第九綴   絡新婦に糸絡む

 そのまま強制的に、女郎蜘蛛のリーチまでひき戻された。耳もとで風が唸り、逆さ吊りにされる。再び視界いっぱいに女郎蜘蛛の顔面が広がった。ただし今回は上下逆さだが。


「ッ――死んだと思ってたよ。案外タフだな、オバサン」


『オバサン、……デスッテ?』


 ぴきぴきと、蜘蛛の額に青筋が浮かび上がる。

 逆さ吊りにされては、アタックもディフェンスも不可能だ。いま動くのは口だけだから、挑発の為に使っておく。最後の言葉が嘲りだなんて格好がつかなすぎる。


「あいつは口閉じとけば普通に可愛かったけど、あんたはどうにもつくろえないな。そんだけ化粧してもだめだったら、整形外科でもいったらどうだ?」


『貴様……ブッ殺ス――――ッ』


 膨れあがった殺気が暴発し、鋭利な爪が弾丸のごとき勢いで襲いくる。


「罵声を遺言に死ぬのはさすがに嫌なんで」


 アヤカは未だ離さずにいた刀で、身体を吊り下げる糸を断った。

 ぷつりと呆気ない音がして、アヤカは板張りの廊下に落下する。ここで受け身を取れたらいいのだが、刀が身体に刺さらないようにするので精いっぱいだった。


「あがっ」


 頭から落ちるのは免れたものの、肩から嫌な打音がした。

 肩関節が鐘にでもなった錯覚をする。じぃぃぃんとした痺れがそのまま、雑多な旋律になりそうだ。それでもなんとか立ちあがろうと、腕を動かす。


「ぃってー、折れてんじゃね、これ? 折れてるってこれッ」


 あまりの激痛に眼球の裏から火花が飛び散った。

 産まれたての仔馬のような態勢で這いつくばって、上半身を床に擦りつける。蜘蛛女を笑えない醜態だと自覚はあるが、理性ではどうにもならない。


 こうしている間にも蜘蛛女は床板に突き刺さった爪を抜き、とどめを刺そうと狙っている。


「あー、あーあーッ!」

 

 意味のない叫びをあげて、アヤカは自分で自分を鼓舞する。

 なんとか立ちあがった。 立ちあがると同時に、蜘蛛へむかって一直線に走り、八本の歩脚のあいだを縫うようにして駆け抜ける。手段としてはさきほどと同じだが、でたらめな進路変更で蜘蛛を撹乱した。


「二度マデモォォオォォォォッ」


 恐ろしい形相で肢を踏み鳴らし、女郎蜘蛛はアヤカを潰してしまおうと躍起になる。

 アヤカもアヤカで死に物ぐるいの足取りで、踏み潰されないうちに蜘蛛の下を通過した。背後にまわられた蜘蛛は反撃を恐れ、身を強張らせる。

 だが、反撃どころか、アヤカは蜘蛛にたいしてどんな手段も取らなかった。


「肺に風穴開けられてぴんぴんしてるヤツの相手なんかしてられっかよッ」


 アヤカは脱兎の勢いで遁走する。


「チッ、逃ガストデモ思ッテルノ!?」


 蜘蛛はすかさずアヤカの後を追おうと肢を蠢かし、がくりとその場で転倒した。


「ナッ?」


 いつの間にか、肢が拘束されている。

 みたところ、鎖も縄も絡まっていないようだが、あかりを反射してなにかが光った。ねっとりと粘りけのある透明な線維は紛うことなく、女郎蜘蛛自身が吐いた蜘蛛の糸だ。

 糸を切る際、刀に巻きつけておいたものを、逃亡の際に張り巡らせたのだろう。アヤカの術中にまんまとはまったことを知り、蜘蛛女は顔面を醜く歪める。


「クソオォォオォオオォォォ、覚エテオケ糞ガキイィイィィ」


 誰よりも糸の粘りを知っている蜘蛛だからこそ、悔し紛れに怨みごとを吐くしできなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る