第八綴 襲いくるは蜘蛛のバケモノ
本物のバケモノだ。
「ッ」
ごろりと身を転がして、アヤカは緩慢な捕食行為から逃れる。
反射神経なんてものは、脅威を脅威と認識できなくなったときから壊れているので、判断力と運動神経だけが頼りだ。
握り締めた
誰かがこれを握って戦っていたのだ。
『アラ、ヤダ』
合成音みたいな声音で喋るそれを睨みあげ、アヤカは我ながらよくコレを女だとおもったものだと感心する。
あらためて目にした姿は、人間ともほど遠い異形だった。
「蜘蛛かよ……!」
アヤカの身長と同等の巨体を支える節足が不気味に蠢く。
黄色と黒の毒々しい腹部の前方についた顔面だけが、成人女性のそれであった。ちぐはぐな容姿は恐怖だけを周囲にまき散らす。 への字に屈折した、昆虫ならぬ節足動物ならではの八本足を動かし、こちらを向き直った蜘蛛女は唇を笑みのかたちに引き裂いた。捕食前の舌舐めずりにも似た声音でいう。
『心外ネェ。アタシハ
「あーそうかい、それは悪かったな」
アヤカは震えもせずに刀を握り締めた。
腰を落とし、時代劇の見よう見真似で構える。実際に手にした武器は想像以上に重く、強打した背骨をみしみしと軋ませた。
安心したところで襲ってくるというのはお決まりのパターンだったはずだ。それなのに、どうして自分は気を許してしまっていたのだろうか。
「これじゃ、昔話の小僧を笑えねーじゃんかよ……っ。そもそもこのご時世にこんありきたりな展開アリかよ? ヒーローでもねー俺にどーしろってんだよ? ったく、頭ん中ぐちゃぐちゃだ……」
われながら愚かしくって笑えてくる。
「あーでも今、てめぇに聞きたいことはひとつだ」
自分の置かれている状況が把握できないのは不愉快極まりない。知り合いの安否が確認できないのはそれ以上だ。
嗤いながらもいま、アヤカは非常に苛立っている。
「てめぇ、マイヅルさんをどうした……!」
あの時聞こえた悲鳴は紛れなく廊下からで、マイヅルのものに間違いなかった。なのに、姿がどこにもない。
落ちていたのは千代紙で折られた人型のみ。
『
ワケが分からない。ほんとうにワケが分からない。
宮自体が化け物屋敷だったのか、それともバケモノが侵入してきたのか。どちらにしても、絡新婦と名乗ったこのバケモノが、マイヅルを傷つけたことだけは疑いようもない事実だ。
『安心シテ。アナタモスグ、紙屑ミタイニぐちゃぐちゃニシテアゲルカラ……ッ』
かっと開かれた唇の間には、無数の乱杭歯が鈍く光を放っていた。糸をひく唾液がおぞましい。
「どんなホラー映画だよ……っ」
アヤカの頭部目掛け、鉄槍のごとき歩肢が振りおろされる。ひるみはしなかった。おそれたらそれで敗北が決定するとばかりに、アヤカはそれを刀身で受けとめた。
「ぐっ」
かたかたと刀が鳴り、衝撃が腕を痺れさせる。
『横、ガラ空キヨ』
「ッ!」
一つの攻撃に集中しているうちに、左の第一歩脚が脇腹を貫こうと迫った。慌てて刀身で爪を弾いて飛び退り、間一髪で追撃を逃れる。
余波が掠めたのか、はらりと緋髪が舞った。それを一瞥し、アカヤの口角が持ちあがってゆく。命の危機を感じるくらいじゃないと、主人公の能力は目覚めないのだ。
「ま、目覚める能力もないだろうけど」
そんなものがあったのなら、過去にも発動するタイミングはあったはずだ。できるのは命がけでチャンバラごっこに勤しむくらいだ。
真っ直ぐに蜘蛛の顔へと向けた切っ先は行燈の火を映して、透徹した光を放っている。闇を切り裂く銀光が影に遮られた瞬間、弾け飛ぶようにアヤカは床を蹴りあげていた。
廊下を疾駆し、破竹の勢いで絡新婦の懐に潜りこむ。
「ナ、ナニッ?」
胴が大きく持ちあがった蜘蛛の体勢では、足の内側に潜り込んだ外敵を排除する術がない。
素早く後退し、自分のリーチにアヤカを引きだそうとする。
が、それよりさきに、アヤカの刀が勢いよく
『ギヤャヤアアァアアァアァァアアアアアアアアアァアアァァァ――――――ッ!』
絹を裂くような絶叫が廊下に轟く。
超音波に煽られてぎしぎしと襖が振動し、刀を握っていなければアヤカとて耳を塞ぎたかった。脳を破壊されそうになりながら、力いっぱい柄をひく。
刀身を肉から引きずりだす過程で、ずぶずぶと音を立てて黄緑色の体液が溢れだす。粘り気のある液が手首をつたい、袖中にまで流れこんできた。
「げ、なんだこれっ。気持ち悪ッ」
毒だったらどうしようかと危惧したが、仮に致死毒だったとしても時すでに遅し。躊躇わず、刀先まで抜いた。不気味な緑の雨を受けながら、アヤカは腹下からするりと抜けだす。
いままでアヤカがいた場所に、蜘蛛の腹が落ちてくる。
「やっべー」
あれだけの巨体が上に乗ったら、人間なんてひとたまりもなく潰れてしまう。顔に付着した体液を袖の濡れていない部分で拭いながら、距離を置く。
眺めまわしても、蜘蛛は床に伏して動く気配がなかった。
「死ぬ気でやれば、人間、なんだって出来るもんだな」
まさか、蜘蛛女と戦って勝てるとは思わなかったが。
すっかり着崩れた寝間着がわりの着物が気になり、しかしながら直す手順が分からず、諦める。ちょっとくらい着崩れているほうが動きやすいのも確かだ。
「にしても……」
蜘蛛女に背をむけ、廊下を進んでいく。
マイヅルを探すのだ。アヤカにはマイヅルが死んだとはどうしても思いづらかった。そもそも廊下には血の一滴すら残っていないのだ。紙は彼女が助けを求めておいていったものかもしれないと、楽観的に解釈しておく。
「そもそもマイヅルさんが怯えてたのは、ほんとうに俺にたいしてだったのか?
マイヅルが告白した夜弥への忠誠心。あれは夜弥の為にならば死ねると言う宣言であり、そのことを自分に言い聞かすふうでもあった。彼女は今の騒動を予想していたのだろうか。
「例えばさ、夜弥が俺を喰おうとしてて、マイヅルさんが俺を起こしてまで助けようとしたら、それは殺される理由になるんじゃね? でも夜弥が、なぁ」
夜弥の顔が脳裏に浮かんでは消える。
どうしても可愛いらしい印象ばかりが海馬に焼きついているが、彼女の口元からは牙が覗いていた。
あの絡新婦にもあった、鋭い犬歯だ。
「ちくしょう……ホント、俺はなににかかわっちまったんだよ」
山姥とか雀とか亀は妄想したが、さすがに人面蜘蛛に襲われるというのは想定外だった。それでも宮の戸を叩いた事に後悔はない。薄闇のさきを見据える眼差しは愉しげだ。
退屈よりも危険がいい。
なんて平和ボケした事は思わないが、楽しんだ者勝ち、と言うのがアヤカの持論だった。
記憶を頼りに夜弥の座敷を目指す。廊下の角を曲がろうとした刹那、何かが足首に絡みついた。
「…………ッ!?」
それが蜘蛛の糸だと気付くや否や、身体が前のめりになる。
『敵ニ背中ヲ見セルナンテ油断シスギジャナイノ? ボーヤ』
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