壱ノ草紙 隠ノ宮と物の怪の姫子  

第一綴   桜いざなふ 物の怪の迷い路

 思いかえせば、いつだって墓参りの日は嫌な雨が降っていた。


 鬼童アヤカは日本の風習にまっこうから逆らって、墓参りは毎年盆と命日を避け、故人らの誕生日や正月、雛祭りに端午の節句、果ては聖夜に赴いている。

 盆にはいっさい姿をみせず、けれど時々草むしりがされお供え物がおかれている墓前をみて、まわりは怪訝におもっているだろうか。いや、特にどうともおもってはいないのだろうけれど。

 ひとがおもっているよりも他人はまわりには興味がないものだ。

 

 熱心に拝んでいたアヤカは静かに頭をあげた。

 

 今日は故人の誕生日にあたる八月十三日だ。

 頭上に広がっているのはめずらしく晴れわたった青空だ。墓参りの日に雨が降らなかったのは実に十一年振りの快挙だった。そろそろ故人の未練も断たれたということだろうか。 まあ彼が出掛けると行き先がどこであれ、大抵は雨なのだが。


 蝉の時雨を背に受けて、アヤカは青々としたこずえに視線をやった。剪定を放棄された連枝は伸びっぱなしで、墓地の端に立てられた墓石に覆いかぶさっている。草刈りついでに切ってやろうかと思ったが。


「やめとくか」


 節介が吉と出た試しがない。落ちた小銭を拾えば盗んだだろうと濡れぎぬを着せられ、痴漢を捕まえたらお楽しみ中の恋人だったり。


「こんな山奥に埋められたヤツは、生前よっぽどビンボーだったか、家族と仲が悪かったかのどっちかだろうな。俺だって金が有れば、もっと墓参りをしやすい立地を借りたっつーの」


 ここが大都会東京であることを忘れてしまいそうなほどに辺鄙な場所だ。

 家から墓地まで距離自体はさほどない。徒歩でも充分行き帰り出来る距離である。

 ただし半分が山道やまみちだ。舗装もされておらず、申しわけ程度に砂利が敷かれているだけだった。山の頂に位置する墓地までの道程は、健康な若者でも音を上げる過酷さだ。

 墓参りを終え、そろそろ帰ろうかと墓地に背をむけた、そのときだった。


「ん?」


 ぽつりと、鼻さきではじけた雫にアヤカは立ちどまる。


「いやぁな予感がするんですけど」


 予感は的中し、空から落ちてきた一滴の水はそれをかわぎりに豪雨へと変貌した。

 あれよあれよと言う間に墓石の色が灰褐色から濃鼠こいねずに塗り替えられ、髪さきから小滝の如く雨水が流れ落ちる。慌てて傘をだそうとしたが、今日は持参していなかったことを思いだした。


「ちくしょう、お天気お姉さんの営業スマイルに騙された……」


 大粒の雫が肩や背にあたる度、薄手のTシャツを貫いて槍のごとく突き刺さる。雨が痛いものだとはいま知った。正直知りたくもなかったが。

 春に来たときも小雨がちらつきうっとうしかった記憶が残っているが、墓参りの時にこれほどの豪雨に見舞われたのは初めての経験だった。不意をつかれたから、よけいに雨がひどく感じる。

 ……わけでもないようだ。


「二メートル先もみえねーじゃねーか」


 叩きつける雨にもめげず、下山しようと歩を進めたアヤカだったが、あっという間に立ちこめた濃霧に行く手をはばまれた。視界が白く覆われ、死んだ魚の眼でみた世界はこんな感じなのかと想像してみる。そう思うと貴重な体験だ。

 本来ならば、雨宿りでもするべきなのだが、通いなれた道であることがその提案を彼の頭のなかから打ち消した。


「ま、なんとかなるだろ」


 霧を掻き分けながら、ずんずん進む。

 濡れたTシャツが素肌にひっつき、なんとも言えない気持ち悪さだ。

 不快感が、彼を急がせる。途中からはなかば走るようにぬかるんだ山道を駆け下りた。そのまま、転がりだしそうな勢いだったが、突如としてアヤカの足がとまった。


 急に立ちどまったせいで足もとの泥水が跳ね、ジーンズの裾をよごしたが、すでに全身が雨でぐしょぐしょなのだ。今さら気にも留めない。

 それよりもアヤカには気になることがあった。林を凝視してつぶやく。


「こんな桜、前からあったか?」


 さきほどと比べると薄くなりはじめた霧のむこうに、麗しく咲き誇る桜がたたずんでいた。

 雨に打たれて花弁を散らすこともなく、凛として香りたつ季節はずれの紅。

 紅。そう、異様なのはそこだ。薄紅の桜はあっても、真っ赤な桜などはみたことがない。梅かともおもったが、枝垂れ桜にまちがいない。血潮にそめ抜かれたような、あざやかな彩が瞳孔を刺し貫き、網膜まで紅に染めあげるようだ。


 魅了される。


 呆然と目を奪われ、同時に怪訝におもった。


 これほど立派な桜が山道の脇にあったのならば、ずっと前から気づいているはずだ。いまのいままで知らなかった理由など、いくら考えてもひとつしかない。


「まさか……な」


 恐る恐る、足元を窺う。

 まばらにでも砂利が敷かれていれば、この道で正しいという証明になる。しかし見おろしたさきには雑草が繁り、いくら靴底で草を薙いでも自然の小石しか見あたらなかった。


「迷った、のか。ってか、迷ってんだな、まちがいなく」


 こまったなあとため息をついてみたが、特にあせりや恐怖はなかった。


「ま、そんなでかい山でもねーし? このまま進んでったら町につくだろ」

  

 紅桜くれないざくらの前を横切り、わざと山奥へと踏みこんでいくあたり、好奇心がまさっているのだろう。

 蝉はとっくに鳴きやみ、雨の音ばかりが静寂の森にこだまする。時折、足元で枝が折れる音が雨音にまさって、アヤカの鼓膜を震わせた。 やがて沈黙に耐えかねたのか、もとから独り言の多いアヤカがべらべらと独白をはじめる。


「むかしっから、山で遭難つったら妖怪とか山姥やまんばだよな。家に寝泊まりして、夜中目を覚ましたら包丁研いでて喰われかけんの。でも、そもそもなんで山姥とかって一度家に誘いこむんだろな。小僧くらい、寝こみ襲わなくても喰えるだろ。そのほうがより話が恐くなるからなんだろうけどよ……って、お?」


 長台詞を大した思考もせず垂れ流していると、徐々に霧が晴れてきた。

 雨はまだ降っている。雨量にも変わりはない。霧だけが薄くなり、不自然なほどあっさりと消滅する。見通しが利くようになり、顔を上げて周囲を確認したアヤカは、今度こそ絶句した。


 樹々と木々のあいま、芒野原と曇天に挿まれて。

 ふるぼけた庵が建っていた。


「なんだあれ」


 こんなところに家があるなんておかしい。

 ましてただの民家ではなく、藁葺き屋根に黄ばんだ土壁の、古風をとび越えて時代錯誤な外観の庵だ。こんなもの、おおきな旅館や神社の敷地内でしかみたことがない。かといって神社仏閣を思わせる派手さはなく、ひっそりと風景に溶けこんでいた。

 だからこそより不自然で、奇怪なのだ。

 

 うっすらと苔の生えた木戸の側には池があり、緩やかなアーチ型の小橋がかかっていた。池には蓮が浮かび、純白の花を咲かせている。

 異様な雰囲気を醸しだす小庵を前にして。

 アヤカは口の端が持ちあがってゆくのをとめることができなかった。腕から全身に拡がる震えは恐怖からではない。


「やっべぇ、なんかゾクゾクして来たんですけど?」


 はてさて、そこは人喰い山姥の庵か。

 それとも豪華絢爛、雀のお宿か。


「ま、すずめなんか助けた覚えねーし、山姥の方が有力候補だろうな」


 アヤカはためらわずに戸口へと進んでいく。

 それは燃えさかる火焔に飛びこむ愚かな蛾を連想させ、狐狸妖怪の域にみずから足を踏みいれる愚か者のようでもあった。この比喩がそれほどまちがいではなかったことを、彼は後に知ることになる。

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