

 と言いたいが、アヤカの場合は残念なことに反射神経も使い物にならない。蜘蛛の前にしゃしゃり出たのは理性的な行動で、大きく跳躍する足は自力で動かした。


 言い訳のしようもない。

 敵か味方かも分からない夜弥を、バケモノから助けようとしているのは。

 

 自分自身の意志だ。


 追いつけ。

 ただそれだけの思考が髪からつま先までを支配する。



 堪えきれない愉絶に、蜘蛛は口器こうきから失笑を漏らし。もはやここまでかと、夜弥は祈りのごとく目蓋をおろす。


 しかしいつまで経っても夜弥の頭が粉砕されることはなかった。女中の全滅とともに聞こえなくなった刀の響きが鼓膜を打ち、夜弥は恐る恐る目蓋を持ちあげた。

 自分と土蜘蛛の間に立ち塞がる影を見留め、夜弥は驚いたように瞳を見張る。


「ひとつ、聞くぞ」


 成人男性の半身ほどはある爪を刀一本ではばみながら、アヤカが夜弥に問い質す。

 土蜘蛛は怨憎にどす黒く濁った八つの邪視で、アヤカを睨めつけている。禍々しい能面は口端や目尻が崩れ、生臭い息とあわさって腐乱死体の様相にしか見えなかった。どこぞの動く死体ゾンビよりも恐ろしいのはこのバケモノが、人間的思考と感情を持って殺戮を愉しんでいることだ。

 至近距離でバケモノと睨み合いをしながら、アヤカの口調は普段と変わらない。


「マイヅルが死んだ。どう思う? ちなみに答えは簡潔に頼む」

「うぬが来たと言う事はそういう事だろう。して、悔やんでおると言えば納得するのかえ。鬼童アヤカよ」

 

 強がりきれずに震えている語尾が、夜弥の素直な心を表していた。


「おけー、納得した」


 刀を持つ手に全力をこめて、爪甲そうこうを弾きかえす。

 両肩がじんじんと熱を帯びるが、側で火が燃えている所為だと決めつける。痛みは……そうだな、蚊にでも刺されたのだろうとこじつけた。まだもう少し、踏ん張らなくてはならないのだから。


「しゃーねー、護ってやるよ、鬼の姫さん。一宿一飯の恩義があるからな」

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