第三綴   出づるは雀か山姥か

「湯加減はいかがでしたか?」

「あ、はい……よかったです……」


 風呂上がりのアヤカは何故かぐったりと疲れていた。

 風呂は素晴らしかったのだ。風呂面積は銭湯の大浴場ほどだが、窓の外からみえる枯山水が見事で、いつまでも入っていたくなった。 百花繚乱の動とは異なり、砂に描かれた文様と自然岩の調和が全てだからこそ、枯山水にはより芸術性が必要となる。かといって植物がなにもないわけではなく、ところどころに苔が張られ、豪雨に叩かれながらも黒竹が気高く天にむかって伸びていた。こんな綺麗な枯山水が庵の外にあったかどうか、というのはこの際考えないことにする。

 シャワーがわりの温水滝で汗を流し、凍えた身体を適温の湯で暖め、明媚な和風庭園に心身ともに癒された。と、そこまではよかったのだ。


「で、なんで風呂からあがったとこに、女の人が待ちうけてんですか」

「その女中が、鬼堂様になにか粗相を?」


 アヤカの背後に控え、男湯おとこゆの暖簾をくぐって出て来た女中を見やり、先程の女性が不安げな表情になる。無地の着物にたすき掛けをした女中は目を伏せ、申し訳無さげだ。 ただし、この女中が何をしたと言うわけではない。

 それどころか、着慣れない着物を丁寧に着せてくれた。背に龍の文様が描かれた麻の着物は着心地がいい。帯も苦しくないよう緩く締められ、着つけの細部に心を配してあった。

 問題は全裸であがった脱衣所に、女性が待っていたことだ。


「俺、裸だったんですけど」

「それは……そうでございましょうな。湯上りはみな、裸です。湯帷子を御召しになられて湯浴みされる方もいらっしゃいますが……、そのように致した方がよろしかったでしょうか」

「いや、っていうかその……」


 ずっと黙りこんでいた女中だが、ここで声を上げた。


「粗相があったのならば、私、死んで詫びます……っ」


 ぽろぽろと涙が溢れ、整った顔立ちがくしゃりと歪む。絹を裂くような悲鳴ではなく、あくまで冷静な声音が真剣なのだと感じさせる。

 女性がなだめているが、なかなか泣きやみそうにない。

 ここまで恐縮されると、「ふつうに裸をみられるのが恥ずかしかった」の一言がなかなか口にだせない。あーもーッと髪を掻きむしりたくなる。ただし、それをやっては将来に響きそうなので、自制しておく。


「あの、その人は悪くないんです。悪いのは俺って言うか……あー」なんと言えば、いいのだろう。

 アヤカが眼と鼻の間を指で揉みながら思案を巡らせていると、ぴたりと女中の泣き声がやんだ。見れば、女中がやたらきらきらとした眼で、こちらを見つめている。


「御優しいのですね……。私、とんでもない粗相を致してしまったはずですのに……」

「いや、なんもしてないからね」


 彼女は粗相などしていないし、自分もそこまで感動されることはしていないはずだ。しかし、女中はえらく感激し、今度は嬉し涙を流しながら、その場を去って行った。


 それだけでげんなりしてくる。

 不毛な会話に疲労を覚えたのも、無論ある。

 だが最大の困惑は、どう見ても彼女らが悪人には見えないことだ。かわりに常人ともおもえない言動も多々あったが、決して負の意味あいではない。まったく意味不明か、善意から出たと一瞬で判別がつく勘違い……。つまり、彼女らの中にはいっさいの悪意が存在しないのだ。


「んな、バカな……」


 そう結論しかけて、全否定する。悪意がない人間などいない。そんな存在があったとして、それはもはや人間ではない。


「どうかなさいましたか?」

「いや、なんでもありませんよ」


 無理をして面倒なことを考える必要はないか、と思考を中断させ、にこりと口角を持ちあげてみせる。どうにも左よりも右が持ちあがってしまうのは生来のくせらしい。この笑い方のせいで嘲笑や冷笑と誤解される事も多いが、自分では愛想良く朗笑しているつもりだ。


「それでは、あるじの元にご案内させて頂きます」


 歩きだした女性の後に倣って、屋敷内を移動する。


「人が増えて来ましたね」

「ええ、そろそろ夕餉ゆうげの支度で忙しくなって参りますので」


 さっきまですれ違う人はまばらだったが、いまや往来する人とぶつからずに歩くのが難しいくらいだ。膳を運んでいる者や竹製の花瓶を抱えて座敷に入って行く者を見ると、やはり旅館なのではないかとおもう。


「ここは旅館……とかじゃないんですよね」


 先程は訊き方が悪かったのかもしれない。再度尋ねてみると、女性はなぜか微笑んだ。


「客人は拒みませぬが、この宮の存在意義は主のみです。主の為だけに存在を留めてございます」

 

 ここはほんとうに個人の屋敷らしい。これだけの屋敷を所有しているなんて、いったいどんな金持ちなのだろうかと、想像を巡らせてみる。 金持ちというとでっぷり肥った中年男のイメージしか出てこない。どれだけ想像力に乏しいのだと、アヤカは自分で自分に失望した。ここは美しい貴婦人を想像、もとい妄想しておこう。


 その後も龍雲が渦巻く座敷や、動く侍が大立ちまわりを演じる屏風が陳列された座敷が続き、振り仰ぐほど巨大な襖の前で女性が足をとめた。


「御客人をご案内して参りました」


「入るがよい」


 奥の座敷から小鈴を転がしたような、なんともいえない美声が聴こえた。

 音もなく襖が滑っていく。

 五メートルをゆうに超えた襖の開閉はどう考えても人力とはおもえないが、ここには文明のリキが見あたらない為、その可能性もあるかもしれない。

 女性は脇に控え、「どうぞ」と促す。

 襖は完全に開いたが、座敷内は薄暗く細部を窺い知ることはできない。いるのは雀か、山姥か。底知れない闇に恐れを懐くのは生物の本能だが、アヤカはまったく物怖じせず、踏みこんでいく。

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