第二綴   此ノ世に非ざる隠ノ宮

「なんだよ、廃屋みたいだな。つか、廃屋だろ、これ」


 近づいてみると遠くから眺めた時の何倍もふるめかしく、というか襤褸ぼろく見えた。窓はぴしゃりと障子が閉じられ、中を覗いてみようにも軋むだけでびくともしない。窓枠から外れかけていたのが、変にはまったのかもしれない。

 戸はすっかりと苔むしている。あるじはずいぶんと長く不在のようだ。


 アヤカはそれらのことから、この庵は無人であるという判断をくだした。


 場所が場所だ。廃墟だったとしてもおかしくはない。むしろ廃墟であるのだったらまだ納得ができる。ただし無人だとするならば、綺麗に雑草が刈られた庭は不自然だ。硝子の外に設置されているにもかかわらず、障子紙に損傷が見られないのもおかしい。窓枠ごと揺らしてみた時の音の感覚から、硝子がいれられていない可能性すらある。


「……んじゃ、最終手段といってみますか」


 見たところインターホンはついていないので、木戸を二度叩いてみる。続けて、中にむけて声を張りあげた。


「すみませーん、誰かいらっしゃいますかぁ」


 中まで響くようになるべく腹から声をだしたが、返事はない。足音すら聞こえてこなかった。

 当然か。

 これで誰かに応えられるほうがよっぽどに不気味だ。


「残念、やっぱ廃屋か」


 アヤカはつまらなさそうに肩を竦め、やがて興味をなくして、戸口に背をむけた。いや、実際には立ち去ろうと踵をかえしかけた瞬間の出来事だった。


 ずずずずず……。


 軋むのとも違う、重々しい音を立てて木戸が右にずれてゆく。

 扉が開くのを目の当たりにしていなければ、得体の知れない生き物の呻きにしか聞こえなかったはずだ。左側から、徐々に垣間見えてくる庵内部を食い入るように見つめ、アヤカはただ立ちつくすしかできない。

 すでに半分以上開かれた戸口から、もぞもぞと何かが出てくる。白い、異様なまでに白いそれが、女性の手指である事に気づくまで、数秒の時間を要した。

わさわさと節足動物を彷彿ほうふつとさせる動作で、指は戸の裏から這いいでて、戸に爪を立てる。


「っ――」


 さすがのアヤカも頬が引きつり、驚愕の面持ちで硬直する。


 やがて戸口が開き切った後にそこに立っていたのは、指の持ち主と思しき日本髪の女性だった。白地に青花柄の着物に身を包み、死人の如く顔が青白い。いかにも幽霊のような風貌だ。いつの間にか戸から差し抜いた手を下腹部で組み、女は外を窺うように覗いている。

 次第に表情は変化し、何故かアヤカとおなじ驚愕の様相で固定された。ぽっかりと開いた口を隠すふうに手をやり、彼女は茫然自失となりながらも言葉をこぼす。


御客人おきゃくじん……?」


 その一声で、アヤカは我にかえった。

 片手で髪を掻きむしり、曖昧な笑顔を浮かべる。


「いや、そういうわけじゃないんですけど」


 たった数秒で、相手が無害な人物だと確信できるわけがない。妖怪や幽霊などいるはずないと、冷静に否定できるだけの時間もなかった。アヤカが笑みを取り戻したのは、異常に機能した反射神経の作用だ。


「雨宿り、させてくれません?」

「……あ……、ずぶ濡れではありませぬか!」


 今頃気づいたように慌てふためく女性からは、はじめて見たときの不気味な印象はまるで消え去っていた。普通の人間のようで、普通ではない。主に言葉遣いとかが。

 それでも、悪意のあるモノではないのだとおもえるほどには、柔らかな気配をまとっていた。


兎も角ともかく、中に御入り下さいまし。湯と着替えを御用意致します」


 腕を引かれるままにアヤカは戸をくぐり、庵の中へと足を踏み入れる。



 廃墟同然と言う勝手な思いこみは、すぐさま覆された。


 清潔に保たれた土間は広く、隅には赴きのある坪庭つぼにわが造られている。そこには赤い躑躅つつじが咲き誇り、背後に据えられた青竹の緑を際立てていた。もう季節としては夏なのだが、種類にはよっては夏に咲く躑躅もあるのだろうか。春にみられるものよりも色鮮やかだ。


 土間から続く廊下にも埃ひとつなく、正面には金箔をあしらった豪奢ながら気品のある龍の掛け軸が飾られている。いまにも龍が和紙から飛び出し、宙を乱舞しそうなほど、立体感のある墨絵だ。知識はないが、それでも感嘆の吐息が漏れる。


「動き出しそうな龍ですね」

「夜は動きますよ?」


 笑うべきだとおもったのだが、女性の顔が真顔だったので笑うに笑えない。掛け軸の龍が夜に動き出すとか、この場所では信憑性があり過ぎる。


 土間から廊下へあがろうとして、アヤカは二の足を踏んだ。廊下は鏡のように磨かれ、いまの自分は濡れている上に泥までついている。このままで上がるのは申し訳ない。


「お構いなく。どうぞ、そのまま御上がりください」


 にこりと微笑まれて、遠慮がちにスニーカーを脱ぎ、足を乗せる。

 外観の襤褸ぼろさとは裏腹に、廊下はぎしりとも軋まなかった。


 ここから見渡すかぎり、外から見た時よりも遥かに建物の面積が広い気がする。外観はせいぜい茶室くらいの規模だったが、これでは屋敷だ。廊下は左右に伸びているが、向こう側の壁が一切見えない。建物が廓大かくだいした? まさか。さすがに気のせいだろうと、アヤカは心の中で笑い飛ばした。


 等間隔で配置された長方形の窓からは中庭が見え、さながらパノラマの景だ。

 驚くほどの面積を有したその庭には、牡丹や菖蒲や白梅や藤や女郎花が季節を無視して、艶やかな色彩を狂い咲かせている。桃色、紫紺に薄紫、黄が笑めば白も詠う。

 百花繚乱とはこの事かと、漏れた吐息にまで色が移りそうだ。

 常識をことごとく凌駕した中庭には滝が流れ、小川がとうとうと水音を奏でている。

 足を止めかけたアヤカだったが、いまの自分の格好を思いだし、大人しく女性の後を追う。


 途中何人かとすれ違ったが、男も女もアヤカを見た時の反応に差異はなかった。誰もがあ然と大口を開け、やがて我に返ったように慌てて礼をするのだ。自分以外の人間をはじめてみたかのような反応は、間抜けとも言える。


「ここはなんの建物なんですか?」


 もしや知る人ぞ知る旅館や料亭だったのだろうか。それにしては外観があれだが、庭園は見事であるし、行きかう人全員が和装となると、そう考えるのが妥当だ。

 しかし女性はそのどちらとも答えなかった。


「こちらはおんみやにてございます」

「隠ノ宮?」

「隠れ里が焼き討ちに遭ってしまい、残った一部を宮内に移したのです」


 電波な事を真面目な顔で言われると、反応に困ってしまう。冗談と受けとめ、笑っていいのだろうか? それとも、お悔やみ申し上げた方がよいのだろうか。


「……そうですか、それは……残念? ですね」


 けっきょく後者を選んでみたが、やはりそれで正しかったのか、女性は双眸に涙を浮かべる。零れ落ちた涙を袖で隠し、「すみません……」と自身でも困惑したように謝罪を繰りかえした。

 当惑するのはアヤカだ。


 宮の事で全然着眼していなかったが、女性は身目麗しく、間違いなく美人の部類に入る。美女の涙に弱いのが、男と言う生き物である。柄にもなく、おろおろしてしまう。


「されど、良かったです。今日まで、ここを護って来て……。まさかどなたかが訪ね来られるなど、夢にもおもっておりませんでしたから……」

「それは……」


 どういう意味ですかと問いかけようとしたとき、女性が立ちどまった。


「この先が湯殿となっております」


 湯殿。風呂の事だと一拍おいて気がつく。この女性はいちいち言い方が古風で、分かり辛い。

「拙者」とか「ござる」とかが出て来ないだけ、マシかもしれないが。


 竹暖簾の先からは、うっすらと熱気が漂ってくる。


「右が男湯おのこゆで御座います故、ゆるり湯浴み致して下さいませ。その間に御召し物の替えを御用意させて頂きますが、御希望の柄など御座いますか?」

「い、いや、特にありません……っていうか、ほんとに風呂まで借りちゃっていいんですか?」

「御身体も冷えておりましょう。芯から温まって下さいまし」


 善意に溢れた微笑で促される。風呂が鍋で茹でて食べられる……なんて、オチではなさそうだ。例えそうであっても逃げられるともおもえないが。


「じゃ、すいません。借ります」


 暖簾をくぐろうと身をかがめると、後ろから呼びとめられた。

 アヤカが振りかえる。


「あの、御名前だけ拝聞はいぶんさせて頂いても、よろしゅう御座いますか?」

「あ、はい。鬼童きどうアヤカです」


 余り好きではない、自分の名前を答える。相手は特に反応せず、深くこうべを垂れた。


「有難う御座います。湯浴みの後、わたくし共のあるじに御会い頂きたく存じます。わたくしからも鬼堂様の事は御伝え致しておきますから、御挨拶下さるだけで良いはずです」

「いや、でも、俺はそう長く……」


 今日は休日だが、明日は学校もある。雨が小降りになるまでの間、雨宿りさせてもらえばいいだけだ。しかし女性は柔和な口調ながら、決して譲らなかった。


「当分の間、雨はやみませぬ」


 気象予報士よりも確然と言い放ち。


「今日は泊って行かれるのがよろしいかと」

 

 首を横に振ることなど許さないと見据え。


「我らが主を悦ばせて差し上げてくださいまし」


 それでも尚、彼女は花の如く、優美に微笑むのだ。山姥には程遠く、されども雀ともおもえぬ面差しで。

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