第二十話 「起源」
うだるような夏の日だったのを覚えている。
まだ十二かそこらになったばかりの鼻たれ小僧達が、畑仕事の手伝いをサボって村の外へ冒険に出かけた。当然俺もその中の一人だった。
まともな教育機関がなく文字も読めないような田舎の子供は皆そうやって大人になっていく。
昼飯も取らずに子供特有の無尽蔵の体力で野を越え川を渡り山に潜り、最後に川で汗と泥を落としてから陽が沈んでしまう前に家路につく。
いつまでもこんな日が続けばいいなぁと、焼けた空にうっすらと浮かぶ星と月を見上げながらなるべくゆっくりと歩く。
そしていつものように子供の浅知恵を集めて「家に帰った時になんて言い訳すればいいだろうか。次はいつ集まろうか」などと相談していると。
――ふと、背後から名前を呼ばれた。
それはここにいる誰のものでもない、聞き覚えのない声だった。
しかし俺以外の誰もそれに気づいた様子はない。
「ん? どしたアレン?」
「あー、ちょっと忘れ物。先行ってて」
気付いたら体が勝手に後ろを向いていて。
まるで催眠術にかかったように、声のした方へ引き寄せられていた。
その際、大人たちがよく言い聞かせる言葉が脳裏をよぎった。
『昼と夜の境目が曖昧になるこの時間は逢魔が時と言って《よくないもの》が跋扈する。だから外に出てはいけない』
もちろんそれは子供を明るい内に家に帰すための方便で、夜になればなったで『悪い獣に食べられてしまうから家を出てはいけない』などと脅しつけるのを子供ながらに知っていた。
だけど俺が木の陰で出会ったものは、善い悪いの枠組みに収められない相手だった。
「やぁアレン君、よく来てくれたね」
それは優しそうな雰囲気の若くスッとした顔立ちの男であった。
「あんた見ない顔だけど、どこから来た人?」
「あっち」
男は斜め上を指して答えた。
その時は北の方角から来たのだなと思っていたが、今となっては空の向こう、世界の果てのその先を指していたのだと分かる。
「つーか何で俺の名前を知ってんの? あんただ……うぇっ!?」
向き直って男を足元から見上げると、顔が変わっていた。
先ほどの優しそうな美青年とは別の、冷淡そうな中年になっていたのだ。
「は!? はぁ!? なんだそれッ!? なんだよお前!?」
「ボクはねぇ、一番簡単に答えるならそう、――カミサマだよ」
こんなところで神様を自称するなんて詐欺師に決まっている。いくら俺が子供だからといってそんな嘘を信じてたまるか。当然口に出さないながらもそう考え付いた。
しかしそのような考えはどういうわけか凝り固まる前にかき消されて、自然と納得させられてしまった。
「……もしかして、ボルトイカスピード様?」
神様と聞いて真っ先に戦神を想像したが、目の前の皺だらけの老婆は首を振って違うと答えた。
「じゃあ……何?」
「ワシはこの世界のカミサマじゃあない。ワタシは人であって木でもあり、真砂であって海でもあり、空であって星でもある」
「へ……?」
コイツの話を真剣に聞いていたら自分という存在が消えてしまいそうな気がして、早く逃げ出そうと決心した。
でも、俺の足は動かなかった。
いいや、動かなかったのは足だけじゃない。世界の全てだ。
沈む太陽も崩れる雲も、空を飛ぶ鳥も揺れる草木も、風さえもピタリと止まっていた。
「ごめんごめん。今の君じゃあまだ、無駄話を聞いているだけでおかしくなっちゃうもんね。よし、本題に入ろうか」
カミサマを名乗る近くて遠い存在は、一方的に話を続けた。
「オレの魂のカケラと君の魂のカケラを交換してくれないか?」
魂を?
どうして?
何で俺なんかと?
「アタシがこの世界で自由に動き回るために必要なのさ。君が特別だから選んだんじゃない。むしろその逆で、君が何も特別じゃないから選んだ」
妙齢の姉貴然とした美女がくくっと妖しく笑う。
「おまけもつけるからさ。どうだい?」
「……うん、いいよ」
「アレン君ならそう言ってくれると信じていたよ!」
人ではない何かが、人である誰よりも綺麗に笑う。
人知を超えた得体の知れないものだと分かっているのに、抗えなかった。
俺の好みを詰め込んだ貌で頼まれたせいか、無理矢理口の形を変えられたのかは今となっては分からない。
ただ一つだけ、そこで普通の人生という足場を踏み外してしまったことだけは分かる。
「ほら、このポンチョをあげよう。カッコイイだろう? 次会う時まで大切にしてくれよ?」
黒よりでも白よりでもない、ちょうど中間といえる灰色のポンチョを虚空より取り出して。
ガバッと勢いよく被せてきた。
「うわっ! いきなり何すんだ……よ…………?」
反射的に瞑った目を開けた時にはどこにもおらず、世界も何事もなかったかのように動き出していた。
「夢……じゃない」
顔を両手で叩いたらちゃんと痛みはあったし。
何より買ったものでも拾ったものでもない新品のポンチョをさも当然のように着ていた。
「……っ!」
もうこの場によからぬものがいないのは分かっているはずなのに、それでも逃げるように走り出した。
一分と走らずに仲間たちに追いつき、俺の身に起きたことを二度舌を噛みながらも全て話した。
整頓して話す余裕はなかった。
「大丈夫かよアレン。もちろん頭の方」
「毒ヘビにでも噛まれたんじゃないのか?」
「本当だって! ちゃんとポンチョだってあるだろ!?」
「だってお前さっき、忘れ物を取りに行くって言ってたじゃんか」
「それは無駄に心配されたくないからウソをついただけで」
「じゃあ今の話もウソってことで」
「どうして信じてくれないのさッ!!」
俺はあれほど怖い思いをしたのに、大切な友達だと思っていたみんなは誰一人として信じてくれなくて。
つい、カッとなってしまった。
「……じゃあお前、何かすげー力でも使えるのか? 雨でも降らしてみてくれよ。神様なんだろ?」
「それは……」
魂の一部を交換しただけで、具体的には何ができるようになったのか分からない。もしかしたらこれまでと何も変わらないのかもしれない。
そもそも実は交換すらもしていないんじゃないかと冷静になって疑い始めて。
この場ではこれ以上話すのをやめた。
それでも家に帰ってからはもちろん、最も信頼する人間に吐き出した。
「母ちゃん! 父ちゃん! 聞いてくれよ!!」
今度は内容を整理して順を追って話した。
村の若者が「島を出て大陸へ旅立つ」と告白する時くらい本気で話した。だというのに、
「面白い夢を見たのねぇ、ステキだわ。……でも、歌人になるなんて言わないわよね?」
「だから夢じゃないんだって!」
「誰にでもおかしな妄想をしたくなる時期はあるものさ。お父さんもお前くらいの頃はだな――」
両親共々まともに取り合ってくれなかった。
翌日からはカミサマカミサマとみんなにからかわれるようになったので、自分からは二度と話さなくなった。
奇妙な体験から二十数年を経て。
大した怪我なく歳を重ね、畑仕事においては一人前と呼ばれるくらいにはなった頃。
あの出来事は記憶の海の底で錆びつつあったというのに変化が現れた。この場合は不変と称した方がいいのかもしれないが。
「アレンお前、全然老けねえな」
「そうか?」
昔からの知り合いが揃って同じことを口にするようになったのだ。
それで井戸を覗いてみると、水面に映る自分の顔はたしかに瑞々しく若者のそれとなんら変わりない。
だからといってその時はまだ、たいして深刻には考えていなかった。
しかし五十歳六十歳と生きながらえ、周りの者が年々白髪と皺を増やしていく中で俺だけは萎まずに漲らせていて。若人と同じようにどんな疲労も一晩寝るだけで取れてしまう。
さすがに不信感と警戒心を抱かれるようになり、島にはいられなくなった。
大陸では何年も同じ場所に留まったりはせず、せいぜい長くても半年ほど逗留するだけして好きなように旅をした。
そして大陸に渡ってから二十年後、齢は八十三の時についにその瞬間は訪れた。
「――誰か助けてぇ!!」
滞在中の村のはずれにある森でキノコでも探していると、助けを求める声が聞こえて。
すぐに声のした方へ駆けつけると、木の上で村の子供が泣き叫んでいて、その下では二頭の野犬が唸り声を上げていた。得物を見る目をしていた。
「俺が囮になる! その間に君は早く逃げろ!!」
助けを呼んでくる余裕はなかったので、俺が囮になって子供を逃がすことに。
「ほらどうした! かかってこいよ!」
二頭とも中型の犬ではあったが、その頃の俺は追い払う手段も力も持っていなかった。
一応収穫用に持っていた鎌で牽制したり抵抗しようとはしたのだが、血に飢えた獣二匹を止めることなどできず、
「ぁ……」
飛び掛かられて喉を噛み千切られた。
激痛と共に血が急激に抜けていって、ぐわんぐわんと頭の中が揺さぶられて、自分の身体が鉛のように重く感じて動けなくなっていく。
叫び声すら発せないし周りの音も遠くなってほとんど聞こえないのに、腿や二の腕、腹を貪られる感触だけはハッキリと分かる。筆舌に尽くし難い痛みだった。
(俺、ここで死ぬんだな)
充分生きたし、もういいか。
俺のような年寄りが死ぬ代わりに未来ある子供が生き残るんだ、万々歳じゃないか。
これで先に逝った両親やみんなに自慢できる。
そうやって幸せな気持ちで痛みを紛らわしながら人生の幕を閉じ――
「――ハッ!?」
何か暗闇の中で青白く光るものに触れた瞬間に目が覚めた。
「青い空、雲、そして森。……俺、死んだんだよな?」
しかし視界に入り込んできたものは全て、この世界のものだった。
「傷が……ない」
上体を起こして喉から腹の下までをさすってみたが、たしかに噛み千切られたはずなのに傷痕すら残っていない。身体のどこにも痛みを感じない。
しかし周りには、俺のものとしか考えられない臓物が散らばっていて。
さらには服だってポンチョ以外ボロボロに破けていて、ほとんど裸同然だった。
「どういうことだ。全く意味が分からん。まだ夢を見ているのか?」
しばらく混乱して自問自答を続けた。
そして冷静になって導き出した答えが。
「アイツの魂……」
カミサマの魂が混ざったことで不老不死になったのだと認めざるを得なかった。
「……マジか。…………マジかよ! うぉお! すげえええっ!!」
やりたいことを好きなだけできる!
世界の隅から隅までを冒険できる!
子供の時に見た夢を全て叶えられる!
などと年甲斐もなく狂喜乱舞した。
俺の人生を歪めたアイツに初めて感謝を奉げた。
そのまた十年後、泣き叫んで恨むことになるとも知らずに――
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